第11回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiii+(秋分の日12次元再開催)

先日は、ブログ内にて、感想のフォローありがとございました!

今まで、レポートについては、少しくらいフミさんに認められたいという欲があって、最近のレポートからフミさんのフォローがつくことは嬉しい反面緊張するな〜と思っていたんですが、今回のナディはまたもや自分のことでいっぱいいっぱいでして、あのような感想になりまして、ちょっとあまりに暗かったかな、と後悔も少しありました。

でもって、フミさんのフォローも、まさにフォローという感じで(苦笑)、いつもの私なら「やっぱり変われていないんだ〜」と落ち込むところだったんですが、今回は、動揺及び反発心ゼロで、現状を受け止められました。抜け方が分からない焦りはありつつも、エネルギーシステムのお話などは、自分では客観的になかなか見れないことなだけに、自分のことながら、「へ〜、どういうことなんだろう?」と新しい角度から見ているような感じでした。

それを真摯に受け止めつつ、コンジャンクションやリベンジの記事も読みつつ、まだ書けていない女神学校のレポートの続きに取り掛かって、このひと山を越えようと奮起したつもりだったのですが、もう少しまとめるだけなのですが、ナディでまた受け止め方が色々変わったので、まとまらないんですよね・・・。

そんな感じで、レポートを書くために日にちを開けておいたにも関わらず、まったく進みませんで、スランプに加えて、何もできなかった数日という後悔が加わって、ますます落ち込んでいました。

苦しみの中で、「この地上で、人間として、真実に幸せに生きられるようになりたい」とハトホルに願いました。(地上の幸せについて、諦めの観念が強かったことに気づきました。)

でも、全然力が湧いてこなくて、その間、何をしていたかというと・・・、現実逃避のように、お笑い系マンガのブログをだらだらと見ていました(汗)。

が、同じ人のブログを集中的に見ていて、後になって気づいたのですが、書き手の思いと読者の反応がそのまま、「痛みをどのように感じるか、受け取るか」の様々なあり方を呈していて、すごく参考になったのです(苦笑)。

書き手の方は、辛い経験の話も時に差し挟んでいるけど、もう思い出しても辛くない、書くことで昇華もできると言っていて、そこに同情を求めているわけではないのですが、読者としては同情または同情を求める声がやはり多く、また自虐的なお笑いネタに対して、書き手が貶めた書き手自身よりも、自分を低いレベルだと感じてしまう読者の中には、それを同じく笑って楽しむ人もいれば、傷つく人もいて、でも書き手の方は、傷ついたと言ってくる人に対して、自分は「猥雑な世の中」の一部であるという認識で書いているから、極端な意見についは、その世の中をどう受け止めるかはその人の問題、と、あえて配慮しない宣言をし、自分のスタンスを崩すわけではないのですね。

そういえば、爆心地近くで原爆にあったけど生き残ってずっと健康で過ごした方のお一人は、「原爆は私一人殺せなかった。そのくらいの威力しかない。」と世界中の人に言ってまわり、驚嘆されたそうですが、同じ原爆の被害者からは憎まれたそうです。

これらのことから言えることは(極端な話が例となりましたが)、

過去の辛い経験は、癒されると、思い出しても辛くない?

どれだけ幸せか不幸かというのは、どちらにフォーカスするか(受け止め方)の問題。

無理なく幸せにフォーカスする生き方は、不幸を隠蔽しているのではなく、辛い経験を自浄できる能力も秘めている?

自分の経験を昇華させるやり方は人によって違うのであって、その昇華が真実であれば、他人にそれを侵すことはできない。

だからといって傷つきやすい他者に配慮する必要はない、ということではなく、自分を、自分の人生を愛していることが、最終的には他者への配慮へと繋がる?

などなど。

私自身も過去の辛い経験をお笑いっぽく話すこともあったのですが、やっぱり一種のポーズだったんでしょうね、根本的に癒されていたわけではなかったので、真実として改めて思い出すと、やはり今でも辛い、となったわけで。でも、真実にそれらを乗り越えたくて、ですから、感情の再体験は必要なことだったと思います。

でも、辛い感情を見る時は、「手放すと決めて、見る」だったんでした。。「手放す」って、分かったようで、やっぱり分かっていなかったんだな、と。でも、最初の感想で書いたことからすると、「距離をとっていい」というのも、他人の痛みだけではなく、自分の辛い感情からも距離をとっていいってことで、ここが手放しへのカギかもしれない?

それが、分かるようでピンと来ないというのは、その距離をとっている自分というのは、より高い視点の自分でなければならず、この高い視点の自分が定まっていないから?動揺するようなことが起こった場合、高い視点でいるつもりの自分が、間違った視点だったのかも、と疑いを抱いて、真実のはずの自分が偽りの自分となって、過去の辛い感情もろとも飲み込まれてしまうという感じだったんです。

しかしです。

「要は、「変化する」=「痛みがなくなる」を求めているのです。
これはいい悪いではなくて、人間の本性のようなものです。
でも、やはりこれは、難しいというか困難なことです。」

つまり、「痛みがなくなるのを求めても、難しい」ということは、「痛みはあっていい」のですよね。ということは、この高い視点の私は、痛みも感じない完璧な私でなくても、痛みを感じながらも、それをうまく受け止めて、またより高い視点へと繋がればいいのであって、高い視点のつもりの自分も、何度も壊されて組み替えられていいんだな〜、と。特に今集中的にそういう時期なんだよ!と、思うと、肩の力を抜いて向き合える気がしてきました。

そして、視点を高くしていくというのも必要な学びだと思うのですが(男性性の欲求ですね。苦笑)、それこそ常に12次元の愛に常に繋がっていることが大事なのですね。というか、繋がっていなければ、どんな学びも意味がない!それぞれの次元のナディで学んだことをただ知識としてだけではなく、3次元の現実におろそうとする時、まさに12次元の愛が後押しとして必要なのです。そして、何が起こっても、12次元の愛が、経験を守護しながら「不動」であらしめてくれる。

聖書の言葉、

「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、(わたしに)何の益もない。」

これ、12次元ですね!(誇ろうとして、うんぬん、これは、前回書いた、過去に犠牲に情熱を感じてきた私ですね。)

実は、ガイダンスを読んだ時にすごく愛に溢れていて、感動して、癒されたんですけど、その後、落ち込みのループにはまって、その感動を感想でも伝えられなかったという後悔がありましたが、今になってその感動が蘇ってきました。

そして、大事なのは、過去の痛みを手放したなら、今後何かで痛みを感じた時に、手放した過去の痛みとリンクさせないこと、というか、させる必要がないということですね。(これもまた、手放したつもり、から、本当に手放した、に変容させる過程。)そのためには、やはり幸せにフォーカスすること、恵みに気づくこと。その地点からでないと、過去の辛い経験に対しても、愛を受け入れ、癒されることはできない。いつも、自ら愛を注ごうとして、痛みに耽溺してしまっていたので。そして、その高次の目線というのは、上から目線なのではなく、ノンジャッジメントの愛の目線。その愛を恐れなくてもいい。裁かれているのでは、とおびえなくてもいい(まだまだ愛を信頼できていなかったんですね)。

インナーチャイルドに聞いてみると、「辛かったことも多かったけど、楽しかったことも思い出してよね?」みたいな感じでした。確かに、自我の芽生えた中学生からはどっぷり根暗だったのですが、それ以前には、割と自分の創造性も発揮していたし、それに没頭している間は幸福だったな、と。(大人の理解者はゼロでしたが) 今の私は、現実にはありがたくも豊かさの循環が巡ってきているのに、自分の苦しい部分にとらわれて集中できていませんでした。集中することを許可することで、手放すことを許可できるというのもあるのかな?何しろ,許可という視点からコミットしないことには、いつも自分で自分を縛ってしまうんですよね(苦笑)。

そして、過去のことを手放したなら、「不動」の立場から物事の流れのなかで起きる喜ばしいことや損失の両方を、時には学びを受け取りつつも、流していくこと。喜ばしいことも、そこでとどまらせずに流していくと、循環して帰ってくる。

で、念押しのため

「エネルギーワークは、その人の根本が変化することを促します。
その痛みを、どのように感じるか、受け取るかということが変化するこということです。」

痛みをどのように感じるか、受取るかは、変えようと努力することはできるけれども、最終的に感じる感情を捻じ曲げることはできません。「根本が変化」すれば、自然と変わるものなのだとも思います。このことについて、今回、自分が自らに意思の愛をもって取り組むことを決意するとともに(それは、本当に、日々の小さな出来事の中で実践し積み重ねていくのが大事なんですよね)、その結果を、高次に委ねようと思います。

一回目の感想では、これができたら、こうなるんだろうな〜とおぼろげには結論をつけてはいましたが、ちゃんと自分の意志でコミットできていなかったな〜と思うので。まだまだ受けとり間違いはあるかと思いますが。

実はいつの間にか、トランスミッションを義務のように感じてしまっていたところもあったようです。クマラからの、「楽しんで受けてください。自分の意志で。」という言葉を忘れてしまっていたのです(汗)。本当に、心の癖って頑固ですね!(苦笑)でも、このような自分の中の根深いものに早めに気付けて、高次のフォローをいただきながら取り組めるということは、本当に幸せでありがたいことです!!

以上、リベンジに向けて(?)、決意表明してみました。

ちょっとのつもりが長くなってすみません。今回もみなさんの深い愛をありがとうございました。

(提出の前に、月の女神学校の記事を読んで、やっぱり!納得!と思っているところです。というか、「自我」って実は素晴らしい役目を持っているんですね。)



またまたリベンジ宣言ありがとうございます。
わたしも、フォローが無事受け止めてもらえてよかったです♪


もちろん、配慮は必要なのですよ!
わたしなどは、厳しいガイドが付いておりますので、汗、クライアントさんの状況や感覚に全く同意できないな〜とか思うと、わかるような状況をすぐに経験させていただけるので、痛みとともに、ああ、こういうことか〜と、いつも訓練されております。
けれど、こちらが配慮していることが、相手にいつも理解されたり、伝わるわけではないということも教えられています。
また、それが相手の求める形とは、少し異なるということもよくあります。


ダメ出しではないんですけど、笑、「高い視点」というのは、なかなか持てませんよ!
日々、精進なのです。(アストラル体への自我の働きかけですね、笑)
逆に、わたし(自分)は、「高い視点」を持っていると思う時点で、もうすでに間違っていると思います。
まだまだ何もわかっていないのだ、だから謙虚に歩もう。
こういう姿勢が、一番苦しまない在り方のような気がいたしますよ♪


痛みは、きちんと受け止めれば、実は消えます。(感じなくなります。というよりは、感じ方が激変するというのがより正確かな?)
消えないうちは、きちんと受け止めていないのです。
けれども、受け止めるには、愛が無ければ(12次元的愛がなければ)辛すぎてほとんど不可能でしょう♪
人間そんなに強くありません。


わたしも好きな聖句です♪
ちょっとカッコを足しましたけど、この場合自分に益がないだけでなく、関連するすべての人にとって、益がないのだと思います。
というか、害にしかならないのかもしれません。


それくらい愛は、大切なものです。
人びとは、まだ十分に愛に満たされているわけではないのです。
ですから、人に求めるよりも、自分で12次元に繋がり受け取ることが、一番スマートなやりかたかと存じます、笑。


そして、12次元の愛が、スルリとわたしたちの元に降りてくるための、エーテル体への地道な働きかけが、実は「月の女神学校」で行われているワークなのです。
(これは、以前受けてくださったかたは、ガイダンスで知っていますよね♪)


ということで、大丈夫です。
またまた、前進されていますよ!リベンジ十分に可能ですね♪