それでも、人生にイエスと言う.1

さて、今となっては、再転生プロセスと呼んだほうが適切なエネルギーエクスチェンジの間、わたしが、必死で読もうとしていた本があります。
というのも、そのときは、本当に混乱状態で、本を読んで理解するのもままならなかったから...。
けれども、その中でも一生懸命読んでいた本が、V・Eフランクルの「それでも、人生にイエスと言う」です。


V・Eフランクルは、著作「死と霧」が有名な実存主義の心理学者の精神科医です。
ユダヤ人であったため、ナチスによって、強制収容所に送られ、そのときの体験を書いたのが、「死と霧」です。


どうして、この本に惹かれたかといえば、わたしは、まずこの本のエッセンスを、再転生プロセス中に必要としていたからだと思います。


わたしは、現在スピリチュアルワークで生計を立てていますし、またここ2〜3年は、サナト・クマラとの繋がりがすべての基本になっていたので、それらがわたしから奪われるということは、ナチス支配下ユダヤ人が、ある日、全財産を奪われ、文字通り裸にされ、名前さえ奪われて、この世のアイデンティティとなるものをすべて剥奪されて、強制収容所で送られるような、わたしというアイデンティティや、財産となるものすべてを失い、死を待つ感覚に近かったからです。


「毛は一本も残りませんでした。丸坊主にされたのです。そのあとシャワーの下に立つと、それまでの全人生のなにも残りませんでした。」



そのような状況、人生の過程においても、「人生にイエスという」、そういう体験を実際にしながらも、乗り切ったフランクル博士の言葉と体験のエッセンスが、わたしにどうしても必要だったということなのだと思います


フランクル博士は、収容所生活のなかで、つらい生活から距離をおいて超越するために、この生活をいわば高い立場から眺めてみようとしたそうです。
すべてが終わった、未来の視点から収容所の生活を眺めてみようと努力されたそうです。
この言葉にも、わたしが、そのときの状況を耐えるヒントをもらいました


収容所に入れられると、まず第一番目のショックを通過すると、どんどん自分の運命に対して無感覚、無関心、無感動になってゆくそうです。
「はじめの2〜3日は、部外者には想像もできないような、ありとあらゆるおぞましいことに満ち満ちた大量の印象に対して、恐怖や憤激、吐き気というような感情が起こるのですが、こうした感情はついに弱まっていって、情緒そのものが最小限に減ってしまうのです。
そして、その日一日をなんとか生き延びることだけに全力が注がれるようになるのです。」

そうなると、人間の内面的な水準が下がってしまいます。ほとんど動物の水準にまで下がってしまうのです。
実際のところ、概していえば、群居動物とおなじくらい、原始的な存在になったのです。
とにかく本能的になったというかぎりでは、原始的になったのです。
退行とは、本能に支配された原始的な段階に心が後退することなのです。」



でも、ここからが大切なところです。

しかし、強制収容所の体験は、運命のように必然的に、人間を退行に、したがって後退に追い込んだわけではないのです。
わたしは、退行するどころか、逆に、まさに強制収容所で、まさに強制収容所の体験を通して、内面的に前進し、内面的に自己超越して成長し、ほんとうに大きな人間に成長したたくさんのケースを知っています。
たとえそのようなケースが数少なかったとしても、それが決定的な証拠になっていることに変わりはありません。」

(続きます)