「すべての存在と調和する」というテーマの背後に「自分という音の肯定とその祝福」≪レディ・ナダ≫☆


こちらも≪レディ・ナダ≫エントリー後のガイダンスのフォローとしての記事になります。


「外界を顧慮しても全く動じないものは、平静そのものに見える。
どれほど多様に姿を変じようと、外界との関係では常に平静なままである。
この命題はあらゆる自己変容に当てはまる。
美があれほど平静に見えるのは、それゆえなのだ。
美しいものは全て、自己照明された、完結した個体なのである。

(ノーヴァリス『花粉』)



前にも書きましたが、わたしの≪アフロディーテ≫の夢シリーズは、継続しております、笑。
でも、今朝で、小1の初恋の人まで行ったので、もう終わりかな?とも思っておりますが....。
(時間を逆行しながら夢に見ていたので)


そして、最近、村上春樹さんの「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいて、これは≪アフロディーテ≫が読ませているな〜と思う箇所にたくさん出会っていて、ご参考までに、ちょっと書き出してみたいと思います。
思春期に味わう葛藤が、まさに≪アフロディーテ≫期に、相当するな〜と思うのです。


「僕は、テーブルに肘をついて、コーヒーを飲みながらユキの顔を眺めていた。
本当に綺麗な子だ、と僕は思った。
じっと見ていると心のいちばん深い部分に小さな石を投げ込まれたような気がする。
そういう種類の美しさなのだ。
くねくねと穴が複雑に折れ曲がっているし、ものすごく奥のほうだから普通なら届きっこないのだが、彼女はそこにきちんと小石を放り込むことができるのだ。
僕が十五だったら恋に落ちていたな、と僕は十二回目くらいに改めて思った。
でも十五の僕は、彼女の気持ちなんてまず理解できなかっただろう。
今はある程度理解できる。僕なりにかばってやることもできる。
でも僕はもう三十四で、十三の女の子に恋をしたりはしない。
上手くいかないものだ。

同級生たちが彼女を苛める気持ちというのは僕にもわからないではなかった。
彼女は多分彼らの日常性を越えて美しすぎるのだ。
そして鋭すぎる。
おまけに彼女のほうからは、決して彼らに歩み寄ろうとはしない。
だから彼らは恐怖し、そしてヒステリックに彼女を苛めるのだ。

彼女によって自分たちの親密な共同体が不当におとしめられているように感じるのだ。
そこが五反田君と違うところだ。
五反田君は自分が他人に与える印象の強さをよく認識し、それをきちんとセーブしていた。
それを制御していた。
彼は他人に恐怖を与えたりはしなかった。
彼の存在が知らず知らず大きくなりすぎたときには、にっこりと微笑んで冗談を言った。
立派な冗談である必要はなかった。
ただ感じよくにっこりとして、普通の冗談を口にすればいいのだ。
そうするとみんなもにっこりとして楽しい気持ちになることができた。
いい奴なんだ、とみんなは思った。
それが ―たぶん本当に良い男なのだろう― 五反田君だった。
でもユキはそうではなかった。
ユキは自分一人を抱えて生きてゆくだけで精一杯なのだ。
まわりの人間の感情の動きまで細かく考えてそれに細かく対処してゆくような余裕がないのだ。
そしてその結果他人を傷つけ、またそれによって他人をとおして自分も傷つくことになるのだ。

五反田君とは、根本的に違っているのだ。
ハードな人生だ。
十三の女の子にとってはいささかハードすぎる。
大人にとってさえそれはハードなことなのだ。」


このように≪アフロディーテ≫期というのは、みんな不器用です。
自分のもつパワーが多くの人に反感と嫉妬を与えてしまう。
それによって自分も傷つく、嫌われたり、憎まれたりする、突然裏切られたり。

五反田君のように注目を集めながら、感じよく振る舞える人もいるかもしれないけれど、少数だと思うし、このように生きることが出来たゆえに、五反田君は、とてつもなく不幸な闇を自分のうちに抱えてしまう結果になってしまう。
他人の注目を集められた人、スポットライトを常に浴びることができたということは、間違いなく一つの自信になるし、さらなる魅力にもなる。
けれど、それと「幸せ」は、どうも別ものみたいです。


自分の音を鳴らして、他人にも調和するというのは、実際は、本当に難しいこと。
それは、みんな、多くの人が、自分の本当の音を響かせているわけでは、まだないから。
特に思春期にそれが出来る人は、本当に稀なのだと思う。

そこで、他の人と不協和音を鳴らしてしまったと感じた人は、自分の音をさらに見失いやすい。
なぜなら、思春期というものは、誰もが自分を客観的にみることが難しいから。

そしてまた、五反田君のように、他人の音ばかり聞いてそれに調和するようにばかりしていると、自分の音を失ってしまう。
それもまた悲劇。(最大級の)



「アメはいつものダンガリのシャツによれよれのコットン・パンツという格好ではなかった。
彼女は上品なレースのついた白いブラウスに淡いグリーンのスカートをはいていた。
髪はきちんとセットされ、口紅もつけていた。
美しい女性だった。
いつもの溢れるようなバイタリティーは消えていたが、そのかわりに危うげなほど繊細な魅力が彼女のまわりをほんのりと蒸気のように包んでいた。
その蒸気は今にもふらふらと揺れて消えうせてしまいそうに見えるのだが、ただそう見えるというだけのことで、いつまでもそれは彼女のまわりに漂っていた。
彼女の美しさはユキの美しさとは全く違った種類のものだった。
対極にあると言ってもいいかもしれない。
それは歳月と経験によって育てあげられ、磨かれた美しさだった。
それは、彼女の自己証明ともいうべき美しさだった。
その美しさは、いうなれば彼女自身だった。
彼女は、その美しさをきちんと把握し、自分自身の為に有効に使用する術を心得ていた。


村上春樹さんは、ユキとアメの美しさを対極とご説明されていますが、
わたしは、ユキとアメの美しさは、関連したものではないかと思いました。

自分の音を探し、確定してゆくにも似た時間と洗練の過程が、その違いだけで。

だからこそ、≪レディ・ナダ≫のテーマは、≪アフロディーテ≫の癒しとも関連しているのではないか?
とエントリーの準備をしていて感じたのです。

もちろんアメだって完璧ではない。
そして、完璧に幸せなわけでもない。

自分の音を知り、ありのままで、周囲が肯定してくれるレベルまで、確かに、達している。
才能ある世界的なカメラマンとしての地位も確立している。

でも、≪レディ・ナダ≫は、それ以上の何かなのだと思います。
だからこそ、自力ではなく、恩寵として成り立つもの。

もしかしたら、次元を下降して、上昇したその高次元で、すべての存在の真の音の響きのなかで達するものかもしれない。
けれど、そのエッセンスをここ3次元に顕現させるための「調和」への志向にこそ意味があるのかもしれません。
その進むべき、方向性として☆

明日の2013年の春分の日が、祝福された日にならんことを☆

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