そして、もうひとつ≪アルテミス≫の重要なテーマ♪

ついさっき、クライアントさんからいただいたメールで、≪アルテミス≫について、書いておかなければならないテーマを思い出しました、笑(ありがとうございます♡)



わたしたちは、子供のころ、自分だけの聖域を守ることを許されずに育った怒りを溜め込んでいる場合があります。人に自由や境界線を許せないという人は、自分も許されずに育った経緯があったりします。
いい子で育った人というのは、それが顕著だったりします。各言う私もそうです、笑。
この間実家に帰ったときに、実感したんですよね、苦笑。
わたしの母は、基本的に自分に絶対服従を命じるタイプなのです。それは、母が周囲の人に絶対服従してきたからなのですね。
母にも、聖域が無かったので、人が(聖域を)持つこと、特に自分に属している子供とかに許せないのです。父にも許していなかったかもしれません。
だから、家の中がとても息苦しかった。


その部分の癒しというのも≪アルテミス≫の重要なヒーリングの部分だと思います。
女性(女性性)が、「聖域」を持ち、ユグドラシル世界樹)、そして、「泉(ファウンテン)」を自分の内なる聖域に創ってゆくことの重要さと、必然、そして、「受容性」のと繋がりが、ここにも表れていると思います。


いただいたメールで参考になる部分をご紹介させていただきますね!


☆    ☆    ☆


女神学校のお知らせ有り難うございました。
ナウシカでしたか。なるほど・・・。自然と自分に集中する事についてつながりが、あるなんて・・かなり深そうですね。考えさせられました。


私は幼い頃を思い出すと、自分の家にいるのが息がつまるので、嫌でよく外に行ってそこで何時間も虫を観察しながら、過ごしていたと思うのですね。
寒かったり、暑かったりという気候は自分にも厳しいものであったので、本当は外で遊ぶより、本を読んだりするのが好きでしたが、ひとりで外に出ると用水路の水(小川という綺麗な水ではなかったのですが)の流れを見ていたり、花を眺めていたり、ありの行列にいたずらしていた事が多かったなと。そこで流れる時間、静けさは私にとって聖域だったのかもしれないと思います。
とにかく無になれたんですね。

嫌なエネルギーを受けなくてすむ、それどころか、私にとって必要な休息であり、心休まる時間であったのでしょう。


しかしそんな時間は家にいれば徹底的に母に否定されたので、合理主義の母のもと、無駄な時間とされたし、母と一緒にいるときは時間を有効に使う事のみが重要視されました。


今私はそれを子ども達におしつけているのだと思ったのですね。そしてそれを子ども達に強要しようとすればするほど、イライラ感も溜まることが分かってきたのです。


自分のイライラはどこから来るのかを改めて考えたり、今回のアルテミスのブログを読みますと、聖域を大切にされてこなかった生い立ちが、鍵を握っている気がしてきました。

それは子ども達にある、一種彼らの聖域が見えるからかもしれないのだと。私はそれを大切にされなかったという怒り。


母によってそれは必要ないといわれてきたしつけを自分もまた繰り返しているのかも知れません。実際それは社会に出るときに役立ってきたかも知れないのですが、私の今の生き方には遠ざかるやり方なのですね。
小さい事の自分は、母からのいいつけは早くすませるやっつけ仕事であり、更に完璧に、丁寧にやれという事は面倒であり、無意味な事に嫌気がさしたものです。


多分自分に集中するということは私が小さい頃に願っていたことではあるのですが、それが阻止され、重要視されなくなり、出来ずに忘れた事であるのですね。

成長するにつれて、周囲の要求に応える方に(自分の価値を周囲の評価で得ていたため)エネルギーが行き過ぎて、今は自分の中に入りずらくなり、集中出来なくなっているのだとも思うのです。この事は前にもふみさんから、お伝えいただきましたね。


きっと自分でそれが出来るようになるということは、私にとってとても大きな変化が起こり、それこそ、自分らしい生き方が出来てくるのだと思います。
それこそが奇跡なのかも知れません。この女神学校に期待しつつ ・・・・
ついついこの気付きをお伝えしたくて・・長々と失礼いたしました。