そして、「イクナートン」に続きます

さて、続きの「イクナートン」、アメンホテプ4世、別名イクナートン(前1379年ころ〜前1362年ころ)ですが、わたしは、なぜかこのファラオにこだわりがありまして、それは、なぜなのかわかりません。


しかも、通説とは、違う感覚なのです。
通説、いわゆるスピリチュアリストの間では、聖人か、もしくは、よくある感じで、宇宙からきた特別な人という扱いをされています。
特別な人なので、すごい人なので、悩んだりしていないという感じで捉えられていることが多い人なのですが、わたしは、この人も、「ジャンヌダルク」と同じように感じるのです。


この人が有名なのは、宗教改革をエジプトで行ったからです。
多神教から、一神教に改宗させたのですね。


わたしは、なぜかこの人の心情に通じてしまうというか、それも通説とは違うので、正しいものという保証は全くないのですけど、感じることを書いてみます。

 
この人の一神教への宗教改革は、やはりお告げによるものなのだと思うのです。
それを、この人は、行うことを、任務として受けます。けれども、それは、当時の神官たちの大反対を受けるわけです。
妻であるネフェルティティとともに行うのですが、ネフェルティティの影響が悪いのだとして、神官たちは、この二人を対立させるために、たくさんの画策をします。
自分は、これが、正しい神の道ゆえと信じ、確信して、それを行った。けれど、たくさんの反対と迫害および、理想を掲げても、他国の侵略から、神は守ってくれない。これで良かったのだろうか?本当に自分は、そのために神に選ばれしものだったのだろうか?
自分の誤った盲信や妄想でなかったと、果たして自分は、もう自信を持って言うことができるのだろうか?
ネフェルティティを信じていいのだろうか?
自分は、間違っていたのではないだろうか?


ネフェルティティを疑った結果、自分の娘を妻にします。
のちのツタンカーメンの妻になるアンケセナーメン
ネフェルティティから、エネルギーを受け取れなくなったので、一番エネルギーが強い妻(ネフェルティティ)の娘のなかで一番すぐれた娘と必死に繋がろうとする。
ネフェルティティも、夫の裏切りに傷つきます。なぜわたしでなく、神官たちを信じるのか?

とにかく一神教への改革は失敗に終わり、敗北者として、失敗者として、エジプトの王としては、存在ごと抹殺される。

そして、閉じ込められて死にいたる。毒殺ともいわれていますけど、毒殺では殺せなかったので、力ごと封印されたという説が有力なのです。


失敗ですよね、それが彼の使命だったとしたら、この3次元的には、大失敗じゃないですか?
わたしは、この人のことを思い浮かべると、とても魂が苦しくなるのです。
「ジャンヌ」のときのように。


正しいことって、なんでしょう?
正しい高次からのガイダンスの基準は、なんなのでしょう?
なぜ、多神教から一神教に、都を移転してまで、改宗する必要があったのでしょうか?

何が盲信ではないと言えるのでしょうか?

神から特別に使命を受けることは、簡単なことではない。それは盲信と狂信と常に紙一重なのだということ。


それも、現状を否定することと共に、改革や変革を請け負った場合には特に。ジャンヌやイクナートンのように。


それも、≪アルテミス≫のパラドックステーマなのだと思うのです。


それで、また続き書きます♪