ミカエルの学びなのでしょうか?

最近、立て続けに新作DVDを見ました。

アレクサンドリア」、「アメイジング グレース」、「わたしを離さないで」。


アレクサンドリア」は、天文学者で数学者でもあったヒュパティアの虐殺のお話で、予備知識としてあったのは、岡野玲子さんの「陰陽師」で、最後の刊のほうにちょっとしたヒュパティアのエピソードが盛り込まれていて、それくらいであったのですが、映画を見て、わたしが強く感じたテーマは、グラマーでも触れた「一つのアイディア、一人の人物、一つの権威、真理のある一つの面しか見えない。これが狂信と霊的なプライドを増大させてしまう」という部分。


ヒュパティアの宇宙に対しての畏敬の念と、キリスト教の背後にある神への畏怖と愛は、同じ要素を表現しているのだけれど、ローマ市民と、奴隷や貧困にある人々との、特権階級と差別される側との対立に大義名分が取られて、互いに虐殺を繰り返すことになってしまう。

真実は、特権階級に対しての、奴隷や貧困に苦しめられる側の怒りと、特権階級ゆえのプライドとの争いなのだけれど、それが、エジプトの多神教と、キリスト教一神教の権威の争いにすり替えられてしまっているということ。
ある意味、争いの根拠に宗教を利用しているのだけれど、争いには、大義名分が必要なのでそうなってしまうのだろうなと。
でも、特権階級に向かう、一般の貧困層の怒りは、いずれは、爆発するものだったのだろうと納得もできる。

興味深かったのは、ヒュパティアも完全にいい人という描き方はされていなかったということ。
映画の中で、「そんな低レベルの争いは、奴隷たちや下級の人たちに任せておきなさい。わたしたちは、高尚な学問を学ぶべきです。」みたいな発言をヒュパティアにさせているのです。
この言葉は、身近で聞いたヒュパティアに憧れながら仕える奴隷の青年にとっても、ちょっと酷い言葉なのでは?と思ったけれど、でも、この時代の有識層というか、良心的な人であってもそういう認識は、人としての限界だったのだろうとも感じました。
たぶん、悪気なく、日常生活の仕事を一切奴隷任せの、奴隷あってのありあまる時間の余裕ゆえ、有識層の学問への集中が支えられたということなのだと思う。

でも、それこそが、アレクサンドリアの図書館を破壊させた原因。
そして、その時代の有識層の良心の限界に出てきたのが、キリスト教だったのだろうと感じました。
そして、キリスト教の受け止め方と、解釈もその時代の、また限界だったのだろうと思います。



さて、その次に見た「アメイジンググレース」。
内容的に見事に繋がっていて、こちらは、18世紀のイギリスにおける奴隷貿易廃止運動を行った若き政治家の物語。
4世紀のヒュパティアの時代には、当たり前だった奴隷制度に異議が唱えられるまで、人間の良心が成長を果たしているということなのだなあと感じました。
でも、そう簡単に、奴隷貿易が廃止されたわけではなくて、政治家やこれまた特権階級は、奴隷がいないと困るとも思ってもいた。なぜなら経済的理由で。(ここが現在の原発問題に通じるような気も。)
同じ、貴族階級の政治家の一人が立ちあがって、世間の人々の良心に訴えかけ続けて、やっと法律が決議されたという内容でした。
そして、同時期の背後では、フランス革命が起こったりしているわけです。



そして、「わたしを離さないで」は、完全にフィクションだけれど、ちょっと(現代の)奴隷制度に通じるものを考えさせる内容。
完全にネタばれだけれど、医学が発達して、クローン人間が移植手術用に生み出され、その人たちの人生のストーリー。
自分たちが、一般の人間用の移植手術のために生まれ、臓器提供して死ぬことが自分の存在意義だと静かに諦観している若者(クローン)たちの物語。
フィクションだけれど、少し前の現代のイギリスという設定でした。
こちらも、また趣は違うけれど、わたしたち人間の在り方の良心を問われる内容でした。
自分の病気が治り、延命するために、クローンたちの命を当たり前に利用する。どこか奴隷に対しての人権の軽視に似ているようなテーマに感じました。
でも、こっちの若者(クローン)たちは、怒りで反乱を起こすこともなく、静かに自分の運命を全うする描きかたでした。


結論は、簡単に出せませんが、なんとなくミカエルに、見させられたような3本に感じました。
大天使ミカエルは、それぞれの人種や国の成長と、宗教の有り方を天界において指導する役割りであるらしいので。
こういう映画が製作されていて、わたしたちがそれを見て、感じたり考えたりすることが、わたしたちの未来に向けて大切なことなのでしょうね。