丹生都比売2


「丹生都比売(におつひめ)」

ここは水底(みなぞこ)の国なのでしょうか。


一面に水銀(みずがね)が鏡のように溜まって、
暗いはずなのですが、その鏡のような水銀には
不思議なきらめきがありました。


キサは自由な魚のように底近く降りると
その水銀を片手で救い、ゆっくりと放りました。


するとそれは幾千もの大小の銀の珠となり、
きらきらと、きらきらと七色に光ながら
降ってくるのでした。


キサはまるで星々を産み出すように、
水銀を放り続け、
そしてふわりと上の方へと浮かぶと、
徐(おもむろ)に片手を挙げ、舞うようになびかせました。


その途端、今までまっすぐに降りていていた水銀の珠が、
まるで満点の星のように
ゆるやかな弧を描いて動き出しました。


水銀の星々は、金にも光り、銀にも光り、
七色にも光ります。


キサは全ての星々のきらめく軌跡を見守るように、
また統べるように、飽く事なく自在に腕を動かし続けます。


その度に、星々はまるでそれが唯一の自分の道のように、
ためらうことなく進むのです。


星々がぶつかるたび、青白い炎が火花のように燃えました。
それは、水銀が精錬されるときの炎の記憶のように、
蘇っては消え、また蘇っては消えていきました。


そしてその火花が燃えるたび、鈴の音が、
蛍の明滅のようにあちらでひとつ、
こちらでふたつと鳴り始めたかと思うと、
それは今まで草壁皇子が聞いたこともない、
澄んだ、冴え冴えしい楽の音となって
辺りに響き渡りました。


ある星は優しく慎ましく輝き、
そのまま静かに消えていき、
またある星は猛々しく激しく動き、
そしてこれもまた消えていきました。


ある、一際美しく輝く星は、
大胆にも大きな軌を描きながら、
ぶつかる様々な星々と美しい火花を散らし、
それらを呑み込み力強く進んで行きます。


皇子の懐から、いつのまにかあの燕の子の死骸が
すうっと泳ぐように出てきたかと思うと、
あっという間に小さな青白い光を放つ銀灰色の星になりました。


そして、まるでその一際大きく美しい星の衛星のように
ついて回っておりましたが、
草壁皇子のすぐ目の前でくるりと弧を描き上昇する際に、
その星に吸い込まれてしまいました。


それは本当に無理のない、自然な出来事でした。
そしてその大胆で力強い星はまた一層の輝きを増して
進んで行くのでした。


それらの水銀の星々の運行は様々な故に美しく、
様々であるけれども全体でひとつの荘厳な輝きを
持っているかのようでした。


あの小さな燕(つばめ)の星は、
目には見えなくなったけれど、消えてはいないのだ。
この、輝きの中にいるのだ


草壁皇子は、秋の野原の、
澄みきった寂しい明るさと
冷たい風を感じるようでした。


美しさと切なさで胸が痛くなるのです。
けれど不思議に懐かしい安らぎの中に
いるようでもありました。


醜い欲も、
たぎるような感情も、
やがては哀しくなって、
土が水銀に精錬されるように、
このような美しい珠になるのだろうか


ふと気づくとキサは草壁皇子の方を
まっすぐに見て微笑み、
遊びに誘うように手招きしています。


草壁皇子が思わずそちらに行きかけたとき、
水銀は毒だという声がどこかからかしました。



そして、キサに追いついた、
と見る間もなくキサの体は、
草壁皇子の目の前でどんどん稀薄になり、
まるで清らかな水に溶けて行くようでした。


ああ、そうだ、
キサは水と共にこの大地に吸収され、
草木はキサを吸い上げて、
この吉野の神仙の気を醸すのだ


遠ざかる草壁皇子の意識の中で、
誰に教わるともなくそういう考えが浮かんで、
また消えてゆきました。


(梨本香歩「丹生都比売」)


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