サロメ〜5次元&6次元統合ナディ&春分の日の特別リリースの感想です

こんばんは。

早速ですが先日はサロメアチューメントありがとうございました。
そして、5次元&6次元ナディのアチューメント、そして春分の日の特別リリースと受け取らせていただきました。

何やら、一続きの物語を生きているような感じで、感想をすぐに出すという状態ではなかったので、あっという間に1か月近く経過していました。


サロメアチューメントの最中に自分が感じたのは、「自分は自分のままでよかった。自分自身のリズムを大切にすればよい」ということでした。再三再四、強い自己肯定の感覚がわきあがってきました。


私の中のコンプレックスは、好き嫌いが激しくマイペースで人に合わせられないという性格と、アフロディーテの時代に性的なものや暴力(特に父親の感情の激しい起伏を伴う肉体的暴力)にさらされ、その結果、同級生のようにキラキラとアフロディーテであり続けることができなかったということでした。


でも、結果としてそれはサロメアチューメントで癒されまた肯定されたように思います。
今回、サロメのエネルギーは「自分のリズムに合わないものをはねつける部分もある」と説明されていて、ああそうか、自分の中の好き嫌いの激しさというのはある意味サロメ的なエネルギーであったなと思って、それを肯定することができたのです。


最初、アチューメントのときにサロメの話を読んでいて、サロメの母親に対して激しい怒りをおぼえました。それは、私にとっては、娘や子供を守ってくれないで、父親に迎合し怒りを黙って耐え、そして性的な部分で私の行動をコントロールしたりからかったりする自分の母親の象徴でもありました。
また、「男性性優位の女性の嫉妬」という部分で、自分の祖母のことを思い出しました。彼女は、おしとやかで自分の言うことを聞く子供、特に男性には甘いのですが、少しでも好き嫌いや意見の違いを表明すると、ものすごく不機嫌になるのです。また、とても強い男尊女卑の考えをする人でもありました。その祖母から、欲しくもないお人形さんを買ってもらったときに、「私それいらない」と言った結果、祖母を含め両親からとても強くいましめられたことがあり、それ以来私は祖母とはあまり仲が良くないのです。


父親は「女の子は赤かピンク」という信条を持っていて、何を買ってくるにしても赤やピンクのものばかりで、私の意思は一切無視されていたことも思い返しました。でも、それが嫌だという気持ちを父親に伝えたことはありませんでした。母親が止めたこともありますし、もし「その色嫌い」とでも言って父の暴力や怒りを浴びたくないと思い、嫌なものも無理やり受け止める癖がついていたように感じます。


好き嫌いの激しさは個性でもあり自然な欲求ですが、それを持つこと自体を否定され、親の好みに整形させられてきたことが改めて思い起こされました。


また、「自分のリズム」という点でも、子供は親のリズムに合わせないといけませんが、食事のタイミングや量を勝手に決められていたことや、風邪をひいただけでも不機嫌になるような家で、自分の身体の声を聞くということが許されていなかったなと改めて感じました。
(おなかがすいていないときは食べなくてもよいということが分からず、食事を取りすぎる傾向が自然と身についていましたが、親元を離れてしばらくしてから、それは親の習慣に過ぎず、食べなくてもいいんだということが分かって自然とやせられたことがあってから、いかに親の生活習慣やリズムに関する影響は大きなものかと思います)


その結果怒りを当然ためるはずなのですが、親は愛情を与えているのだと勘違いしていたので、喜んで受け取れない自分に罪悪感も持ち、また、みじめさから自虐的な傾向に走るようになりました。それが、「好きでもないものをとりあえずイエスといって受け取る」癖でした。
罪悪感と結び付いた「なんでも受け容れる癖」や、変えられない過去の苦しみに起因する劣等感、そういったものがどうもするりと手放せたようです。水に流されていったというか、自然と手放せていました。これは、サロメアチューメントの最も大きな効果だったと思います。


アチューメント中に聞いていたのは、やはり水音とチャンティングの入ったトム・ケニオンのCDでした。その中に、深く暗い水の底に入っていくような曲があります。
それを聞いていながら感じたのは、「こういう、深くて暗いところも、水は知っているのだ。それは、仕方なかった」という思いでした。


水の性質というのは、清濁あわせ飲むというか、闇にも光にも転じ得るものだということです。老子は上善水の如しということばを残しています。水は、あらゆる形の器い従い、他の存在をうるおし育みながら、常に低い方に流れ、誰もが嫌がるところにも行く、という有名な一節があります。老子は、それだからこそ、水は最高の善に似ているというのです。


このことばには様々な解釈があるでしょうが、私にとっては、水の性質は光も闇も含むということ、それは変えられない事実であり、それもまた一つのリズムの中に織り込まれている、というイメージがあり、決してきよらかなものだけに通じていたわけではなかった私の少女時代への慰めとして受け取りました。



サロメ的な女神として、たとえばローレライやセイレーンなど、死の世界にも通じるような水の乙女たち、また、封じられてしまった水の女神という意味では、瀬織津姫などもそういうイメージかと思いますが、水の女性性は、本質的には決して完全に封じ込めたり葬ることはできず、時代と場所を超えて、また蘇ってくる強さやしたたかさも持っているのだと思います。そして、その強さやしたたかさは、男性性の「武装」エネルギーではなく、ただ受け容れつつかわすというか、しなやかで優雅な「舞」のようなエネルギーだと思いました。(私にとっては、洗礼者ヨハネサロメが西洋風のセットなら、老子瀬織津姫も東洋風のセットなのだと感じます)


サロメのイメージは人それぞれだと思いますが、私にとっては、昔海外の美術館で観たルーカス・クラナハの「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」こそがサロメのイメージです。
http://www.habsburgs.jp/highlight.html
そのときは、この絵の魅力にくぎ付けになって、しばらく動けないくらいでした。


この絵の中で頭をきちんと結いあげて、美しい洋服を着たサロメの放っているある種の威厳は、銀色のお盆に載せたヨハネの首にはとても価値があり(それはサロメがずっと欲していた男性エネルギーだから)、そして自分はそれを得るにふさわしい存在となった・存在であるという自負とセットになっているように思います。
絵の中では軽々と持っているようですが、大の大人の男性の頭の重さというのは、相当なものでしょう。それを持つことができるというのは、身体がしっかりと鍛えられていなければなりません。そして、その重みを知っているからこそ、背筋が伸び、真剣な表情となるのです。


ヴィーナスアチューメントのときに読んでいた小説「花を運ぶ妹」は、画家の兄とその妹の物語ですが、中学生くらいの妹(ちょうどサロメの年齢でしょうか)が、ブーゲンビリアの花を持って家の中に入ってきた所を見て、当時高校生だった兄はその姿を絵に描きます。そして、その絵をきっかけとして兄は画家になるのですが、小説の中にこんな一節があります。「大事なものを運ぶ時、人は慎重になる。注意深く足を運ぶ。そういう経路を辿って人はこの世界に参入するのだ。妹はブーゲンビリアの鉢を運ぶことによって、用心深く光の世界に入ってきた。そのおずおずとした姿勢におまえは捕まった。花の鉢を運ぶ緊張感が自ずから絵の形を成していた。人はあのようにある覚悟をもって世界に入っていくべきなのだ」


私にとっては、サロメが銀の盆の中に持つヨハネの首は、清められた火星(セクシャリティ)のエネルギーそのものという感じです。大事なもの、注意深く扱わなければならないもの。覚悟して扱わなければならないものです。サロメアチューメントの他の方の感想の中で、ヨハネ血と薔薇のイメージを結びつけている方がいましたが、まさに、ヨハネの首というのはこの小説で妹が運ぶ花のような存在なのだと思います。


そして、例の小説の中にはこんな言葉もあります。
「たとえばゴーギャンが「ヤコブと天使の戦い」を描いた時、あの絵がゴーギャンにとってどんな転機だったか、それは知らない。でもあの頃、おまえはあの絵が好きだった。ゴーギャンの多くの絵の中でもとりわけあの黄色い翼の天使に夢中になっていた。ヤコブは人間として力の及ぶかぎり天使と戦っている。人はみないつか自分の天使と戦わなければならない。その心理をあの絵はすごくうまく描いている。あの歳のおまえはそう思ったのだ。絵よりも自分の天使との戦いという文学的なテーマに惹かれていたのかもしれない。その絵画的な表現の大胆さがまるで手が届かないほどの偉業に思われた。あの構図はすごい。戦う二人を遠景において、手前の祈る女たちの方が大きく場所をとっている。本人たちは必死に組み合っていても、見ている者は祈るしかない。この距離感。」

ヤコブと天使の話は6次元ナディでも出てきたエピソードですが、この天使はウリエルだと言われてます(実際にゴーギャンの絵を見ると、天使はまるでオーラソーマウリエルボトルそのものの色使い!)。アチューメント中にこの小説のことを思い出し、またゴーギャンの絵を見ていて感じたのは、傍観したり無視したりしてきた周囲の人間たち(特に肉親の女性、母や祖母)は、実は、私が天使と格闘しているときにそっと祈っていたのではないかということでした。そう考えたら、彼らへの怒りが少しおさまったように感じます。
天使と戦うのはたったひとりでするしかない。だからこそ、誰も助けてはくれなかった。だけど、本当はすべての存在が周りで祈っていたのではないかと。ゴーギャンの絵の中の祈る女たちは、私の母や祖母に重なりました。それは、非常に大きな赦しと解放になったようです。


そして思えば、私が許さないと怒りに燃える傍らで、私を大切に思っていた男性たちは、私の代わりに傷を負い、打たれ、殴られてきたことも思い返しました。昔、学生時代に飲み会である先輩に執拗に絡まれ、やめてくださいと言ったところ、その人が激昂して、暴れ始めてしまったということがありました。そのこともアチューメント中に思い出しました。
その一件は私にとっては、周りは助けてくれなかった、何かあると女性が悪者にされる、というトラウマの記憶になっていますが、振り返ってみるとそんなことはなくて、あの時も、一生懸命暴れる男性と私の間に入ってくれた別の男性がいたことも思い出しました。その助けてくれた男性の高潔さや清さに惹かれ私に対しての好意に感動しながらも、私は彼の好意に向き合うことを避けて別の人と付き合いはじめました。それは、彼にはふさわしくない自分というものを恥じていたからです。


他にも、思い返せば穴があったら入りたいような行動を、好意を寄せてくれている高潔な男性に対して取り続けていたことを思い出し、深く反省し涙しました。そういう男性に惹かれながらも、なぜか受け取れないと思い避けるというパターンを繰り返し、結果としてそうして傷つけていたのです。



そして私が次に感じたことは、「自分の男性性を愛する」というものでした。今まで、自分がやっている仕事(つまり端的に言うと私の男性性)を否定する男性にこそグラグラきてしまうというおかしな癖がありましたが、それは、自分がよっぽど自分の男性性を嫌っていたからなのではないかと気づきました。なので、自分の内なる男性性をしっかり抱きしめてあげることがまずは大切なんじゃないかと思ったのです。それが、5次元&6次元ナデイ〜につながっていたようです。


アチューメント当日、今年の春分のころ東京で公演していたヤン・リーピンの「シャングリラ」のちらしを見て、急遽チケットを手配しました。最近ダンスにはまっていて、そのダンスの動きが中国の少数民族の身体文化と関わっているため、雲南や中国のダンスというものが気になっていたのです。ヤン・リーピンは中国の国宝とも呼ばれている有名なダンサーで、彼女自身はやはり雲南少数民族出身です。それに飽き足らず、当日ヤン・リーピンのダンス「孔雀の舞」をyoutubeで見たり、彼女のプロフィールなどを調べていました。そうしたら・・・
火の鳥」(火の鳥=太陽鳥、すなわち孔雀の意味)という自伝的な映画があるというのです。その中でリーピンをモデルにした主人公タナ(漢字は「塔納」、「塔」=マグダラのイメージです)が、自分が育った村のシャーマンの男性にして踊りの師匠が踊っていた、本来男性が踊るべき孔雀の舞を、様々な紆余曲折を経て芸術の領域にまで高める舞を踊るという話の筋になっているそうです。

リーピンは現実世界でもに、「孔雀の舞」で一世を風靡するのですが、もともと孔雀の舞は中国少数民族の伝統舞踊で、結婚式で男性シャーマンが踊るものだったようです。それを、リーピンは、女性として踊るのです。しかも、絢爛豪華な孔雀の羽根のような衣装ではなく、真っ白なウエディングドレスのような衣装で。youtubeでその踊る姿を見ていたら、何か泣けてきてしまいました。男性(性)はとっても繊細で壊れやすいのだよ、そしてそれを抱きしめてあげなければいけない。というような感じがしました。

きらびやかな孔雀の羽根を強調するような舞ではなく、手の指や骨格、むき出しの筋肉で、
孔雀の動きを表現する舞です。ヤンリーピンは完全に孔雀(自分の内なる男性性)と一体化している。その意味では、男性性と女性性の統合だけど、リーピンが表現している孔雀(男
性性)は、とても繊細で物悲しく、もろくて儚い。バックの音楽も哀調を帯びていて、まるで、老いて死にゆく孔雀のようだと思いました。

鎧を脱いだ男性性のエネルギー。むき出しのありのままの純粋な男性性のエネルギーというのは、こういうものなのではないかと思いました。孔雀の羽根(誇示の象徴)を脱いだ時に見えてくる男性性は、まったくあどけない少年のようなエネルギーでした。

そうか〜男性性はかくも弱く繊細なものなのだな〜と思いながら、回顧してみると、私自身は、弾性を中途半端に受けいれてから後で拒絶したり陥れることで、かえって深く傷つけてきたことを感じました。暴力的な家族の男性を見て育ったため、基本的には男性蔑視でした。しかもセクシャルな行為をしておきながら愛を与えないことで相手に復讐しているつもり。その結果、愛していない罪悪感が募るばかりでした。


男性が鎧を脱ぐことはとても難しい。孔雀が羽を折り畳んで自分のありのままを見せるのは本当に辛いこと。だからこそ本当に癒された女性性の愛でしか受け止められない。戦うことをやめさせてあげることも愛。だから、何もかも受け入れないこと、拒絶してあげることも愛だった。拒絶することが戦いをやめさせてあげるためには必要だった。そういう意味では、リーピンの舞は平和の舞だと思いました。実際、孔雀の舞は、安らかな天上の世界を表現しているということを後で知りましたが、まったくその通りだと思いました。


リーピンの舞は、際限のない戦いの中で疲れた男性性の悲しさを表現すると同時に、男性性の純粋さも表現している。これを見た男性(性)は、自分たちの本質に気づくのではないだろうか?女性の愛でなんでもできると思いあがって形だけ真似して女神のようにふるまうだけでは、平和は訪れない。男性のなかにある恐怖と光あふれる自分ではないという傷をいやすためには、むしろそれを示してあげること、拒絶してあげることも必要だった。

そして、それが可能になるためには、まず男性(性)を尊敬してあげなければならない。真にそれが必要だと思わなければならなかった。セクシャリティを真に平和のために使うためには、男性性にノーと言える強さを女性性が持ち、依存を断ち切る。境界線があることをしっかり認識するからこそ、ゆったりと平和に慎重に相手を気遣える。開きっぱなしは閉じたままと同じくらい悪い。さもなければ、最初の小さな痛みが雪だるま式に大きな憎しみになり、復讐をやめられなくなる。

物理的な暴力の怖さではなく、心理的な暴力の怖さ。これは女性的な力の誤用であり、表面化しにくい分たちがわるい。私が今までよく使っていた手。あるときは愛しあるときは憎しみ一貫しない態度を取ることで、相手を半ば無意識に半ば意識的に翻弄してきた。相手が涙すると、だってあなたは○○したじゃないと、物理的な暴力や現象化した物事をたてにとっていた。

安心させるだけではなく拒絶することも必要。それで壊れる関係は真実ではない。常に応じるのは女神ではない。拒絶の態度によっても男性性を位置びくことができるし学びの機会を与える。

ハートは無条件でよい、そこで感じる。セクシャリティはハートの真実に照らして、否と思われるもののためには使わない。それは苦悩の種をまくから。平和は、本当に受け入れてよいものといけないものの峻別。分離そのものが悪いわけではない。分離のあと静かに歩みより慎重に近づくからこそ喜びが大きい。


孤独に耐えるように。一見孤独でもいつも見守られているから。そしてその中で自分の中の男性性を敬う。これは、仕事という意味にもなるが、高潔に生きるということで十分なし得る。
自分の中の男性性をきちんと敬えるようになるためには自分の女性性を受け入れること。そしてそのためには、自分を守ること。自分のペースを乱し侵害するものをはねつけること。自分のリズムを聞くこと。

ただ自分のあるがままでよいというゆったりとした気持ちが、真に敬うに値する尊敬すべき男性性を自分の中に育てる。他者や外からの評価ではなく自分のリズムを守り乱さぬまま生きていくために必要な男性性を育てる。それではじめて自立していると言える。

愛に向かって心を開くことも重要だけど、依存に陥らないためには、まず私の場合は、自分の内なる男性性を敬うことが必要。男性性をきちんと確立させていくこと。だから、それまではクマラを恋人と思えばよい 笑 そうです。さびしくない。

マグダラのマリアも、イエスの死後ずっとひとりで生きていた。でもさびしくはなかった。心の中にイエスがいたから。完全に一体化していたから。タロットカードの最後の「世界」は一説ではマグダラのマリアと呼ばれています。裸の舞姫ですが、それは彼女が南仏の洞窟で修行しているときの姿だと言われています。

そうか〜。12次元のセラフィムの喜びの舞というのは、男性(性)と一体化したときに女神が舞う舞なのでは!?リーピンの孔雀の舞は、自伝的映画の中では村のシャーマンの男性師匠から習った舞だということになっています。孔雀の舞をリーピンが舞う時、彼女はこの故人となったシャーマンの男性と一体化しているのです。だから、彼女は花嫁衣装のような白いドレスで踊っているのです。

「私たちはキリストと同義なのです」
「キリストの花嫁」
マグダラのマリアが語っているように完全に一体化しているのです。孔雀というのは、太陽鳥と呼ばれ、愛の鳥として崇拝されているそうです。そして、結婚式で踊られる舞なのです。

そういえば、「与えてもらえなかったものはつくればよい」というようなメッセージが12次元ナディの後に来て、その後急に燃えるような真っ赤なお鍋を買って料理を作ったり、祖母に編み物をしてあげたりしはじめたことも思い出しました。そうしたら、私のやることなすこと気に入らないという感じだった祖母が、「あの子は手先が器用で私に似ている」と感心していたらしいです 笑もらうこともうれしいけれど与えられることができるというのはもっともっと嬉しいことだった。そして、受け取ってもらえるというのは幸せなことだった。それを再確認しました。

5次元&6次元は、私も眠くていつの間にか寝ていました 笑


その後、仕事がらみでヨーロッパに一週間ほど行く機会がありました。
成田の出国審査で、化粧水を取り上げられるというミニハプニングがありました。(思えば、「水」が変わるから、郷に入れば郷に従えじゃないけど、水が変わればその水に従えということだったのでしょう)

目的は仕事なのですが、それに絡めて、一年ほど前から文通をしていたドイツ人の出版エージェントの女性に会うことができました。彼女とは不思議な親近感があり、相手もそれを感じてくれていたのです。私がウィーンのホテルに夜遅く着いたその日、彼女が、「私が日本に行た時の写真よ」と見せてくれた写真は、なんと京都の鞍馬寺の前で撮った写真だったのには衝撃を覚えました 笑一週間の仕事関係の滞在でしたが、この女性とはずっと行動を共にしていましたが、まるでずっと昔から知っているような不思議な共鳴を感じる相手でした。お別れする日の朝は、普段クールな私(笑)ですが、なんとも言えない寂しさに襲われ涙が出てきてしまいました。でも、またその女性が住んでいる小さな町を訪ねる約束をしたらご機嫌な気分になりました。これで毎日の生活にも張り合いが出るというものです。


今まで生きていてもだ〜れも本当の心の友なんていないもん、と思っていたのですが、いや、やっぱりいるんだ、ということが分かり、地球も捨てたものではないと思い、高次の存在たちに感謝しました。

帰国後、3月19日にリーピンのシャングリラが東京公演したので、観に行ってきました。リーピンのこの舞台は、中国の少数民族の村々からスカウトした農民たちがダンサーとして民族舞踊を披露するというものです。彼らは厳しい自然や過酷な労働環境で生きています。
でも、その中でこそ歌い踊り喜ぶことでその環境を楽しんでいます。素晴らしい手づくりの衣装、のびやかな声、しなやかな体の裏には、棚田での労働などによる鍛錬があります。ダンサーたちのありのままの民族舞踊の迫力も素晴らしかったのですが、それが地上の喜びを表現しているとしたら、リーピンのダンスは天界の舞、酸いも甘いも知って、最後の最後に踊る集大成の舞という感じでした。

最後、リーピン演じる孔雀が、美しい七色の羽根を舞台一面に広げて、舞台正面奥の月の中に消えていくという演出を見たときは、なんとも言えない感動を覚えました。月の中を通って、太陽へ向かったのでしょうか。


それから、春分の日の特別リリースを受け取った日、私は旅先でした。旅先なので、たまたまテレビを見る機会があり(私は家にテレビがないのです)、そこでつけた番組で、死刑囚の男性のドキュメンタリーがやっていました。その死刑囚の男性は、貧困と愛の欠如した生い立ちでした。社会に出てからも仕事がうまくいかなくなると絶望して自暴自棄になり、4人の人を殺害したために刑務所に入れられました。

この男性は、最初は、死刑も辞さず、法廷では裁判官に対して、ゆがんだ社会システムへの糾弾をぶつけていたのですが、あるとき、その死刑囚が出版した本を読んだ女性との文通が始まりました。その女性も似たような苦しい生い立ちで社会に絶望し、とにかく人を殺してやる
と思ったことがあるという共通点がありました。ただ、その女性は、祖母からの愛を受け取っていた。これが違ったのです。やがて、その女性は、この死刑囚の男性と獄中結婚します。そのときに彼女が語っていた言葉が忘れられません。

「彼は、死刑台の上においていた命を、私の手の中においてくれた」
「鎧を脱ぎ、剣を置き、私の方を見てくれた」

この女性の愛に触れて、一時は死刑囚の男性は将来への希望を抱くようになります。やがて、死刑ではなく無期懲役の判決が下ります。しかし、世論からのバッシングによってこの事件の裁判がやり直しになります。その結果、この男性は再び死刑判決を受けてしまうのです。「こんな結果になると分かっていて、僕にわざわざ生きる希望を与えたの?」と担当弁護士に語ったそうです。やがて、心を開いていたこの男性は再び心を閉ざすようになり、離婚、やがて死刑執行によって永眠。結婚相手の女性の愛に触れて一時は癒されたかと思った男性ですが、再び心を閉ざして死んでいったという話を見て、涙が止まりませんでした。

男性性はいかに癒すのが難しいのか、そして男性性はいかに繊細なのか・・・。そういうことを改めて確認させられたようなエピソードでした。

まだまだ道のりは遠い〜という感じですが、
ありがとうございました☆