そして「モーセ」へと続く
何が正しいことなのか、そしてわたしたちは「正しい」ということを、常に依代(よりしろ)にしようとしますが、それは、真の依代には、なりません。誰か、権威ある存在が正しいと言ったという、その正しさである場合は、特に。それは、いわゆるチャネルの情報であるなら尚更です。
何が正しいのかは、人によって、時代によって、いつだって、変化するものだからです。
正しいと思ったそばから、それは覆えされるのです。
だから、人が言った「正しさ」を、自分の聖域を守るための盾や、依代にしようとした場合、いつだって、それは、いずれは綻びが出る運命なのです。
そのことを知っているのか、知らないのかは、大きな差となります。
さて、モーセは、出エジプト記で有名ですし、シナイ山から彼が啓示を受けたことによって、「十戒」がもたらされ、イスラエルの民に、これまた従来の多神教を捨てて、一神教へと導くのです。
この歩みだって、初めこそ、エジプトでの奴隷生活から解放されるのだと民は、付き従うのですが、荒野の苦しい生活のなかで、モーセを恨むようになります。モーセも、全然いい付けを守りきることが出来ない民に怒ったり、うんざりしたりします。そのたびに、彼を導いている神から、諭され、また民をひきつれて、自由の地カナンに向かう、けれども、モーセ自身は、カナンの約束の地に入ることができないのです。
ただ、イクナートンと違うのは、モーセは、常に神の導きの元にゆるぎはしなかったということ。ゆえに一神教の基礎を創り上げます。
これは、本当の意味は、他の偶像を廃止することではなくて、自然を否定することでもなくて、自分自身を依代にするための、人間の新たな段階への導きだったのでしょう。
そのために今まで頼っていた依代(今までの自然霊的な神の偶像)から一旦引き離されなければならないということです。
つまり、この視点で言えば、高次は、わたしたちに、何が正しいのか、正しくないのか、自分で決めるように、促したのです。
つまり、外側の神を否定することによって、自分の内側の唯一の神を見出すために、まず唯一の神を信仰する段階へと導いた。
いづれ、その唯一の神を、自分の内側の聖域(サンクチュアリ)に見出すことができるように。
それが、世界樹(ユグドラシル)の本当の意味。
そのプロセスが、≪アルテミス≫であり、アルテミスのなかの悪魔のタロットカードのイニシエーションなのだと思うのです。
「怒り」が、わたしたちを動かすのです。
始まりは、それでいいのだと思うのです。
ジャンヌは、イギリス兵に乱暴されて殺された姉ゆえの、イギリスへの義憤。
モーセは、同胞への、エジプト人からの暴行への義憤。そしてモーセが、怒りに任せて、そのエジプト人を殺してしまったときから、モーセへの神の語りかけが始まるのです。
だから、アルテミスゆえの義憤も嫌ってはいけないのです。「悪魔」を真に受容して、愛したときに、「悪魔」が「天使」に変容するのですから。
そして、そのプロセスには、多大な犠牲と痛みが伴うのです。自分のなかの最も神聖なものを否定され、踏みつけられるという、そうされたとしても、守りきれるもの、それが真実なのでしょう。
この世に対する、アルテミスの義憤は、尊いものなのです。
ジャンヌも、イクナートンも、モーセも正しい。みな存在として正しくない存在などいないのです。
上手くまとめられませんでしたが、この内容が、次の金星の女神学校「パラス・アテナ」のテーマに繋がってゆくので、自分なりに一生懸命書いてみました。
よくわからないところは、またフォローを入れられれば良いのですが、どうでしょうね?、苦笑。
簡単なテーマではないので、今のところはこれが限界かな〜。
わたしたちは、誰でも自分のなかの聖域に「世界樹(ユグドラシル)」を育てることができます。誰でもです。
そういう意味で、一神教とは、わたしたちを平等にするのです。
誰かが、特別な使命を担っているのではなく、誰かが特別に高次に選ばれているのではなく、誰もが特別に選ばれているのだということです。