昨日読み返して癒された、過去のいただいた感想アップします♪4

次元ナディに参加させていただきありがとうございました。提出が少し遅れて申し訳ありません。気のせいかもしれませんが、自分のペースについて理解を深めなさい、という指導を感じました。まだ掴みきっていない、という感覚、期限という区切り、年末という気持ちの区切りの中で、焦らずに信頼して答えを求めるという感覚。そして、やっとテーマを掴んだ、書けそう、という感覚。

4次元ナディを受けて以降、自分の中の悪に散々苦しんでいたので、これはそのまま2次元に繋がっていくんだろうなぁという予感はありました。次から次へと溢れてくる自分の中の悪を制御できなくて、結局は「望まずして悪の側に立たされてきた」被害者の立場を演じてしまって、なぜなら自分は弱くて無力だから、と悲しみに暮れていました。(呪われた自分、という感覚。)

そして、ひとつの決意として、冬プロジェクト直前にリモートトーンサラウンドを受けさせていただいたのですが、思いがけないほどすっきりというか、今まで色々な感情が積もっていたけど、それらがどのくらいのレベルで癒されたかどうかはともかく、今この瞬間はゼロという感じで、そのように軽くなったところに愛がしみこんでくるような、ささやかな幸福感を感じていました。

ナディの前後には、数回、悪夢のような夢を見ました(身近な人が悪人だったり?)。そして毎回「夢でよかったな〜」と、なぜか現実に対する感謝の気持ちが湧いてきました。

そして、リモートトーンサラウンドと聖母マリアの女神学校を受けていたことで、4次元の悪を受け止め切れないという苦しみからは少し距離を置くことができ、ある程度客観的に見られるようになってはいて、その苦しみがどこから来ていたのかもとを辿って行くと、これまた散々向き合ってきたつもりの、母親に対する思いが課題となっていたのでした。

実際にそれらを痛感させるような出来事が次々と起こってはいました。先立って聖母マリアで怒りの感情を解放してみると、真実の私はまだまだ母親に怒りを感じていました。そして、リモートと聖母マリアでせっかくようやく浮上できていたのに、ここ最近のゴタゴタした状況の中でまたもや力を抜き取られたような虚脱状態に陥った時、何を思ったかというと、「母親のせいだ!だから私はなりたい自分にいつまでたってもなれない。どんなに頑張ってもいつもこの苦しみの地点(呪われた自分)に戻ってきてしまう。」でした。実際は家は一見とても調和的な、善意に満ちた雰囲気があるのですが、4次元で自分の悪を見通してしまった後では、家の中に満ちている巧妙な偽善がありありと見えてしまい、善であるかのような依存の関係に無意識の部分でどれだけ自分がからめとられてきたのかを改めて認識すると、ちょっとこぞっとするところがあったのです。

しかし今回は、さすがにその感情に浸ってしまうことには違和感がありました。リモートのレポートで「悲しみでフェイクして逃げているところがある」という指摘を受けていましたし(自覚していませんでしたが)、これまで高次から受け取ったことの真実味からして、私のこの苦しみが幻想でないはずがなかったからです。高次から母性を受け取り、自分で自分を肯定すればよい。他の誰が肯定しなくとも。この、自己の価値を否定されることの苦しみ、そして自らも否定してしまうことの苦しみを切り離してくれるのは、聖母マリアの剣。そしてここまでたどり着いたのだ。そして、時に力を失っても、また立ち上がることがきっとできる。苦しみに対して無力で、その地点に留まるしかない自分というのは、幻想なのだ。

精霊たちの呪いを解く前に、まず自分が自分でかけた呪縛から解放されなければならない。生きるために、生き抜くために、自分でかけた様々な呪縛の数々。


そこで、まず、今まで課題だった同情ということについて、意識化されたことは、これまで共感のつもりで同情に陥っていたことの理由は、誰かの苦しみを肩代わりしてあげたいという偽善(自分の苦しみをそのように抜きんでて理解され、取り除いてほしいから)、誰かが誰かに愛されなくて苦しんでいるなら私こそが愛するという偽善(自分がそのように抜きんでて愛されたいから)がそこに入り混じり、無償の愛からではなく、巧妙に報いを求めていたからだったのです

このからくりを理解した時、自分の中の偽善と母の中にある同じものに、ものすごい嫌悪感が湧き上がりました。私が世界中の苦しみについて、もし自分に起こったらという想像から耐えられないものとして感じながらも、その苦しみを理解したいと思っていたことの理由も、すべての人の苦しみを理解したいという道徳心から、そのためには苦しみを肩代わりしてあげれるくらい同様に苦しまなければいけない、と思っていたからですが、それは、それぞれの人の学び(孤独)を奪うルシファー的な行為でもあったのですね。本当は真実として共感していたのではなく、自分の中の恐れや不安に苦しんでいただけ。

だから、世の中に苦しみが存在する以上、自分の中の苦しみも不安も消えない、だから、この世に苦しみが存在しないでほしいという、何とも壮大なエゴから、私は世界の平和を願っていたのだと気づいて、愕然としました

でもって、ということは、やっぱり私は「苦しみ」が存在すること自体が許せないのだな、と!これだけ苦しみに耽溺してきた私が、苦しみが存在することが許せないなんて、矛盾しているのですが、あってはいけない苦しみがこの世にあるからこそ、それを言い訳にして、人を自分を世界を「愛する」ことから逃げ依存に甘んじてきたということなのです。それはまぁ、それだけ巧妙ですさまじいエゴに気づいてしまったら、その地点から見ると「愛する」ということがどれだけハードルが高かったか、ということも理解できるわけですが(苦笑)。

でも、まずは聖母マリアで、「苦しみ」が存在することを許せるようになりました苦しみとともにあるありのままの私、時に苦しみを感じるありのままの私の人生、そして苦しみから学べる、ありがたい人生、それを慈しもう、と。完璧でなくていい。


とすると、私はそれだけ完璧を求めていたということでもあるんだ、と気づいて、また今さらながら驚いたのです。実際、子どもの頃から努力でカバーできないダメな部分、分野を数多く持っていたことから、完璧など求めようもない人生だと諦めていましたが、逆に言うと、その不完全な自分に翻弄されつくしながらも、その不完全な自分をありのままの自分として認めて愛することがこれまでできなかったということが(いまだに不完全な部分を恥じ、隠したいと思っている)、苦しみをいたずらに肥大させてしまっていたのですね。


で、とにもかくにも、そのような、完璧さというものを求めるエゴを手放してしまったら・・・あらら、楽なのですね〜。完璧を求めないということは、報いを執拗に求めないということでもあり、自分のしたことが思ったような結果を生まなくても、やりたくてやったんだから、と納得が行ったりもするんですね。やりたいことをやったということですでに満足感があるということでもあります。報われなかった怒りに対して月の女神のワークをしてみて、そのくらい、今まで強烈に見返りを求めていた自分のエゴというのを認めたからこそ、なのですが。

そのように、自分が自分であることの静かな満足感というものを味わって、2次元の学びを一旦まとめようと思いましたが、いざレポートをまとめようとすると、まったく手が動かないのです。何故だろう?

2次元という次元そのものについて考えていた時、地の世界に根をはっているのが植物界とあったし、出産のプロセスを経て母子は苦しみを分かち合っているという部分から、「根=ルーツ」というものについてひっかかる気持ちがありました。結局、私は私でいいと認めることができてよかったとして、なぜ、私はあの両親を選んで生まれて来たのだろう?という疑問には答えられなかったからです。あの母親と苦しみを分かち合って生まれてきて、だから何なの?どこに愛が生じる余地があるの?というような(道徳的な感謝とか、恩とかいうのは一切抜きにして、です)。つまり、やっとやっと自分が自分であることを許せたといっても、まだ母を許せないままだったし、これまでの苦しみの意味もよく分からないままだったのです。

母の魂の善なる部分は理解しているつもりではあれ、自分がコントロールすることでもないのなら、これ以上手の出しようもなく、後は自分がなるべく影響を受けないようにするだけしかないのかな?そのうちに何かが変わってくるのかな?というような不完全燃焼な感じ。つまり、互いの魂は尊重されるべきだけども、なぜ3次元的に母子としての関係でいなければならなかったのかを理解できないままでは、3次元のこの世界そのものを愛することはやっぱり難しいのではないか。

焦りを感じているうちに、iの方のレポートがアップされました。その深い愛に感動するとともに、自分自身は何だか少し落ち込んだのです。私という人間は、結局たいして人を愛せていないんだな〜という自己嫌悪。でも、それすらも、「いいんだよ、ありのままで。背伸びして人を愛そうとしても苦しいだけだから。まずは自分の中に今回生まれた喜びを味わいきることが先決。」と認める自分も今はいるわけで、「愛せない」と苦しんでいる自分を認めて許そう、愛そうと思いました


そして、そのように楽な気分でしばらく過ごして後、ある歌を聞いていたら、その歌詞の中で謳われていることがキリストへの愛と重なって、深い歓喜を呼び起こしました。「太陽は地球の半分を照らす 私の魂の影の部分も照らし出す いつの時も 雨のように あなたは私の心を潤す 私の人生は美しい もしあなたとともにあるならば いつの時も 私の呼吸が止まるその時まで あなたは私が常に吸い込んでいる空気のよう あなたは常に私のナディの中を流れているもののよう・・・」という歌詞なのですが、それがまったき真実だという感覚を「味わった」のです。そして、そうである者としての自分への愛も感じました。

自然界もすなわち、私たちの感情を表象しているのですね。四季の移り変わりの中にも私たちの感情を投影することができるし、他への奉仕や犠牲の苦しみとも受け取れるような弱肉強食の様相、あらゆるものの循環、様々な鉱物、様々な植生の個性は人の個性のようでもあるし、だからこそ、私たちは自然の中に自分自身に備わる自然を見出せるし、自然によって癒されることができる

癒しとはキリスト意識への目覚めの過程に他ならない。まず下降してから再び上昇を始めること。癒すことによってしか上昇は始まらない。どんな傷を負っているのか見えなければ、癒すことはできない。その傷は2次元に隠されている


今まで私が、人として道徳的であろうとしてきた努力(それほどのレベルを化していたわけでもありませんが)と、同情的な性格を正当化するための美学的な解釈としては、「不完全な世界を愛し、不完全な存在である人間を愛する。そして何よりまず不完全な自分を愛する。」ということは、目新しくもなければ、当然過ぎるほど当然のスピリチュアルな常識でもあったのですが、実際の私は真実でそれをしていたのではなく、道徳的な高みにいたいがための痩せ我慢でもあれば、自己陶酔・自己憐憫のための欺瞞でもあったのであって、4次元の罠にどっぷりはまったレベルでの理解しかしていなかったのです

そして、前の私ならそのことに激しく落胆してますます苦しみに耽溺してしまっただろうと思われるのですが、さすが聖母マリア再開催もあっての2次元テーマのサポートというか、全然自己嫌悪に陥らずに済んだのです。これが私の真実の姿なんだ、と、そのありのままを認め愛そうと思える。表にさらされた自分の真実の姿は今までになく醜悪なのだけれども、私の心は今までになく安らいでいる。何の無理もなければ、強制もなく、ダメな自分を愛せる。だから、また歩き出そうという元気も湧いてくる。それは、とても幸せなことでした。



その後、お風呂でシャワーを浴びながら、その感覚を思い出していたら、急に、そのように自分ことを許せるのなら、母のことも許せるような気がしてきました。つまり、母親がとりわけダメな人間というわけではなく(自己嫌悪の投影だからとりわけダメに見えてしまう)、私が完璧な母親像を求めていただけなんだな、と。すべての存在に対して、私は条件付きでしか愛することができていなかったのだ、もちろん、自分に対しても。

そして不思議なことに、「もしかして、私は、ありのままの母親を愛してもいいんだ?」という考えが湧いてきて、とても嬉しい気持ちになったのです。本当は愛したかったんだけれども、自分の中の完璧さを求める気持ちから、「こんな母親は愛するに価しないから愛してはいけない」という禁止をかけてもいたのですね。そしてその禁止は、私たち母子が病的なまでの依存関係に発展してしまう危険から、今まで守ってくれていたのも事実です(4次元の学び)。
それが、私の自分への愛が少しは育ってきた今、やっと許可の方向へ動いているわけなのです。子は母に無条件に愛されたいだけではなく、母を無条件に愛したいと望んでもいるのですね。それが子としての喜びでもあるからこそ、それを禁じられることで、地獄を作り出してしまう。

ナディの告知がされた時の記事で出産のプロセスについて書かれていましたが、最初読んだ時、霊的な学びのプロセスとしては納得だけど、3次元的に私が自分の母親と出産の苦しみを分け合ってその子宮から生まれてきたことにはいまいち納得がいかなくて、あまり考えたくない課題でもありました。

今そのことに今一度深く向き合ってみると、3次元的な肉体的な繋がりがあることによって、母は子にとって命を与える者であると同時に、苦しみ(誕生の苦しみ、人生の苦しみ)を与える一番の者なのだなぁ、と。だから、人生において克服すべきプロセスの中に、まさに親子関係の修復のプロセスが含まれているのは当然といえば当然なんであって、私たちは癒された子宮に生まれるべきだったのだとかいうことではなく、人生において癒された子宮を創造(再誕生)させていけばいいのだな、と。


自分という存在がなぜ自分なのか今はまだ分からなくとも、もうすでに地上に存在している以上、再誕生を目指している魂としてここにあるのであって、すべての魂がそうであるのなら、存在への愛に条件などいらないはず。そのように無条件に自分自身を愛すればこそ、自分の生まれてきたルーツを無条件に愛することができるのですね。もちろん、これからも衝突はあるのでしょうし、怒りを発散することはあるかもしれませんが、今までのように憎しみを連ねて行くようなやり方は繰り返したくないと思います。そして、もっと自分を愛せるようになれば、自分がなぜ自分で、親がなぜあの人たちなのかということも、もっと深く理解できるようになるのでしょうね


つまり、2次元に下降するということは、悪の与える苦しみと正面対決することによって、悪を克服することとイコールなのだ。それをあなたが自ら自由意思で決意し、2次元に下降したなら 、あなたの道徳的、倫理的に向上したいという望みが、エゴイズムに陥ることは、もはや、無いだろう。」


自分の中の一番深い暗闇の地点から始める時、そこにエゴの入る余地はありません。一番見たくない自分を見るときに、傲慢さは剥ぎ取られるからです。とはいえ、実はまだまだ自分の中の悪を見つめる余地を感じています。まだまだ深く降りていく必要があるのだろうと感じています。人間という存在を理解していくために。でもいつでも聖母マリアが見守ってくれていますものね。ゆっくりと。


今回は意外にもリアルに母子関係の課題に触れることになりましたが、リアルに書きすぎかな〜とも思いましたが、決して憎しみの吐露が目的ではなく、愛することへ向けての一過程であることを前提にすれば、癒しの過程をよりリアルに感じていただけるかなと思い、あえてシェアさせて頂きました。あまり時間がなくて、うまくまとめられなくて申し訳ないです。

今回もたくさんの高次の存在やフミさんのサポート、ありがとうございました。皆様よいお年をお迎えください♪