パーソナリティ(自我)統合と、「ミカエルロータスシステムワーク(第五チャクラ開花)」ワーク☆2


さらに女流作家ジョージ・エリオットの例の部分もわかりすいので、必要なところを簡潔に抜粋してみたいと思います。


ジョージ・エリオットは、なかば清教徒的で、なかば異教徒的であった。
そして、この二面性が彼女のなかで融合しなかったので、彼女は、たえず悩みと憂鬱のとりこになった。

ジョージ・エリオットの人格の高潔さと積極的な親切さを知っているものは誰でも、彼女が残忍であったとは、非難しないであろう。
だが、人間性を鋭く観察する人の眼を信用すれば、その表情には、冷淡でずるい無意識的な残忍さが、ときどき顔をのぞかせていたようである。

ここで大切なことは、無意識という言葉である。


これらの観察は、輪廻論者からすれば、ある仮説に還元することができる。
なかば清教徒的、なかば異教徒的欲求は、彼女がある前世を異教徒として送り(ことによったらギリシャの売春婦か歌手か、ダンサーかまたはアテネの政治家の情婦であったかもしれない..)
また他の前世を苦行者(たぶん中世の修道院の修道僧)として送ったかもしれないということを暗示している。

そのパーソナリティ(自我)においては、異教徒的衝動は、その顔や姿のために(彼女は、不器量な娘として生れていた)自由な表現を拒まれていたわけである。

加えてヴィクトリア朝時代に牧師の娘として生れたという環境上の影響が、修道僧としての彼女の経験から得た正義への衝動を優位にしたかもしれなかった。

彼女の眼鼻立ちの粗野な動物性は、たぶん異教徒の化身のときに美を濫用したカルマの結果だったかもしれない。

ヴィクトリア朝の牧師の不器量な娘として生れた彼女が、この世に生まれてくる際に心に抱いていた目的は、残忍性から親切さへの進化を完成することであったかもしれない。
あるいは、好色の罪を償うことや、また僧侶の知性とより人道的な価値観のと調和を達成するということだったかもしれない
。」


抜粋内の「異教徒的」という言葉が適切かどうかは、わかりませんが、著者(ジナ・サーミラナ)の西洋的文化的背景から推し量って考慮する部分はあると思います。
まあ、その点を考慮しても、有効な視座を示していると思い、抜粋しました。


このように、誰もが、いろいろなパーソナリティ(自我)の統合過程をもって、ここ3次元で生きているのだと理解すること。
もちろん、自分もです。
それが、一番大切なことなのだと思います。
そして、自分のそういう相反するパーソナリティ(自我)を自覚できるスペースを持つということ、その訓練も必要で、それを支えるのが、「ミカエルロータスシステムワーク(第五チャクラ開花)」ワークであるということです

続きます。