巫女としてのグラマー(幻惑)の元となるのが、≪アフロディ―テ≫的渇望感★2


≪ソフィア≫
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結論を書いてしまうようですが、
今、「人間」として生まれてきている女性のなかで、
すべての男性を救済するレベルの人は、
いないと、わたしは思っています。


じゃ、なんで「女神学校」なんてやっているの?
と言われそうですが、
まあ、それは、わたしの意志とは言えないという部分も
あるのですが、
チャネルとして理解しているのは、
特別な一人の男性に対して、巫女的というか、
女神的に在ることは、可能なのだろうと思っています。



思い返してみれば、
たとえば、村上春樹さんの作品にも
必ずといっていいほど、巫女的な女性は出てきます。
あっちの世界と、こっちの世界を繋ぐ存在として。
そして、巫女的な役割の女性と、実際のパートナーになる女性の
二人が、主人公の男性に絡んで、物語が進んでゆきます。


たとえば「ノルウェイの森」では、直子と、緑です。



鈴木先生」も、そみちゃんと、実際の恋人の麻美さんがいます。
たぶん、これが男性の理想のパターンなのでしょうね。



話が前後しますが、
初めて「ノルウェイの森」を読んだとき、緑を、
とても可哀そうというか、惨めに感じたものでした。
だって、
主人公の「僕」は、直子に片思いなんだもの、
緑がどんなに頑張ったって、直子には、叶わない、
彼の心のなかに、直子がいるままで、愛するなんて
惨めだし、哀しいわ!と思ったのです。


その後、しばらくして読み返したときには、
直子の魂は、実際の女性として、浮かばれないわと思い、
緑が幸せだし、結局のところ、トオルは、
緑がいたからこそ、現実に生きることが出来た、
そういう意味では、本当にトオルを救えたのは、
緑で、直子は、ただ彼を打ちのめしただけ。
と思いました。


で、結局のところ、
女性性には、つまり「諦観」というものが、
必要とされるのね。
という結論に至りました。


男性には、手に入らない巫女的な存在と、
実際に傍にいてくれる二人の女性が必要なのです。
これを受け入れないとダメなのか〜という
「諦観」です。


でも、実際の傍らにいる女性も、
その「諦観」を受け入れたときに、
その男性にとっての「巫女」になるのかも
しれないと感じたのです。
あ〜、そういう仕組み?って。


だから、「巫女」および、「女神」
になるということは、
「諦め」というものを、自分のものに
出来るくらい、豊かで、愛情に満たされていないと
哀しい「巫女」になってしまうと
理解したのです。


だから、「女神学校」は、
豊かで、愛情に、またすべてに満たされる
女性となるべくの内容になっています。


(続きます)


5月15日(木)ウエサク満月☆女神ワーク≪ソフィア≫

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