昨日読み返して癒された、過去のいただいた感想アップします♪7


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金星の女神学校レディ・ナダのレポートです。提出が大変遅くなりました。

後半のクァン・インとレディ・ナダは静かな時間も持てないし途中で寝てしまったりで、当時の記憶もあまりないくらいでしたが、でもとりあえず2次元ナディの学びから、年明けはとても心安らかに迎えられました。

お正月に数世代家族が集まってみると、今まではどことなく不調和を感じていたのですが、今年はなんだかみんなそれぞれの道を行ってるな〜としみじみ嬉しくなりました。

で、レディ・ナダの考察は冬休みが明けてからやろうと思っていたのですが、休みが明けたら、昨年から溜まっている仕事を片付けなければいけない、という状況で、急に、燃え尽き症候群のように気力がなくなってしまい、さらに、焦りのあまり不眠の傾向が出て来て、とりあえず休もうと思っても眠れなくて疲れがとれない、やることは溜まる一方という悪循環から抜け出せなくなって、ほとんど鬱の状態に陥ってしまいました。それで、冬プロジェクトで得た解放感、新年のワクワク感は影も形もなくなり、だからこそ余計にどっぷりと闇に落ちてしまいました。

何故だろう、母子関係は一段階真実に癒されたはずなのに、この苦しさは?と、辿っていくと、確かにきっかけとしては、夫婦間での、「家族の(社会の)役に立っているか、役目をきちんと果たしているか」という強迫観念なのでした。2次元で自分の偽善に気づき許せたといっても、社会の役に立たない存在としての自分はまだまだ許せていなかったのですね。(あと余談ですが、統合ワークが進まないプレッシャーもありまして。苦笑)

あ、これは男性性の苦しみだ!と思いました。そうでした、クァン・インは男性性の癒しのエネルギーでもあります。クァン・インの登場によって、私の男性性はいつも、不意打ちをくらったように急ストップをかけられるという感じなのです。

それを受けてのレディ・ナダですから、それをまっすぐ受け止めたい自分自身もいたにもかかわらず、一方でものすごい抵抗勢力が私の中で暴れ出したのですね。新年の安らかだった自分とあまりにギャップがありすぎて、「あなた誰?」という感じでしたが、実はやはり、以前と変わらず自分は無価値と思い込んでいる自分自身だったものだから、苦しくて苦しくて。

本当に何もしたくなくて、私のしていることといったら「息」だけじゃん!みたいな。でも女性性の私は、「だから、じゅうぶん生きているよ!」と思っているのですが・・・堕ちに堕ちている男性性の私は全然納得できず。

それで、2次元ナディの学びから、感情は抑圧せずにありのままなので、怒りもありのまま出てしまうわけで・・・主人の逆上を想像しては被害者意識に落ち込んでいましたが、そういう時に限って意外と受け止めてくれたりしましてですね(それも今思うと恩寵ですね)、収入や仕事の回転は気にせず今できること・やりたいことだけボチボチやればいいや、と男性性的には諦めの境地なのですが、女性性としては、ここでやっと再び安らかさを取り戻したというか。

そこで改めてレディ・ナダに向き合ってみると、あ〜、まさに何もしないことの学びだったんだな〜、と。私の男性性は常にエゴが満たされることを望んでいたようで、霊性の学びにおいても「学びを得たい、進化したい」というエゴを満足させたかったのですね。でも、クァン・インとレディ・ナダのエネルギーは明らかに、エゴでないものしか満たさないのです。だから男性性のエゴは真実に照らされて苦しむことになる。

「自分の熱烈な望みが叶うのは、
人間と動物と、植物への
愛と理解を獲得して
あらゆる喜びが、
自分の喜びであり、
あらゆる苦痛が、
自分の苦痛であると感じることが
出来た場合だけであるということを、
知っているだろうか.....」

男性性の私はこの部分を読むと苦しくなるのです。自分はまだこの域に到達していないという「悔しい」という気持ち。でも、女性性の私は違うのです。まだ到達していないなら、理解できる時が来るのを静かに待てばよい。そしてその瞬間が来たら、それが一瞬だけのことだとしても、それを否定することなく真実として味わうこと

男性性の私は、自分の力で何かを誕生させようとして失敗したんですね。あらゆるものは恩寵なしに誕生しない。つまりはいかなる創造性も。そして恩寵は求めて得られるものではなく、ということは、すでにそこにあるものとして気づかれるもの

エゴは、どこか遠くからやってくる新しいものに救いを求めているから、エゴはそのことに不満かもしれないけど、それがハートの真実。そして、恩寵のあるところにこそ美は備わっている。

その時の落ち込みから辛うじて私が救われたのは、冬プロジェクトで救われた中で自分がした決意や、新年に感じた2011年の新しいワクワク感のエネルギーにありました。苦しみの中でそれらを思い出すのは困難でしたが、「あの決意が、あの感覚が真実なら、今の私の苦しみをどう見つめればよいだろう?」と、苦しみに対峙する勇気をくれたのです。

そして、一方で、もちろん恩寵(何もしないことから得られるもの)がありました。何か現実的な達成感(私の感じる達成感は何かにつけエゴの達成感だったわけですが)を手放してみると、自然をありのままに見つめている自分がいました。植物がまっすぐ天に向かって伸びているのって実はすごいな〜、とか。天から降り注ぐ光との関係で、様々に映し出される自然の景色って、天国的に美しいな〜、とか。

本当に今回の手放しは「脱ぎ捨てる=脱皮」という感の強いものでした。今までは、「癒し」というと過去の苦しみ悲しみを捨て去る、消滅させる、つまりはそれもある種の死だという負の観念(無意味化、というか)がどうしてもあったのですが、命が2次元からやってくるのだとすれば、死は文字通り再誕生のためにある。
それはすべてのものごとが流れの中にあるということ。であればこそ、 「わたしたちが、再び目覚めたあと、力強く大地を踏みしめると、身に纏った病や痛みは、払い落ち、大地に癒しの種として 、蒔かれるでしょう。」ということの真実が、私たちが何かを手放そうとする時に勇気をくれるのだと思います。だから、自分の苦しみにほとんど飲み込まれながらも、「これは脱皮可能な古い殻なのだ!」と辛うじて気づくことができました

そしてやっと落ち着きを取り戻し、普段のペースに戻ってきましたが、まだ幸せというほどの感覚ではなく。ちょっと片付けていてレムリア水晶を手にとった時に、今までお世話になる一方だったな〜、何も返せてないな〜と、ふと感じ入りました。でも、心から感謝できるほど成長できてもいない私であって。何につけてもそういう状態の私なのですが。

無理に感謝する必要はない。でも自然からこんなに色々なものを受け取って恩を感じているのだから、感謝したい。すべてのものに、感謝したい。でも感謝したい、という願望だけでは、感謝のエネルギーが溢れてくるという感じはしない。逆に無理に感謝しようとすると自分のエネルギーが枯渇していくように感じる。自然に感謝できるようになるにはどうしたらいいの?

すると、その水晶に今までの私の悲しみが保存されていたかのように、手に持っていると悲しみが伝わってきて、これを自分で引き受けなきゃいけなかったんだな〜と感じ、そう水晶に話しかけながら同調してみると、何となく、様々なエネルギーの流れが環を描いているように感じました。そして、水晶からのありがとうというエネルギーが私の中に流れ込んできた時、私は何の努力もなく、気持ちを無理じいすることもなく、道徳心もいらずに、本当にありがたいと感じました。そして、その感謝のエネルギーが自分の中からあふれ出し、今度は他者への愛や創造性のエネルギーに自然に変わって行くイメージが続きました

ただ愛の循環の中にいること。たったそれだけでいいんだ!努力する必要はない。その循環の環は負の意味での破壊の方向に働くこともできるけど、愛による創造の方向に働くこともでき、いずれにせよ環を繋げることができるのは人間だけ。

そして、個性を大事にしてほしいというメッセージも感じました。負の方面から個性を見てしまうと、近しい個性に対して同情や嫌悪感に陥ってしまう危険がありますが、真の意味で個性を愛することができれば、自分に近い個性に対しては共感を、違う個性に対しては新鮮な驚きを感じ、また新たな自分に出会うこともできます(ワンネスの学び)。

つまり、すべて必要なものは自然の中にある(隠されている)。そして、自然のすべての側面が自分に備わっている。それくらい、守られて愛されて導かれているということ。

そのことをハートで理解して(まだ頭でしか理解していないので)、天上の音楽を聴くということとは?

水晶と同調するという瞑想体験を通して、自然と同調するのもそんな感じでいいのかなと思いました。特別に何かするのではなく、ただ余計なものを脱ぎ捨てた状態で向き合ってみること。たまたま、自然の多いところを長距離運転する機会があったので、そういう状態を意識してみようと思いました(車の運転中は割と集中しやすいので)。

しかし、出発直前に仕事のことで小言を言われて、運転中始終、私の頭の中はそのことで支配されてしまいました。すると、美しい景色が全然目に入らないんですね。そのことで逆に、色々な感情を抱えすぎていると自然にアクセスするのは難しいということ理解しました。だから、それこそ今自分が抱えている雑念は実は幻想なんだ、それに感情的に巻き込まれてしまうよりも、心を落ち着けて今目の前にある自然から癒しをもらって感謝を感じて、答えが自然と内側からやってくるのを待つことの方が、真実の道なのではないかと思いました

男性性の私は、自分の力ですぐに答えを見つけ、自分が完璧な存在に近づくことで天国の音楽を聴く資格を求め、外部にその音源を探し求めていたけど、そうではない。

その後、絵画展に行った時に、桜の木のモチーフの絵を出展された方の解説に「自然の造詣はすべてらせんとゆらぎの構造から成り立っている」とありました。それは、男性性が求める直線的な構造や正確なリズムの完璧さ、永遠に変わらない完璧さ、のその先にある、完璧ではないこと、変わり続けることの中にある完全性(永遠性)。

また、あるひとつの存在だけで完全ということもありえず、ある存在は必ず他の違う存在との関係を必要としてもいて、その中に見出される調和にこそ、完全さがある。ひとつの存在はそれ自体は不完全なのだけれど、不完全だからこそ完全、不完全であることによってより完全、なのだともいえる。

だから、一人抜きん出ることを目指すのではなく、調和のピースになること。それは、機械的な歯車の一部になることでもなければ、自分を律することでもない。自分の周りにあるあらゆるものと生きた関係を結ぶこと。もし眼前に現れるものが不調和であったとしても、それがダメなのではなく(抑圧すると逆に関係の断絶が起こるのでは)、味わったあとは学びとして対峙することで、自分の内側からの、心身の調和を養って強くなっていく。それが外側の調和にも繋がって行くのだろう。

そのような気づきを経て、新年早々闇にどっぷりつかってしまってふがいない思いをしたけど、やっぱりクリスマスに種はちゃんと受胎されていたんだな、と信頼と感謝をすることができ、これからもその種をゆっくり着実に育てて行きたいなと思いました。自分の影に対する恐れも少し減ったようにも思います。なるほど2011年のエネルギーって、こうなのか、と♪

またもや長くてまとまりがなくて、うまく言えなかった部分もあり読みにくくて申し訳ないですが、今回もたくさんの愛と導きをありがとうございました。