頂いたメールです☆(シェキーナー開催に関して)

お世話になります☆

たくさんのフォローをありがとうございます。

返信遅くなりましたが、早くも次の女神学校が開催となりました。意外でありつつ、魂の方はすごく納得というか、喜んでいます(笑)

ターラの復習と自分でいいながら、再開催の流れについていくのがやっとで、またドバッとわけがわからないくらいに出て来ていました(苦笑)。でもターラの記事をざっと読み返してみると、魚座時代の犠牲から再誕生するであるとか、イルカとスターチャイルドの繋がりであるとか、フォローアップの時の虹のお話であるとか(音楽で虹のサインをもらったこと=人工の虹、みたいな)、アルテミスの境界線のテーマの成熟した形であるとか、すべて繋がっていたんだな、と改めて驚きながらも、やや慌ただしく。

で、追加で使用中のエッセンスですが、ミカエルがその守護のもとに4次元な自分をまざまざと見せてくれるように、プロスペリティは私の中にある豊かさに対する罪悪感をまざまざと見せてくれました。誤った美学を持ち続けていた女性性に向き合った時、同時に強い罪悪感が浮上してきたので、それを感謝へと変えていきたくて使用開始したのですが、そのために手放すべきものがこんなにあるのをまずは見なさい、と教えてくれているような。

まずは、母親に対する罪悪感。母親を犠牲にして幸せになろうとしているのではないか?という。主人に対する罪悪感。ワークを受け続けるのにもお金というエネルギーが必要ですし。そして、スピリチュアルなお仕事でお金を頂く罪悪感。こんな未熟な私に受け取る価値はない、というように。そして、4次元的な自分を見つめると、私に関わってきたありとあらゆる人たちに対して罪悪感、過去生でのあらゆる失敗についての罪悪感が、とめどなく。

ですから、誤った女性性の美学とともにそれらの罪悪感も手放したいという思いで(それらの関連すらまだ掴めていませんでしたが)ターラに臨んだわけですが、フミさんからの回答ともなった、女性性の傷についての記事で、罪悪感と良心についてもタイトルにかがげられていて、「これが知りたかった!」という思いで読みました。が、その良心のあり方については深い感銘を受けたのですが、姦通による罪悪感、性的な犠牲となった女性性の傷というのに、実は私自身一方的に被害者だった記憶というのがあまりなく、自分が抱いている罪悪感と共通する部分があまりなくて、ちょっと混乱しました。もちろん、FABのおかげで多次元的に見れば、高次の守護の中で出てくるべきものがが出てきている、という信頼感があったし、そしてターラこそ、心魂の混沌を鎮めるエネルギーであるのですから、流れに身を任せよう、と。

で、さらに、頂いたフォローのメールで、女性性の憑依存在に向き合う経験がこれからヒーラーとして役立つとおっしゃっていただきましたが、これに対しても、私の男性性はちょっと反発を感じていました。女性性の依存や犠牲の傷の癒しに付き合うのはもううんざり、と思ってしまうところがあったので。自分でも変ですが、自他ともに男性性の権威意識や傲慢さを手放させる(やり込める?)方をもっと頑張りたい、みたいに思ってるところがあったんですね(まだソフィアを消化できてないわけです)。

で、何だか釈然としない気持ちのまま時間が過ぎていったのですが、たまたま年季の入った(?)主婦の方々と語り合う機会があって、そういう方々って、もともと男性性より女性性の資質が豊かというか、本当に長年家族に捧げつくしてきてそれが当然という感じで、それでいて、意外とご主人方をコントロールもしていて、若輩者の私はいつも感銘を受けるのですが、とあるエピソードから、私自身の女性性の男性に対するコントロール欲求に気づき、ふっと、私の男性性の傷にも男性に火がついたのです。

それは、「姦通の罪を犯す女性、性的な犠牲となった女性」への憎しみと軽蔑へと繋がっていたのです。考えてみると、女性として生きた過去生(思い出せる限りでは、に過ぎませんが)での私は、思う人への愛が報われず死を選ぶというパターンが多かったし、今生でも死なないにせよ同じパターンを繰り返していて、母親もそういうタイプだなとも思っていました。それで、奔放な女性に対して羨ましいと思う反面、ふしだらだという軽蔑する意識もありました(おそらく母親の道徳意識から)。それが、戒律を犯すことを良心によって乗り越えた自立した愛の例えであるにしろ、女性が一方的に性的な犠牲となって傷ついてきた歴史についてにしろ、男性を虜にする女性(自分の愛する男性を奪われるという意識から)という意味で、憎んでいたのだな、と。

で、男性性として生きた過去生でも、やはり愛が報われなくて傷ついて女性に不信感を持ち軽蔑し、自ら女性を遠ざけて人生を終えたり、女性のために人生をぼうにふってしまったとかいう感じで、そういう男性性の女性性への憎しみに思いを馳せると、受容性に満ちた女性性をものすごく追い求めているのに、そんな女性像は幻想だという怒りと寂しさがリアルに湧いてきました。そして、そのような男性性というのは、そういう感情を抑圧して、自分の偽りの正義を追い求め(6次元ナディ)、女性を支配しようと必死だったんだな、と。

それに気づいた時、何で愛されもせずただ犠牲にならなきゃいけなかったの?という苦しみから抜けられないままでいた女性性の自分が、犠牲という歪んだ美学のもとに(たとえば貞節を守るために死を選ぶという犠牲も含め)、相手に罪悪感を持たせることで、相手を縛り支配しようとしていたことに気づき、ここでハタと、ルシファーにそそのかされてエデンの園のリンゴの実を最初に食べたのはイブだった、というのを思い出し(それがシェキーナーに繋がっていたのですね)、さらに5次元ナディの「女性性は、最初は男性性を癒す自信があったけれども、困難だったため男性を軽蔑する意識にすりかえ、女性の方が優れていると思おうとした。しかし男性の反撃を受けて犠牲と罪悪感を受け入れた。」というくだりを読み直して、被害者意識を隠れ蓑にして、男性への軽蔑と優越感を抑圧しながら、愛という名のもとに男性を支配しようとしていた、自分の過ちを自覚しました。

このように互いに憎みあいながら互いに支配しようと戦い続けている自分の中の男性性と女性性にほぼ同時に気づいた時、どちらも同じように苦しみ、同じようにお互いを求めていたんだ(本当は愛されたかっただけなのだけど、愛し方が分からず支配しようとした)、ということを急に理解しました。どちらも互いに惨めな思いをしてきたけど、それを憎しみに変えることに何の意味があるの?そこにこそ共感は生まれるんじゃないの?みたいなところもあり、許しの感情が自然と湧いてきました。


その前に、そういう主婦経験の長い方々とのお話に戻ると、犠牲や依存の傷も垣間見える反面、長年の経験から受容性の深さも養ってきているんだなぁと感銘を受けることも多く、これらの女性性が解放された暁にはどれだけの可能性が広がるんだろうと思いを馳せていたら、必ず女性性を通らないと男性性は癒されない、というナディの一文を思い出したんです。これまで私の男性性は女性性の不完全さを憎んでいたけど、男性性だけで頑張ってもどうにもならないんだ、まずは女性の女神性を信頼して癒されていいのだ、と肩の荷が降りたように思いました。そして、なおも女性性(の可能性)を求め信じている男性性の自分のひたむきさを感じました。そして、意外にも、そのように感じている男性性の自分は、以前ほどとんがってはいませんでした。焦ってプロセスを飛ばすことが賢明ではないこと、そして、支配から来る高揚感ではなく、理解や共感の穏やかさを理解し始めたというか。どういう展開になるかは分からないけど、まだまだ根気よく女性性を見つめていこう、と決意しました。

そういう意味では、フミさんからのメールでの将来的な指針「女性性の憑依存在に向き合う経験」にも納得できるような気がしてきていました。そしてその穏やかな気持ちで「女性として憧れと思っている人を、実は抑圧された嫉妬と憎しみを抱えながらも、表向きはカリスマ化してしまう」という自分の感情を見つめた時、男性性にとっての、完璧な受容性を持っていない女性性への不信感が、自分が理解できないものがこの世にあるという恐れを生み、それを自分にないものとして尊ぶべきなのか蔑むべきなのか分からない混乱状態を示しているように思いました。でも、健全な女性性への信頼が芽生えてきてみると、つまりは女性性の美は権威ではなくて癒しなのだ(恐れる必要はないということ)、ということを思い出し、パラスアテナ→ソフィア(→シェキーナー)と続くセレスタイトのグリッドの学びなのかな?と。


その時点で、シェキーナーのエントリー記事を読み、それだけで自分の中の多くの思いが癒されていくのを感じました。この前スターチャイルドの過去生をおぼろげに思い出した時に、「カルマなんかなかったその時代に約束してきたこと。人間の歴史はカルマの清算ということがまるで義務であるみたいに費やされてきたけど、人間は義務のために生きてるわけじゃなくて、本当は原初の約束を叶えるという喜びのために生きている。」というメッセージを受け取っていたのですが、長らく女性性の憑依存在と向き合いつつ、「あんたこそカルマの権化みたいな存在じゃないか!」と怒り半ば混乱半ばで取り組んでいた最中だったので、「あなたの使命は、痛みに由来するのでは、ありません。創造の欲求から生まれたのです。」という最初の文を読んで、もう、ドッと癒されました。そういう助けも多大にあってこそ、今回の男性性と女性性の和解の始まりへと繋がったと思います(もちろん、シェキーナーの理解はまだまだこれからですが)。そして、さらにどこへ繋がって行くんだろう??どこまで進んで行けるだろう?ととても楽しみです。

今回思ったのは、このように一巡の癒しの過程を言葉で説明すると、理屈で解釈するのは簡単なような気がしてもくるのですが、誰かに解釈してもらってすべての答えを教えてもらうのではなく、ひとつひとつの感情を体験しながら自分で未知の扉を開いていく経験というのは、ある種創造の喜びに繋がっているようにも思いました。そして自分が意志したことのために、必要な情報やエネルギーがそろい集まってくるというのは、実は、とても豊かなことなんだな、と。やっと罪悪感を手放して感謝と安心感の方に改めて向きを直せそうです。このような機会を与えてくださっている天とフミさんにはいつも感謝です。

追伸:シェキーナーに備えて気持ちの準備をしていましたら、なるほど、母なる女神であるとか処女神に対しては信頼と親しみを持てるようになったけど、花嫁としての女神、男性性にエネルギーを与える女神となると、その未完成形の「奔放な女性」像につながり、実は憧れる一方、憎しみや恐れを感じてきた自分(女性性の自分・男性性の自分ともに)に気づきました。というかレポートにすでにそこまでの道筋を如実に書いておきながら、今さらですが(苦笑)。その部分にシェキーナーから取り組み始めるというわけですね。またまた長い道のりになりそうな予感ですが、そのスタート地点までぎりぎり追いついてこれたことがまずは嬉しいです。


メールありがとうございます♪
男性性女性性の統合のテーマは、わたし自身もまだまだ未完の状態なので、学びつつ進んでゆくのだと思いながらも、かなりいろいろ複雑です、苦笑。

母なる女神であるとか処女神に対しては信頼と親しみを持てるようになったけど、花嫁としての女神、男性性にエネルギーを与える女神となると、その未完成形の「奔放な女性」像につながり、実は憧れる一方、憎しみや恐れを感じてきた自分(女性性の自分・男性性の自分ともに)に気づきました。

このシェキーナーからのテーマは、深いですよね。
まさに適切な観点からのご指摘なのですが、今までの金星の女神学校は、「母なる女神」や「処女神」についての学びだったのです。
こちらの女性性は、ある意味、癒された無条件の愛の、そして、聖化された天界の女性性ですけれど、「花嫁としての女神」は、確かにまだ未完成ですし、いろいろ歴史的にも、女性性の光と影の影の部分のほうが強いのだと思います。
女性にとっても、男性にとっても「敵」というか....。
ゆえに、抑圧され、もっとも傷ついている女性性の部分でもある。
そして、この女性性は、実は、どんな女性のなかにも、眠っている真実の部分でもある。



つまりは女性性の美は権威ではなくて癒しなのだ(恐れる必要はないということ)、ということを思い出し、パラスアテナ→ソフィア(→シェキーナー)と続くセレスタイトのグリッドの学びなのかな?と。


このことは、わたしがグリッドの説明で、書いておかなければならなかったことでしたが、汗。まさに、その通りなのだと思います。(まさにこの3つのグリッドは、よく似ています、その要が、セレスタイトの3つのタンブルなんですね。)

パラス・アテナの美(性的な魅力も含む)、ソフィアの高次と通じる能力(古代の巫女的要素)は、「権威」ではなく、「癒し」なのだということ。
これらは、男性に対抗するための「権威」として用いられがちなのだけれど、本当は「癒し」にこそ用いられるべきものなんだということ。
書いていて、わたしは、この点でたくさん過去生も含め、間違えてきたような気がしているのですが.....、汗。
また、それによって、非常な苦しみを味わってきたのも事実で.....。

また、わたしは、それを持ってなかったわ!という女性も、そういう部分を羨望と嫉妬から憎しんでいると、いつまでたっても、それを自分の「癒し」という女性性の創造性として用いることが出来ずに、女性性として自信が持てないままになってしまうという.....。

そして、そこに傷ついた男性性も絡んでくるわけだし.....。これが、やっかいな相手なんですよね、また、苦笑。

書いてみて、改めて、簡単な一筋縄にはいかないテーマだけれど、これこそ、真に輝ける女性性の解放と、受容性のアップのためには、欠かせない道程ですね〜。

まあ、焦らず、やってゆきましょう♪
≪シェキーナー≫は、まず、このテーマの扉を開きます!第一弾です!
素敵なレポートをありがとうございました☆