それでも、人生にイエスと言う.2

「人間には、自由があります。
自分の運命に、自分の環境に、自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。
<自分なりに>ということがあったのです。
そして、収容所には、たとえば無感情を克服し、いらだちを押さえることが、ほんとうにできた人たちがいました。
そのためには、【それができる能力】を呼び起こすことがとくに大切でした。」


【それができる能力】

わたしの場合、それがなんであったかといば、これまでの歩みのなかで少しづつ、本当に少しづつ培われていった「高次への信頼」でした。

そして、辛いことが多かった人生の歩みのなかで、少しづつ「愛によって癒されてきた」という「自分のなかにのこる実感」でした。
これらの経験がなければ、わたしは本当に参っていたと思います。


思えば、わたしが、思春期に巫病になったときには、「高次への信頼」と「愛によって癒されてきた」という体験は、まだありませんでした。
だから、あの体験は、わたしにとっては、地獄そのものの体験でしかなかったです。
でも、あの体験によって、わたしは、「本物の愛」を識別することを学んだと思っています。
本当に地獄に堕ちてしまったとき、救いになるのは、「本物の愛」だけなのです。


今回、再び地獄(暗闇)に堕ちてみて、一番実感したことは、以前のようではない、ということでした。
そう、そこで、わたしは、「愛によって癒されてきた」という「自分のなかにのこる実感」という明かり(光)が、自分のなかに存在することに気づき、そのほのかな明かり(光)が、「高次への信頼」という細い糸をかすかに照らしてくれていることに気付いたのです。

これは、今回、体験(実体験)してみなければ、わからないことでした。
それは、わたしのなかに根付いた「希望」とも呼べるかもしれません。
つまり、「希望を実体験した」と言えるかもしれません。

そういう体験であったのだと、この再転生のプロセスを認めることができるのかもしれません。


「生きることそれ自体に意味があるだけでなく、苦悩することにも意味、しかも絶対の意味があります。」

「これほど失望した人のそのような悲哀は、最後には、二つのことによって克服されます。
それは、謙虚さと勇気です。
収容所の囚人だったらだれでも、謙虚になること、絶対的な運命に対しても謙虚になることを学びました。」

「文字通り無になった人は、文字通り生まれ変わったように感じるのです。しかし、以前の自分に生まれ変わるのではなくて、もっと本質的な自分に生まれ変わるのです。」

「収容所の囚人だった人が、収容所の生活から謙虚さと一緒にたづさえてくる勇気についていうと、それはおそらくすべての人に通じるような実感のことです。
それは、神以外は、もうなにも怖いとは思えないという感情なのです。」