「欲望」には、痛みと苦しみが伴うという恩寵「ミカエルロータス(第二チャクラ)」☆


ミカエルロータス(第二チャクラ)



「禁欲する必要があるあいだは、神秘学の学徒は、一定の段階までも到達することができません。
神秘学に学徒にとって、自分に強要しなければ、ならないような徳性には、ほとんど価値がないのです。」
「欲望が存在している限りは、どれほどそれに屈しないように努めたとしても、学徒は、欲望によって妨害されます。
欲望が体と魂のどちらに属していようと、違いはありません。
たとえば、ある人が快楽を遠ざけることによって、自分自身を純化するために、特定の刺激物を避ける場合には、このような節制は、それによって、体がまったく負担を感じないときにのみ、効果があります。
少しでも、負担を感じるならば、それは体がその刺激物を欲していることの表れです。
この場合、無理に節制したとしても何の意味もありません。
このような場合には、学徒は、とりあえずめざしている目標に到達することを断念して、より恵まれた感覚的な状況が表れるまで(もしかすると、そのような状況は、次の地上での人生において、ようやく現れるかもしれません)、待つ方がよいでしょう。
場合によっては、現在の状況で達成できないことを無理に得ようとするよりも、理性に従って諦めるほうが、はるかに大きな成果がもたらされます。
強引に目標に到達しようとするのではなく、むしろ理性的に断念することによって、学徒の進歩は促されるのです。」 (シュタイナー 「いかにして高次世界を認識するか」)



前の記事で、過剰適応に陥っている=周囲のすべての人の要求に応えようとして、自分の欲求をないがしろしている人。
と書きましたが、「自分の欲望をないがしろしている」ということは、欲望は、そこに残ったままですよね?
それで、過剰適応の人は、どうするかというと、その欲望を他者に埋めて、満たしてもらおうとします。
そして、それを当然の愛情を受け取ることであると思う傾向が強いのですが、それは、「依存」です。
ゆえに、「過剰適応」→「依存」→「過剰適応」という連鎖を強めてゆくわけです。


この「自分の欲望をないがしろにする」というのは、上記のシュタイナーの指摘する「禁欲」とも共通する点があると思います。

ヒーラーさんや、ヒーラー志望のかたにもいらっしゃることが多いのですが、「自分の欲求をないがしろしている人」や、「自分の力以上のことをして、相手の期待に添おうとする人」に「禁欲」タイプの人は多いような気がします。
そういう人、過剰適応傾向のあるヒーラーさんは、依存体質をもっているので、クライアントさんと依存関係にも陥る危険性が高くなるような気がします。
これを、恋愛に当てはめた場合も同様です。


だから、その安全装置として、「欲望」には、「痛み」や「苦しみ」が伴うように設定されていることは、高次からの、わたしたちへの恩寵です。
「痛み」や「苦しみ」を体験したくないから、禁欲している場合は、「痛み」や「苦しみ」が、抑圧され溜まってゆき、「欲望」が増大する結果となって、いずれ向き合うことになるのも、恩寵というわけです。


「わたしたちの体の中央に位置する六弁の蓮華(第二チャクラ)を発達させるのは、十弁の蓮華(第三チャクラ)を育成するよりも、困難です。
なぜなら、六弁の蓮華を育てるためには、私たちは、体と魂と霊が完全に調和するように、自己意識を強めることによって、みずからの人間全体を、完全に支配しなくてはならないからです。」

「私たちが、体を崇高で、純粋なものに変化させると、体の器官が、魂と霊に仕える以外の事柄に、私たちを駆り立てることはなくなります。
(六弁の蓮華を開花させるということは)私たちの魂が、体によって純粋で崇高な思考と対立するような欲望や情熱へと、もはや駆り立てられることのない状態のことを示します。」
「ゆえに、私たちは、命令と掟を一方的に、押し付けて、奴隷を管理する主人のように、霊的な義務の命令と掟によって、体を支配するべきではありません。
神秘学の学徒は、いやいや義務に従うのではなく、それを愛するからこそ、義務を果たすようになるべきです。」(シュタイナー 「いかにして高次世界を認識するか」)



欲望の浄化の初めの一歩は、抑圧するのではなく、
「自分が、何を、なぜ、望んでいる(欲しいと思っている)のか、理解すること」です。


6月21日(金) 夏至開催「ミカエルロータスシステムワークス(第二チャクラ)」
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