男性の固定化された思考を解き放ち、変容させるための強力なエネルギー≪イシュタル≫☆2


英雄ギルガメッシュと女神イシュタルの逸話は、シュタイナーの記述が理解しすいので、それを転記させていただこうと思います。


「昔、ギルガメッシュという偉い王様がいました。けれどもこの名前がよく示しているように、名前を読み解くことができる人なら、この名の王が地上の王であるだけでなく、その背後には霊的個性がこのウルクの王に憑依し、この王を通して働きかけていたことを知っています。
この王は、都市ウルクで、当時、圧政を敷いていたので、都市ウルクの人々は、神アルルに、どうぞ助け主をお遣わしくださいと祈願しました。

(ここで、エアバニが遣わされるわけですが、ここでは、そこが主要テーマではないので省きますね。)

あるとき、近隣都市が、ウルク市から守護女神イシュタルを奪ってしまいます。
そこでギルガメッシュとエアバニは、女神を略奪した都市に戦いを挑み、その都市の王を打ち負かして、守護女神を取り戻します。

こうして女神イシュタルは、ふたたびウルクに戻ってきました。
(さて、ここからが重要な部分です!)
ギルガメッシュは、女神と向き合って生きることになったのに、イシュタルのことをまったく理解しません。
そこで、「ヨハネによる福音書」のある情景を想起させる場面が生じます。
ギルガメッシュは、イシュタルの前に立ちます。
ギルガメッシュは、もちろんイエス・キリストのような態度をとらずに、女神に向かって、自分と出会う前に、どうしてそんなに多くの男を愛したのか、となじるのです。
(初めて大文字使ってみました、重要なポイントなので、笑)

特に最後に愛した男のことで、女神を非難するので、女神は都市の守護神としての自分が従っている高次のヒエラルキアの神アヌにギルガメッシュのことで苦情を言います。

その結果、アヌは一頭の牡牛を地上に送りこみ、ギルガメッシュは、この牡牛と戦う羽目になります。
牡牛と戦うミトラの姿は、アヌが送りこんだ牡牛と戦うギルガメッシュと良く似ています。
こういうさまざまな出来事の末に、とうとうエアバニは死んでしまうのです。
神話のこういう物語の中には、深い意味が潜んでいます。
ギルガメッシュはひとり残され、魂をずたずたに引き裂かれ、悲痛な思いにとりつかれながら、人間は死ななければならないのだ、とはっきり思い知るのです。
これまでそんなことは思ってもみなかったのですが、死の恐ろしさを強く実感させられるのです。」

ここまで書いてみて、ギルガメッシュが、人智を越えた能力や地位や権利をこの世で授けられた人物であること、そして、それに甘んじて、弱さや痛みを理解しない傲慢な人物であったことが理解されることと思います。

それは、明日11月11日開催(本日締め切りです!)の「12次元ナディ」のご案内で書いた「人の痛みや苦しみに対しての共感の欠如」の状態を表していると思います。


もう一度、「スプートニクの恋人」のミュウの独白を載せてみます。

「’強くなることじたいは、悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった、幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりに一人もいなかった。’

’とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった。’」



それに対して、アインシュタインの言葉。

「自分の熱烈な望みが叶うのは、

人間と動物と、植物への

愛と理解を獲得して

あらゆる喜びが、

自分の喜びであり、

あらゆる苦痛が、

自分の苦痛であると感じることが

出来た場合だけであるということを、

知っているだろうか.....」

そして、大抵の英雄の旅路と戦いは、そのことを理解するためにあるわけです。


続きます♪



11月14日新月日蝕☆女神ワーク≪イシュタル≫
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