女性性の傷のテーマと良心(罪悪感)についての考察1



再び、ヴィクトール・フランクル博士の「それでも、人生にイエスという」から、わたしが、とても感銘を受けたエピソードの部分を抜粋します。


「良心は、受け入れられている価値と矛盾する独自の意味を発見する力でもある。」

「汝、殺すなかれという十戒は、汝、姦通すべからずと続いている。
この文脈のなかで心に浮かんでくるのは、若い妻とともにアウシュビッツに収容されたひとりの男の話である。
自由になってから彼が語ったのであるが、彼らがそこに連れてこられ、引き離されたとき、彼は突然強い衝動にかられて、『いかなる代価を払っても、わかるか?どんな犠牲を払っても』妻に生き残るように頼んだ。」

「彼女には、夫のいうことが何を意味しているかがわかった。
彼女は、美しかった。
そこで、近い将来、親衛隊の中で、売春行為をすることに同意すれば、生命は救われるチャンスがあるかもしれなかったのである。」

「そして、もしそのような状況になったとしたら、彼女の夫は、いわば前もって免罪を彼女に与えたかったのである。
この最後の瞬間に良心が、十戒のうちの、汝は姦通すべからずから妻を免ずることを、この夫に強い、命令したのである。」

「この独自な状況、実際ある独自な状況では、夫婦の貞節という普遍的価値を捨てること、すなわち十戒の一つに反することが独自の意味なのである。
たしかにこれが、十戒の中の別の一つ、汝、殺すべからずに従う一つの方法だったからである。
もし、夫が妻に免罪を与えなかったならば、夫は彼女の死に対する共同責任者となったのである。」

「この例は、現代社会のように伝統的・普遍的価値が崩壊し、目的喪失に陥り、実存的空虚感がひろがっている時代には特に重要な意義を持っている。
十戒が無条件の妥当性を失いつつあるようにみえる時代においては、人間は、彼の人生を成り立たせる何万という独自な状況から生ずる、何万という戒めに対して耳を傾けることを、以前よりももっと学習しなければならない。
そして、その戒めに関して、人間は自分の良心と照らし合わせ、自分の良心をよりどころとしなければならない。このことが今日の教育の第一の仕事であるとフランクルは強調している。」



わたしは、これを読んで、妻自身が、自分の意思で売春を拒むという可能性もあるだろうと感じましたけれど、それでも、きっと彼女は、彼女の夫の愛に応えるべく、それに耐えて、生き残る意思を持つのだろうと感じました。
そして、その場合には、彼女は、単なるアウシュビッツの性的な犠牲者とはならないのだろうと。
彼女には、彼女の夫の、それも妻に対しての性愛的な独占欲を越えた、彼女の存在自体が彼を支えているのだ(つまり所有や利用の愛ではなくて)という深い愛が、≪救い≫になるのだ、そう感じました。


この「姦通すべからず」という十戒によって、苦しめられてきたのは、歴史的に、男性よりも女性であったでしょう。
性的な過ちにおいて、男性は、女性よりも、ずっと緩やかな立場に置かれ、女性のそれは、非常に厳しい制裁が伴うものでありました。
女性は、男性の所有物と捉えられ、女性もそれに甘んじてきた。
でも、それは、力関係によって、覆されるべきものではなく、「真実の愛」によって、乗り越えられるべきもの、それぞれの「良心」の働きによって。

つまり、罪悪感とは、本来、良心によって克服されるべきものなのだと思うのです。

そして、この夫のような、良心に目覚めた男性も、増えてきているはずなのです。
なぜなら、今こそは、そういう時代ですから。
http://d.hatena.ne.jp/birth-of-venus/20081119/1227102486

もしも、女性が、性的な犠牲となった傷を癒して、自分自身に、「新しい愛に満ちた男性性」との関係性を選ぶ自尊心を許可してゆかなければ、今度は、その傷ゆえに女性性は、新しい関係性によって癒されてゆく可能性を失ってしまうでしょう。

そのためにも今後、女性に必要とされてくるのは、改めて「超然」と「自立」のエネルギー。
つまり≪ターラ≫のエネルギーなんだということ。
そして、それこそが、わたしたち自身を、自らのコアスターに繋げてゆくし、コアスターが開かれるからこそ、わたしたちが「超然」として、男性に対して「自立」してゆくことが出来る。

そして、真実に相手を愛するということは、しっかりと自分の足でグラウンディングして、依存や甘えを克服していなければ、不可能なことなのだろうと思います。

この夫たる男性は、男性としての女性への甘えや独占欲を克服しているほど、「超然」と「自立」を為し得ていたからこそ、妻に、このように伝えることが可能だったのだろうし、妻も、そうである夫に相応しいパートナーとして、同じように「超然」と「自立」を備え、この男性を深く愛することが出来ていたのだろうとも想像するのです。

「自分を捧げきる女性性の美学については、また別の記事でフォローさせていただこうと思います。」と以前の記事で書きましたが、「自分を捧げる」ということが、本当に愛によって可能になるには、「超然」と「自立」を成し遂げていなければ、無理なことなのだと思います。

それを理解せずに行うと、深いところに抑圧された恨みを持ち続け、犠牲になることで相手を支配しようとする、最も真実から離れた愛を、愛と認識しつづけてしまう過ちを犯しつづけてしまうのかもしれません。
その場合は、相手も自分も不幸になってしまうでしょう。


前回の「ヴィーナスファンデーションヒーリング」の内容からも、身体レベルの不快感の浄化に入り、そのテーマに入っているかたも多いと感じるなかで、書いてみました。
もしも、ご参考になれば、幸いです☆

また、続きを書きます。
今夜は、ターラの2日目です☆