レオナルド・ディカプリオの「デイジー論」と、ウインブルドン☆


昨日の七夕の≪イシス≫の設定は、時間がかかりましたが、とても上手くいったと思います、笑。
やっぱり、ヴァージョンアップ的になりました。


設定が終わったあとも、なんだか目が冴えてしまって、そうだ〜今夜ウインブルドン男子決勝だったな〜とテレビをつけました。
わたしは、現在の仕事を始めてからは、テレビは、ずっと見ていなかったし、テレビを見始めたのは、実は今年からなのです。
まあ、それだけではないのですが、ウインブルドンは、ずっと見ていなかった。
見ていて、すごくいろいろ思い出すことがありました。
わたしが結婚生活を送っていた時代(遠い昔ですが)。
また、その前も、わたしは、ウインブルドンの衛星放送の試合をよく見ていたのです。
というのは、主人が、テニスをしていた人だったので、必ず見ていてたし、よく一緒に見ていたのです。


昨夜の試合は、まさに白熱のすごい試合で、ス―パーショット満載だったし、アンディ・マリーの、77年ぶりの英国人によるウインブルドン制覇が掛かっていて、見始めたら、もう目が離せませんでした。
そして、マリーが、七夕に77年ぶりの英国人によるウインブルドン優勝を成し遂げて終了しました。


なんとなく、ウインブルドンを見ながら、≪イシス≫によって、自分の中の痛みや罪悪感が、消されていることを実感していました。
わたしは、離婚したことで、やはり主人に対して、大きな罪悪感をずっと抱えていたのです。

そういう自分の女性としての未熟さからの身勝手さや、我儘さや、自己憐憫が、わたしのなかで、ずっと痛みを持ち続けていました。
何か、それらが≪サラスバティ瀬尾律姫≫から、≪イシス≫のホワイトマジックで、新たなレベルで解放されたような気がしています。


ウインブルドンを見れたことは、彼との思い出を、楽しかったときを、恋愛関係を、結婚したことを肯定できたように感じたのです。
何か、わたしのハートに詰まっていた小さな粒粒が、宇宙に返っていったような気がしました。


華麗なるギャツビー」のパンフレットを読んでいたら、ギャツビーを演じたレオナルド・ディカプリオの「デイジー論」が、語られているところがあって、なるほどね〜と思ったので書き出してみます。
監督のラーマンが語っているところです。


「レオは、(デイジー役のオーデション時に)すごくいいことを言った。
’ギャツビーはいくらでも美しい女性が手に入った。
キャリー(マリガン)は、とても美しいけど、同時にとても個性的だろ。
デイジーには、かわいらしさとユニークさと、ギャツビーが守りたくなるような何かが必要だ。
彼が、それまで経験したことのないような何かが。

と。
レオと私は、顔を見合わせてこう言ったんだ。
’それが、彼女(キャリー・マリガン)だ。’」


レオ様も、ギャツビーと同じように、「いくらでも美しい女性が手に入る」立場でしょうから、発言に重みがありますよね、笑。


またこういう質問にもこのようにディカプリオは、答えているのです、笑。

Q:ギャツビーは、幻想のなかで、ずっと一人の女性を愛していますが、あなたの中にもそういう女性がいますか?

レオ:すべての男性には、そういう女性の存在があると思うよ。
もちろん、僕にもね。
まあ、ギャツビーのレベルまで狂ったりしないにしても、笑。
まちがいなく、男なら誰もがそういう女性が、心の中にいるものなんだよ。



これって、≪マグダレンホーリーグレイル≫のときに書いた「マレーナ」についてジョゼッペ監督が語ったことと同じでは?

http://d.hatena.ne.jp/birth-of-venus/20120920/1348106932

「つまり、男がもっとも男らしい人生を生きるとき、その男の心の中には、大抵の場合”ただ一人の女”が棲んでいるものだ。
男が人を愛し、自分の家族を大切に思い、友を助けて、襟持を正し、男らしく生きることが出来るとしたら、それは心の中に棲む”ただ一人の女”のためであることが多い。」


今日≪イシス≫に参加してくださるみなさんの、ガイダンスのフォローにもなるかと思います♪
今日の≪イシス≫、女性性の深い癒しにもなることを願って☆


余談ですが、このマリガン演じるデイジーは、「フランスの女」のエマニュル・ベアールに似ていると思いました。
雰囲気が、すごく似ている、笑。


http://www.gatsbymovie.jp/?filter=all