なぜ≪サロメ≫的な体験を選ぶ魂が存在するのだろう?その意義は?☆


でも、そもそも、そんなふうに魂に甚大な負担を及ぼす性的虐待や暴力という経験を選択する魂が存在するのは、なぜなのでしょう?
統合失調症や、うつ病など、精神的不調をきたす可能性だって強いのに。


周囲の悪質な性的な欲や、暴力の犠牲者になっただけだと、一般の人々は考えるかもしれない。
そして、加害者を憎み、そうした性的な暴力を与えた人に、厳しい制裁を与えることが、解決と思うかもしれません。

が、それで、こうした事件や悲劇がなくなることって、結局のところ長い歴史を振り返っても無いのではないでしょうか?
こうしたことに、問題提起が出来るようになり、暴力の一種であると認識できるようになったというだけでも、今という時代は、進化したのかもしれません。
古代や、そんなに昔でない時代でも、男性側の力が強かった時代には、道義的に慣例として、通用していたことだってあるのですから。
女性の意思が尊重されるようになったのなんて、本当につい最近のことなのかもしれません。



これも、各自の経験に対しての感受点に依ることかもしれませんが、まず、もしもそういう体験をした女性が、今度は、男性に転生した場合に、本来男性が持つという性的な衝動に対して、バランスがもたらされる可能性があるのではないか?と思います。
この3次元は、「陰陽」のバランスにおいて、魂の成長と進化を図る場です。
自分が痛みを感じた体験を、人にはしないようにするという意図を持つ魂の成長を果たす人がいると思います。

男性のなかにも、男性性が強い人と、女性性も育っている人という違いがあると思うのですが、そうした女性性が育っている男性は、女性であったときの経験を生かしている魂と言えるかもしれません。
そういう男性は、暴力的に性的な行為を行う意思に対して、抑止力をもっていると思います。


また、≪サロメ≫的な女性に魅かれ、拒絶されることによって、自らの至らなさに気付き、魂の成長へのきっかけを得る男性もいるかもしれませんね。
西行」のように。


男性性が強い人は、「自分が正しい」という信念に固執する傾向も強いですから、その部分を修正するその人の高次の自己(ハイアーセルフ)の意思が、自分が強く魅かれた相手に拒絶されるというプライドが崩される経験を選ばせるゆえに、一定のレベルで、≪サロメ≫的魅力をもった女性が、3次元に誕生することの意義もあるのかもしれません。


レオナルド・ディカプリオや、ジョセッペ監督が、男性のなかの「唯一人の女性」と呼ぶ女性の存在意義。
そしてアメリカ文学の最高峰と云われる「グレイト・ギャツビー」が読み継がれている意味も、そこにあるのかもしれません。

そういう手痛い経験が、男性を、本当の大人の男性に成長させるからでしょう。
「自分が幸せにしたいと切望したけれども、できなかった未熟な自分」を知らしめてくれた女性の存在。
そういう女性との経験を胸に秘め続けることによって、
「自分の家族を大切に思い、友を助けて、襟持を正し、男らしく生きることが出来る」
大人の男性に成長しようという意思を謙虚に持ち続けることが出来るのかもしれません。


だから、やはり、≪サロメ≫的な女性は、ある意味で、永遠のマドンナなのでもあるのでしょう。
男性にとっては、です。


でも、真の≪サロメ≫的な女性は、自分が男性に対してそういう影響力を持つからといって、幸せに感じることはないように思います。
だから、男性によって、救われるということは無いのだと思います。
浅薄な男性の言動によって、その傷をむしろ深めることは、あったとしてもです。


サロメ≫的な女性が救われるのは、きっと、その女性が、男性に救いを求めることを「断念」したときなのではないかと思います。
強くなろう、自己憐憫から抜け出し、犠牲者という立場を返上し、自分で自分を救おうと決意したときに、そこまで悲劇が重なって、限界に達したときに、天界からの救いの恩寵のプログラムが作動し始めるのではないか?と思うのです。

それが、少し前のサビアンサインのなかにあった「岩の形成」の意味なのではないでしょうか?
それは、崩壊した「境界線」を再び、構築する試みです。



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