立春☆女神ワーク≪マグダレンホーリーグレイル≫の続き4


わたしが、「マグダラのマリア」のイメージで、一番に思い浮かべるのは、「マレーナ」というイタリアの映画です。
ニューシネマパラダイス」や、「海の上のピアニスト」で有名なジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品で、モニカ・ベルッチが主演しています。

わたしの中でですけれど、マグダラのマリアのイメージは、このモニカ・ベルッチです。
確か、メル・ギブソン監督の「パッション」のなかでも、マグダラのマリア役は、モニカだったので、わたしだけのイメージではなさそうだとも思います。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督も、なかなかマレーナのイメージに合う女優さんに出会えなかったので、映画化は無理かと諦めていたそうですが、モニカ・ベルッチに会って、即決だったそうです。



さて、「マレーナ」。
ネタばれになるかもしれませんが、この映画のなかで、マレーナは、女性性としての悲劇と不幸をこれでもか!というほどに味あわされます。
もう、これでもか!これでもか!って感じです。

初めてこの映画を見たときには、どうすれば、マレーナは、このような悲劇に巻き込まれずに済んだのだろうか?と、必死で考えました。
でも、何回か見るにつれて、感じ方が変わってきたのです。

マレーナは、こういう役割りだったのだろうというか、きっと自分を受け入れていたのだろうと。

セクシーだったり、美しすぎて不幸とは、まさにマレーナに対しての言葉だと思うのですが、あまり弁明したり、主張したりしないのです。
だから、余計、男の人からも、女の人からも嫉妬が昂じて憎まれてしまう。
どんどん、どんどん、絶望的な状況に陥ってしまうのです。

街の女の人たちのマレーナへの憎しみっぷりも半端ない。

けれど、いつも泣いてしまうのですが、最後のシーンで、そうやって、自分をいじめ抜いた人たちのいる街に、マレーナは、敢えて戻ってくるのです。
あの広場の、カフェの前を歩くシーン。
わたしだったら、こうやって、ここを再び歩こうと思うだろうか?と思ってしまいます。

でも、そのときに、その瞬間に、街の人たちのマレーナへの意識が格段に違ってくるのです。
なんというか、マレーナへの思いが全然違ったものになるというか、昇華されるというか。



そして、続く、市場でのシーンが、また泣いてしまうのです。
マレーナをリンチした首謀者の女性が、マレーナに、「こんにちは、マレーナさん!」って、呼びかけるのです。なんとずうずうしくも!です。
一瞬の緊張のあと、マレーナも緊張しながら、でも、ぎごちなく、でも微笑んで「ボンジョルノ」って返します。
すると、今までマレーナをいじめ抜いた女性たちも、その場で癒されてしまうのです。
一瞬で、マレーナ大好き!ごめんなさい!になってしまう、笑。


このシーンも、わたしだったら、きっと許せない!って、ずう〜っと思っていました。
あんなに酷いことされたのに、全部帳消しになってしまうなんてと。


でも、これがこのマレーナが、みんなが嫉妬して憎むほど、きれいでセクシーに生まれついた意味だろうし、これだけの憎しみと恥辱を被っても負けないというか、受け止めて許せる強さの意味だろうと感じたのです。

そして、マグダラのマリアのエネルギーって、こういう強さだろうと。
みんなの持つマイナスの部分をひたすら受容して、それを昇華させてしまう強さ。
それは、防衛する強さではなくて、ひたすら受容する強さ。
積極的行為によってではなく、消極的行為によって、それを為すという強さ。


魚座は、キリストの自己犠牲のエネルギーであり、キリストとは、魚座のエネルギーに他ならないと云われるけれど、その女性版があるとすれば、それは、やっぱりマグダラのマリアなのだろうと、「マレーナ」を見るといつも感じるのです。
だから、真実はわからないけれど、キリストのパートナーという位置に、今というタイミングで、復活しているのだろうと。
そういう意味を持つ、エネルギーだからこそ。


でもね、厳密な意味では、マレーナは自分の力だけで頑張れたわけではない。
マレーナを純粋な想いで見守った主人公の少年が居て、その少年が、マレーナの夫に力を与えたから。
マレーナの夫が、それゆえに、娼婦に身を落としていたマレーナを探し出す勇気を得て、彼女を救ったからです。
だからこそ、マレーナは、街に戻ってこれた。
そして、街全体に許しがもたらされた。



この記事を書こうと思って、検索したら、「マレーナ」のプレス向け資料を読むことが、たまたま出来て、それで、またなるほどね〜と思ったことがあるので書いてみますね♪
これも、またマグダラのマリアっぽいというか。

わたしは、同じ女性としての視線で、「マレーナ」を受け止めていたけれど、男性から見るとまた違う。
以下、その抜粋です。


「この映画を見たすべての女性に、映画を見た後、こう考えてみて欲しい。
”わたしも、こんなに愛されたことがあったのだろうか?
それもそのことを気付かないないままに....。”
監督のジュゼッペ・トルナトーレは、この映画が完成したあとに万感の思いを込めてこう洩らした。
トルナトーレ監督が、ここで語ろうとしているのは、女性は、ただ存在するだけで、すべての男の恋人になる可能性があるということ、また、一言も言葉を交わさずとも、男にとっての”絶対の女””唯一の女”は、あきらかに存在するということである。
つまり、男がもっとも男らしい人生を生きるとき、その男の心の中には、大抵の場合”ただ一人の女”が棲んでいるものだ。
男が人を愛し、自分の家族を大切に思い、友を助けて、襟持を正し、男らしく生きることが出来るとしたら、それは心の中に棲む”ただ一人の女”のためであることが多い。」


こんな女性性の悲惨さをこれでもか!これでもか!と描いたトルナトーレ監督の思いが、こういうものだったとは、男性って....。

でも、これもまた真実なのでしょうね。

その”絶対の女””唯一の女””ただ一人の女”が、「マレーナ」であることは、間違いないようですし、ゆえに、そういう究極の女性性ゆえ、キリストの花嫁とも呼ばれるのでしょうし。


もちろん、かなりハードルの高いあり方ですが、海王星魚座時代には、このような「マグダラのマリア」的な強さと優しさのエネルギー。
つまり、≪マグダレンホーリーグレイル≫のエネルギーが、満を期して、わたしたちに手渡されそうです。


それを受け取るか、どうかは、個々人に委ねられていることは、もちろんです☆


でも、わたし個人としては、このエネルギーと共に歩めるものならば、歩みたい、そんな風に感じるまでに、2008年からのワークで、ちょっとは成長できたかもしれません、笑。

それが、今まで開催され続けてきた、「月の女神学校」「金星の女神学校」「ヴィーナスファンデーション」の意義でした☆

みなさまも、ご一緒にいかがですか?、笑。
ぜひぜひ☆


マレーナ」は、もちろん「海」という意味です。