金星の女神学校≪アルテミス≫の感想です7

金星の女神学校に参加させて頂き、ありがとうございました。

今回はアルテミスの中に私が待ち望んでいたテーマがありましたので、事前にはやる気満々だったのですが、ガイダンスは、読めば頭では分かるけど、読むほどにハートが理解できなくて参りました。

当日は夕方ぐらいからものすごい憂愁に襲われ、日常がまったく目に入らなくて、何も悲しいことを思い浮かべていないのに涙がこみ上げてくるという感じでした。

9時をちょうど過ぎた頃にはまたもやテレビでは尾崎豊(モノマネですが)、今回は逆にちょっとうんざりしてしまって(もちろん彼の責任ではないですが)10時にはガイダンスに再度目を通すも、自分の弱点に落ち込んでしまって。アチューメントでは何だか疲れ切ってすぐに寝てしまいました。

翌日目が覚めても、いつものアチューメントとは違う、孤独感。あぁ、ここから孤独な作業を始めよということかな、と納得は納得です。そしてその後、ひとつまたひとつと関連すると思われる事柄に出会い、でもそこから真実を見出す作業は産みの苦しみを伴っていて、あまり楽しい作業ではありませんでした。

そして、真実を重ねて行っても、書いても書いてもスッキリしない。まとめられない。なぜだろう、とモヤモヤしていたら、フミさんがブログでパラスアテナの準備としてランク付けや権力について触れていて、まさにこれらが引っかかっているんだ!と思い当たって。それぞれの個性はともかく、やはり世の中にはランクというものがあるなぁと、そのことにどうしようもない諦観を感じてたんですね。そして愛が大事と言いながら、権力に対して敏感な自分も確かにいて、愛情関係にそういったランク付けや権力関係を持ち込んでは勝手に絶望してしまっていたのだとブログを読んでやっと気付かされ、でもそのテーマが近々癒されることができるのだとしたら、安心してグダグダできるというものです(笑)。


話はアルテミスに戻りますが、まず思い出したのは3月の誕生日に見たDVD、リュック・べッソンのジャンヌダルクです。今思えばアルテミスの準備だったのですね。あの映画はジャンヌの高潔ではなくて、彼女の宗教的狂気がテーマで、私にすれば救いのない、とても後味の悪い映画でした。女神性を地に叩き付けたかのような描き方について、ただ怒りだけではなくて、自分の中の恥ずべき部分を、あの映画に見ていた苦痛がありました。最終的に「私が見たものは幻でした。」と告白するジャンヌ。正義の名の下に殺人を犯した血まみれの聖女。誰よりも愛と平和を追い求めていた彼女のはずなのに。しかしこれもまた歴史の真実の一面なのかもしれないと、今は認めることができます。自分の中に確かに偽りのジャンヌがいるのですから。


「優性を求める気持ち、特別な善や聖であることを望む偏った傾向」・・・これについては昔から自分で自覚していたにも関わらず、実際スピリチュアルな道を本格的に進み出した時に、まさにこの傾向のために、霊的能力やそういう能力を持っていた過去生などを追い求めてしまい(それはあからさまに求めたわけではなかったんですが、それらが得られなかった時の失望感にけっこう打ちのめされていたんですね)、自分の原点を求める旅がいつの間にか自分の価値を過去に探す旅にすりかわってしまって、自分が自分であることが苦しくなっていました。もちろんその過程では出会うべき真実も数多くあり、必要な体験だったと思います。

実際、いくつかの過去生では、主に、自分を犠牲にすることで「特別な善や聖」を手に入れようとしていたように感じます(アチュの前に悲しくて仕方なかったは過去生の自分だと思います)。でも、今みたいにスピリチュアルがポピュラーになってきてからは、「犠牲はもういらない、豊かになっていい」というスローガン(?)が優勢で、そうなると、犠牲になることなく豊かになれるための善といったら、誰もが認めるような特別な能力でしか実現できないように思えてしまっていました。ここでポイントなのは、豊かになりたいという気持ちより、至高の善を求める気持ちがより大きいゆえに、だからよけいに手ごわいというのもうなずけるわけなのです。そしてまた、人より特別になりたいというより、逆に自己卑下の気持ちから、せめて人並みの能力を持たなければ生きて行けない、というアンビバレントな自分もいるのだから、余計にややこしかったんですね(苦笑)。


アチューメントの翌日片付けをしていたら、メモ書きが見つかって、哲学考察(?)していた時に書いたようなのですが、「上位の悪魔とは、恐れと言う正体そのままで見えるのではなく、正しさの仮面を持って現れる」と書いてありました(苦笑)。自分の私利私欲に捉われるというような、分かりやすい下位の悪魔に対照させたつもりで書いていたと思うのですけど、この上位の悪魔にしろ、正体は恐れであり、生存競争の一環ということですね。これもまた、負ければ精神の死。自己存在のための高位の欲望からくるもの。これはマスターとして地上に生きるためには、実は当然避けては通れない試練なんじゃないか、と。

それから、私には誕生日の近い幼馴染がいるのですが、彼も若い頃まさに偏った傾向に陥ってしまった一人でして、当時、彼は(やはりというか)音楽を目指していて(彼も尾崎豊のファンでしたけど、違うジャンルに行ってから完全に彼を見捨てたと思います)、音楽を続けるかどうか悩んでいた時に、何が本当の望みなのか聞いたら、一呼吸置いて、「歴史に名を残したい」とつぶやいたのです。

当時の私は、実はこの気持ちを理解できなくはありませんでした(認めたくはなかったけど)。誰かに認められたいという思いが肥大化して、歴史という名の永遠性の中に自分を刻みたいと思う気持ち。私はその時、自分が女性であることにやはりホッとしました。当時独身でしたが、まだ女である私には自分の永遠性をつなぐために子供を産むという手段が残されていましたから。こういう時だけ女性性に逃げ込む、あざといですね(苦笑)。そして、男性は辛いんだな、と。その時は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気持ちになりましたが、その言葉を笑ったり否定することはできませんでした。その後、彼は周囲の人に対して怒りを爆発させて、私もそれをまともに被ってしまったのですが。それは明らかに尊大な態度でしたが、それはやはり魂の怒りであり、魂の希求であり・・・。でも、やはりその時は受け入れられませんでした。彼自身、他に受け入れてくれる人などいないことを分かっていながら、絶望的な行動をしているという感じでした。

でも、今の私は、地の底に下って行ってでも、彼や私自身の怒りを拾い上げてこなければいけないと感じます。それは、人間はみなどんな形であれ自分の命に普遍性と永遠性を求めるものだからです。それは紛れもない真実です。それが歪んだ形で現れようと、そこへ向かおうとする魂の希求は真実であり、それを私は讃えなければならないと感じます。

今までの近代社会では、人間は一般化と有限性に魂を本質から遠ざけられてきました。どんなに個性を主張しても一般論に吸収されてしまい、競争社会に借り出され、経済効率が優先されてきました。
(そんな社会に対する怒りが膨らむ一方、そのような厳しい社会でもしなやかに良心的に幸福を得ている人を見ると、何故そんなことが可能なのか、まったく分かりませんでした。その人たちは暗い影を隠しているだけか、社会の欺瞞がまったく見えていないだけなのか?何が自分と違うのか、でも明らかな違いを見て、自分を呪うような気持ちになってはいましたが。)

でも、今の私の「単純な良心」や「人並み程度の常識」や「ささやかな功名心」を捨て去ってでも、私は地の底に下らなければならないと感じます。この捨て去るべきものを見ると、どれだけ私が「人並み」を求めていたか、伺い知れますね(苦笑)。つまり、スピリチュアル業界(?)でも、せめて人並みになろうと必死だったんですね。そしてその人並みであろうと自分を矯正すること、人並みで満足しようとすること(足るを知るという美徳のつもりです)こそ、地の底で真実を求めている自分を見捨ててしまっていたのだと思います。私たちが地の底に下っていくこと。多くの、狂気の中のジャンヌたちがそれを待っているように思います。


私自身は、聖域を守る傾向がとても強くて、今でも一日のうちに少しでも一人の時間がないと耐えられないタイプです。子供の頃も、怒られても、かなり頑死に死守していたと思います。しかしそれにも増して母親に甘えたかった子供の部分があります。だから、大人になってからは、一人でいたいと思ってしまう自分の性格を嫌悪していました。人と一緒にいられないのなら、何のために人間に生まれてきたんだろう、と。そして、実際に一人きりでいる時、逆に耐えられないぐらい寂しい、という気持ちもあったのです。もし幼少時にもっと愛されていれば、そこまで孤独を恐れることはなかったのかもしれません。


今自分の子供を見ていますと、育児の本ではたっぷりかまってあげるように書いてありますが、熱中している時に話しかけるのは聖域を侵しているのではという気もします。私もかまってあげなきゃという義務感で話しかけるよりは、自分も自分の聖域に入っちゃおうかなと思うようになりました。実際今回は、イライラするとダンナより子供に当たってしまっていたのが象徴的でした。朝の出がけと夜寝る間際というちょっと迷惑な時間帯に、まったく聖域から出てきてくれないもんですから(苦笑)


そして、私の聖域とは何か、これが、普遍性と永遠性を求めているのは分かるのですけど、具体的にはよく分からないでいました。すると、ちょうどアチューメントの当日の日中でしたが、ちょっとした撮影現場に居合わせたのですね。

それで数年前に私も写真をかじったことがあるのを懐かしく思い出しました(フミさんのブログの画像にもいつも感動しています!)。フィルムの時代のことでまったくの独学だったのでプリントの問題については素人でしたが、ある場面に居合わせてその瞬間を絵的に残すという作業が私の世界観に合っていたみたいです。それはただ世界に起こる出来事を見つめる側としての存在の仕方というか、そのように存在するとき、世界が自分抜きで回るかというとそうではなく、ただ愛として世界を見届けたいと思いながらその場に居合わせる、というそれだけのことで、そこに何か愛の作用が働くのか、奇跡的な愛の空間が絶妙な構図・絶妙な光の中で展開されることがあるのです。たぶん写真にハマったことのある人は一度は感じたことがあると思います。

その時私は愛として世界を見つめる者ではあれ、何者かであることを志向していません。言葉も価値判断もいらない。個性も主張もいらない。そのような私こそユグドラシルを体現しようと試みているといえるのかもしれません。愛として見つめた世界が自分自身そのものの血となり肉となり、花を咲かせて行くことができるのかもしれません。そしてその見つめた世界は、様々なドラマを醸していて、どんなドラマでもその精霊的な部分では、普遍性と永遠性を備えている、それを見出すことこそ、世界をありのままに見つめ、受け入れるなのだと思います。


そのために必要なことは、やはり集中。写真には絞りや画角や補正などの技術が必要ですが、すべてが瞬間に決まります、その瞬間技術的なことはまったく頭にはなく、極度の集中によって、身体が勝手に動くのですね。後で見るとどうして撮れたのかよく覚えていない(笑)。それはその瞬間を生きたという証でもあります。
何故だろう、私にとってはたまたまカメラがそのツールだったのですが(ハマっていた間はまったく文を書きたい衝動がありませんでした)、いつもは気になる他人との距離感が、カメラを構えるとほとんど気にならなかったんですね。近くても、遠くても、何だか適切な距離というのをちゃんと測れていたように思います。それはおそらくカメラを通して自分と被写体のあるべき聖域が見えていたのかもしれません。今は書くことにハマっていますが、写真を撮るのと同じように書くことができるのか、まだ分かりません。


聖域とは、本来的な意味では、境界を作るためにあえて制限するということではなく、逆に制限なく真実に生きた時にこそ他者と共鳴が可能な場であり、真実からズレた時(依存が、正義心が、愛の仮面を持って現れた時)には自然にハートで理解できるものなのだと思います。(その高い受容性を保ってこそ、他者の深い部分での目覚めや、ズレに対する気付きをもたらすことが可能ということでしょうね。)つまり、私の結論は、クマラからのリコメンドの通り(笑)、「真実に生きる」に尽きるようです。が、まだまだズレまくっています!後から気付くだけでも成長したのかもしれませんが(苦笑)。


タロットのスターのカードは裸の女性が泉の淵にいるイラストですね。とても好きなカードです。読んだ本によると、塔の崩壊で自我が破壊された後は、権力や知性によって守るべき鎧は必要なくなるということだそうです。その時初めて宇宙からの叡智(星の光)を全身で受け入れることができ、泉に流すことができるのでしょうね。私の塔は結構な崩壊を遂げたと思うのですが(笑)、まだ遠い道のりには感じています。


と、相変わらず長いですが、今回はこんなところでしょうか、実はまだまだ深いヒントを高次から頂いていて、もう書ききれませんという感じなのですが、次回のパラスアテナにも繋がっていくことでしょうし、ここで一区切りつけて、これをアルテミスのレポートとさせていただきますね。

今回サポートしてくださった高次の存在たち、フミさん、ご参加のみなさま、ありがとうございました。