魂の一貫して揺るがない愛≪マグダレン・ホーリーグレイル≫3


ハートの聖杯とは、「感情」なのです。
わたしたちが、自分のすべての感情(光の感情も、闇の感情も)を受け止める器をハートに用意できたときに、わたしたちは、天国への階段を昇ることが出来るのです。
(実は、これが「ハートアルケミー(ハートの錬金術)」なのですが。)
なので、当サロンでは、霊的成長のステップとして、「全内的統合ワーク(12ワーク、旧影の部分を見るワーク)」をとても重要視しているのです。


以前、映画「マレーナ」に絡めて書きましたが、わたしたち人間、3次元に生きるすべての人々のなかに闇(負の感情)と、光(正の感情)があります。
どんな人にでもです。

光の部分(人に受け入れる部分)だけで生きている人は、いません。
闇の部分を自覚していない場合は、潜在意識に認めたくない感情として押し込めて、意識化できていないだけです。
なので、ふいに、イレギュラーなことが起きたりしたときに、その負の感情が、潜在意識から押し出されて、周囲の人を驚かせたりします。もしかしたら、本人が一番驚いているのかもしれませんが...。


そういうときにこそ、自分の負の部分(認められない見捨てられた感情や、自己の未熟さ)を認めるチャンスなのですが、善人でありたい、いい人でありたいという意識が強い人、特別意識が強い人ほど、起きていることを否認してしまい、認めることができません。(宗教的であったり、スピリチュアルよりの人が、よりそのような傾向を持ってしまうということが、4次元ナディの重要テーマでもあります。)

また、認めたくない部分を病的に「否認」にして、現実を拒否する人もいるでしょう。
そういう人が、影の自分を失って、統合失調症や、分裂病などの重篤な精神の病を発症する種を持ってしまいます。
うつ病は、自分のなかに溜め込んだ激しい怒りを認められない人が、発症する傾向が強いようです。
怒りを抑えるのに、精神の力を使い果たしているので、他のことに精神の力を使える余力を失ってしまうのです。

鍵は、そういう自分の負の部分も認めて、自ら健全にケアしてあげることなのですが、そもそもそういうことの仕方を知らずに育った人も多いのです。養育者(多くは、母親)に、自分の影や負の部分を全く許されることなく育ったケースなどです。
(そういう部分をフォローするワークが、「全内的統合ワーク」の位置付けです。)


さて、映画「マレーナ」に話しを戻そうと思います。
美しいマレーナに多くの男性が虜になってしまいます。そして、そうなればなるほど、女性陣のマレーナへの嫉妬も昂じてエスカレートしてゆきます。
そして、男性陣も「どうせオレなんて相手にされないんだろ!」的な嫉妬で、マレーナを貶めてゆくのです。
でも、そうした中でも、マレーナは、すべてを、しっとりと受容してゆきます。
さすがに、女性陣に酷いリンチをされたときには、泣き叫びますが、あとは、自分の運命として享受しているかのよう...。
まさに戦時中のイライラのスケープゴート(生贄の羊)です。

以前書いた記事の部分がわかりやすいので、転記してみようと思います。

「セクシーだったり、美しすぎて不幸とは、まさにマレーナに対しての言葉だと思うのですが、あまり弁明したり、主張したりしないのです。
だから、余計、男の人からも、女の人からも嫉妬が昂じて憎まれてしまう。
どんどん、どんどん、絶望的な状況に陥ってしまうのです。
街の女の人たちのマレーナへの憎しみっぷりも半端ない。
けれど、いつも泣いてしまうのですが、最後のシーンで、そうやって、自分をいじめ抜いた人たちのいる街に、マレーナは、敢えて戻ってくるのです。

あの広場の、カフェの前を歩くシーン。
わたしだったら、こうやって、ここを再び歩こうと思うだろうか?と思ってしまいます。
でも、そのときに、その瞬間に、街の人たちのマレーナへの意識が格段に違ってくるのです。
なんというか、マレーナへの思いが全然違ったものになるというか、昇華されるというか。

そして、続く、市場でのシーンが、また泣いてしまうのです。
マレーナをリンチした首謀者の女性が、マレーナに、「こんにちは、マレーナさん!」って、呼びかけるのです。なんとずうずうしくも!です。
一瞬の緊張のあと、マレーナも緊張しながら、でも、ぎごちなく、でも微笑んで「ボンジョルノ」って返します。
すると、今までマレーナをいじめ抜いた女性たちも、その場で癒されてしまうのです。

一瞬で、マレーナ大好き!ごめんなさい!になってしまう。

でも、これがこのマレーナが、みんなが嫉妬して憎むほど、きれいでセクシーに生まれついた意味だろうし、これだけの憎しみと恥辱を被っても負けないというか、受け止めて許せる強さの意味だろうと感じたのです。

そして、マグダラのマリアのエネルギーって、こういう強さだろうと。
みんなの持つマイナスの部分をひたすら受容して、それを昇華させてしまう強さ。
それは、防衛する強さではなくて、ひたすら受容する強さ。
積極的行為によってではなく、消極的行為によって、それを為すという強さ。

魚座は、キリストの自己犠牲のエネルギーであり、キリストとは、魚座のエネルギーに他ならないと云われるけれど、その女性版があるとすれば、それは、やっぱりマグダラのマリアなのだろうと、「マレーナ」を見るといつも感じるのです。

だから、真実はわからないけれど、キリストのパートナーという位置に、今というタイミングで、復活しているのだろうと。
そういう意味を持つ、エネルギーだからこそ。」


「この映画を見たすべての女性に、映画を見た後、こう考えてみて欲しい。
”わたしも、こんなに愛されたことがあったのだろうか?
それもそのことを気付かないないままに....。”
監督のジュゼッペ・トルナトーレは、この映画が完成したあとに万感の思いを込めてこう洩らした。
トルナトーレ監督が、ここで語ろうとしているのは、女性は、ただ存在するだけで、すべての男の恋人になる可能性があるということ、また、一言も言葉を交わさずとも、男にとっての”絶対の女””唯一の女”は、あきらかに存在するということである。
つまり、男がもっとも男らしい人生を生きるとき、その男の心の中には、大抵の場合”ただ一人の女”が棲んでいるものだ。
男が人を愛し、自分の家族を大切に思い、友を助けて、襟持を正し、男らしく生きることが出来るとしたら、それは心の中に棲む”ただ一人の女”のためであることが多い。
 」

「こんな女性性の悲惨さをこれでもか!これでもか!と描いたトルナトーレ監督の思いが、こういうものだったとは、男性って....。
でも、これもまた真実なのでしょうね。

その”絶対の女””唯一の女””ただ一人の女”が、「マレーナ」であることは、間違いないようですし、ゆえに、そういう究極の女性性ゆえ、キリストの花嫁とも呼ばれるのでしょうし。 」


以上のようなエネルギーが、、海王星魚座時代には、欠かせない「マグダラのマリア」的な強さと優しさのエネルギー。
つまり、≪マグダレンホーリーグレイル≫のエネルギーです。

「魂の一貫して揺るがない愛」の体現です。

今年の立春に開催してから、確かにこのエネルギーが、わたしを教え、導いてきてくれたと感じるのです。
そして、秋の秋分の日に、さらにヴァージョンアップされたエネルギーとして、みなさんの元にもお届けするようにというガイダンスなのです♪