「自分に甘く」の注釈☆

今日の時点で、このことをどうしても書いておかなければならないようなので、説明の難しいテーマですけど、改めて書いてみようと思います。

ワークで直接エネルギーを受け取ってくださっているかたは、エネルギー的フォローがあるので理解できると思うのですが、それ以外の読者のかたは、やはり?と思っていらっしゃるかもしれませんので。

まず、自分に甘くというのは、自分の限界を越えるなと思うことは、やらないということだと思います。
自分にとって辛いことや、苦しいことを敢えてするのは、なぜでしょうか?
マスターたちは、苦しいのなら、自分の限界を(今の段階で)超えるのなら、「自分に甘くして、今は休みなさい」と伝えてきます。

自分の限界を越えてでも「やりたい」「進みたい」というのは、自分のエゴなのです。

たびたび上がっていたシュタイナーの言葉の真意も、これまたシュタイナーの言葉で補足するとこの部分に当たるのではないかと思います。


「『わたしは、道徳的倫理的にますます向上したい』というのは、狡猾な淫蕩がもたらす歓楽なのです。
普遍的兄弟愛や、人間性について語れば語るほど自分の言説に酔ってエゴイストになってしまうのです。
感覚的な歓楽があるように、魂的な歓楽が存在するのです。
このような言説は、通常のエゴイズムではありません。
このような歓楽から生ずるのは、老猾なエゴイズムです。」


でも、そのエゴも抑える必要はないのです。
甘くのもうひとつの意味として、「やりたいのなら、やりなさい」ということでもあると思います。

けれど、道徳的、倫理的成長という結果を得るのは、あくまで自分の力で、です。
というか、天からの助けを得たいのなら、「真剣に」やりなさいということです。


真剣にはやりたくない、自分の限界を越えているから、でも、結果は特別に与えてくださいというのは、無理なのです、苦笑。

というか真剣ではないからこそ言説が、歓楽的言説的なエゴイズムに寄りやすいのだと思います。
だからこそ、マスターたちは、再三「真剣に」と伝えてくるのだろうと思います。


わたしたちが、未熟であればあるほど、「倫理的道徳的エリート(選ばれたもの)」であろうとします。
本当に成熟している人は、「エリート」であることを望みません、というか、そんなものはあり得ないと既に理解しているので、成熟しているのです。

そういう人は、倫理的道徳的努力や苦労を、苦労や苦しみとは思わず、当然のことと思い、それをいかに楽しむかという視点で行っています。


楽しむというのも、ふりは出来なくて、それをしたいというのが、本当に楽しいと思えるから楽しいのでしょうし。


たぶん、その努力や苦労の意味を知っているから楽しいと思えるのかもしれません。

そうそう、マザーテレサも、「わたしのことを偽善者だと言う人がいるけれども、わたしは楽しいからこれをやっているのよ!」とおっしゃっていたそうです、笑。


その苦労と努力の意味を知ることができるようにサポートしてくれえているのがマスターであり、乗り越えるように力と愛も与えてくれようとしているのだと思います。


「苦しみ」を愛することは自由ですが、手放してもいいんだよとマスターたちはサポートしてくれているのだということは、ご理解いただければと思います♪

わたしたちは、みんな似たりよったりです、苦笑。
自分に甘く、の〜んびり進んでまいりましょう♪
それで、十分なはずです!