第11回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiii(秋分の日12次元再開催)

今回も、絶妙なタイミングでの12次元ナディをありがとうございました。感想が遅くなりました。


なんというか、サラスバティの時から、豊かさの循環に入る道筋が具体的に見えてくると同時に、不動であるための学びのためか、色々なお試しが入っていたようで(特に、子供の病気で半月も仕事も何もできなかったこと)、それらの出来事を淡々とやり過ごそうと努力したものの、私がこうあるべき・必要と思っている以上、それを奪われることは(金銭的・物理的なこと以上に、特に時間について)、犠牲以外の何ものでもなく、どうしようもなく怒りが積み重なっていました(子供に対してというより、運命に対してです)。


それと、以前統合ワークの時に少しお話しましたが、あれ以来、「お片づけ」がまったく進んでいなかったのですよ〜、フミさん(笑)。あれから色々学びを進めたはずなのに、とは思いつつ、自分に無理に強いても苦痛なだけなので、静観していましたが、子供の病気で外出できなかった間、ずっと家にいなければいけないという状況だったのに、まったくお片づけに手をつけられなかったどころか、自分の生活のリズムを完全に失って(それももともと少し無理があったわけですが)、ちょっとヤバいのでは、というレベルになっていました(自分の時間をとるために夜更かししてしまって、朝起きれず、体力が落ちてる状況)。


でも、それをまた責めても仕方がないので、どう考えるか、と思った時に、「犠牲(これまでのもろもろすべて)をとりかえしたいという怒りがある」、「怒りのために情熱が失われている」、「怒りにエネルギーを奪われて、生活の細々したことが義務のように感じられ、身体が重く、生きるのが苦しいと感じる」、でした。


自身の怒りについては、今までに向き合って許してきたこともたくさんあるのですが、まだまだ、その存在を否定できない怒りというのがあるのだと、自分でも驚くしがっかりもしてしまうのですが(ここまで来たら、見て見ぬふりはもうできないのです。しかし、ここまで来てもまだ溢れてくれる怒りというのは、それはいっそう深い痛みを伴ってもいるわけです)。


で、自分の時間がないという状況は、子供の病気が直ってからも続き、というか、仕事もたまってましたし、余計、ですね(苦笑)。今回のナディにいたっては、前日にガイダンスを読むことができず(リリースも宣言直後に寝てしまいました!ありがとうございました♪)、当日も、家族が賑やかにしている時に、さっと目を通しただけで、子供もその日に限ってやっと寝たのが11時過ぎで、エーテリックな施術の開始時間も過ぎてしまっていました。


で、こういう時、今まではいつも怒りに任せて色々急かしてしまうことが多かったのですが、さすがにトランスミッションの時にこうまで自分の時間がとれなかったのも初めてだったし、今までトランスミッションを受けてきた経緯から言って、周りの状況いかんによって「受け取れない」ということはあり得ないはず、という信頼がかすかにあり、逆に正しいことが起きているんだという気がして、落ち着いて対応はできました。


というのも、その日以前に、それ以上に落ち込むような出来事を経験していたので、それをどう受け止めるのかということについての苦しみが大きくて、ナディに懸ける思いと、ナディを何度受けても変われていない自分、という思いが交錯して、「なるようになれ」という感じでもあったのです。


そのくらい、またもやスピ・アイデンティティを揺るがされ、それが本当に高次のレベルでの出来事だっただけに、私は自分の価値に対して、深い痛みを感じ、また、いまだ自分の真実を得られない怒りの感情に飲み込まれていたのです。まぁ、例えて言いますと、救いを求めて会いに行った信頼するアンマ(例えですが)にハグを拒否されたような(?)感じのことです。

そういう状況で、ガイダンスは流し読みでしたが、施術時間には上へ下へとすべてを貫く愛を感じました。キリストは、獣性の昇華ために地上へ降り、まさに血の霊化ために自ら身を持ってその血を流した。そして、9次元的には、キリストを助けた私たち。


何だか、「これだったんだ〜!」という強い感覚がありながら(忘れ去られていた大事なものとの劇的な再会のような。)、私のこの苦しみは、ガイダンスに記されていることを理解しているのに、それを体現できないということなんだ!と。(一回目の開催の時に、同じことが書かれていました。)どうしたら、「知っている」を「識っている」(経験として)に変えることができるの?分からない、という悔しさに苦悶しつつ、ここに辿り着けたという意味では、いつかきっと分かるはず、という安心感もあり、とても複雑な深い思いでいました。

確か、クァン・インの時に、実は一瞬、「え〜、やっぱり幸せを遠慮して皆に分け与えて、不幸も受け入れなきゃいけないの?」とちょっと不満だったんですが(かなり間違った解釈です。苦笑)、12次元ナディでは、「あ〜。だからこそ。犠牲は奉仕でありうるのだ。」と。

でですね、ナディの数日後に、仕事の後に自転車で子供を迎えに行った帰りに、子どが猫じゃらしの草をとって欲しがったのです。その時は、病院に連れていかなければいけなくて急いでいたので「後でね!」と軽くいなしたんですが、いつもオモチャばかり欲しがる子供がども道端の草を熱望する姿が何だか愛おしくて、信号で止まったときに、歩道に生えているのを見つけたので、子どもを補助椅子に乗せたまま自転車を片手で支えて、屈んで数本摘んであげたのです。

が、あっという間にバランスを崩して、自転車は反対側に倒れていくではありませんか!支える手に力を入れたものの、支えきれず、自転車はゆっくり横転して、一緒に倒れこんでしまいました(でも、子どもは何とか無傷でした)。私の方は、子供に怪我がないかで頭がいっぱいだったのですが、体勢を立て直してみると、自転車を支えようとした時に足に自転車の各部分が食い込んでいたらしく、足をひねったような痛みと、打ち身が両足・ひざ下ひざ上ともにあって、思ったより体のダメージが大きく、ハンドルも曲がってしまって手元も狂う感じで、けっこう事故のショックを体感した感じだったのです。(前日に海外の友人からバイク事故にあってしばらく歩けなかったとメールが来たばかりでもありました) 

で、いつもなら、こんなことが起こると、自分の不運に天への怒りを感じてしまうとこなのですが、今回はなぜか、子供に草を摘んであげたいという自分の純粋な動機が自分を慰めてくれた感じで、全然不運という感覚がなく、子供が無事でよかったという感謝の思いと、ドジな笑い話にしたいような、ほのぼのした気持ちだけだったのでした。神に見捨てられたために背負ってしまう「不運」と、神とともに、その救いと学びに感謝をもって乗り越えることができる「アクシデント」の違いといいましょうか。今も青なじみがひどくて痛いのですが(苦笑)。

で、その後も相変わらず時間はなくて、色々忙しいし、他にやりたいこともあるけれども、今やっていることがやりたくないことというわけではなく、無駄だという気もしないし、これでいいのだろう、と。色々約束を日程を変えてもらったりもしたけれども、それで不具合が出たわけでもありませんでしたし。とりあえず、すべては起こるべくして起こっているのだから、と。子供のことも、いつもより手間がかかっているように思うのですが、何となく以前よりは楽しくやれています。


これはやっぱり聖域の問題なのでしょうね。アルテミスの後のパラス・アテナの時は、「私の聖域が侵されている!許さない!」と怒りに燃えていましたから(苦笑)。自分の聖域を確立できているなら、何びともそれを侵すことはできないはず、と書きました。そうであるなら、時間にしろなんにしろ、「奪われる」ということはありえない。それなら、「お片づけ」も、 時間ばかり奪われる情熱の湧かない作業ではなく、もっと情熱を持って楽しめる作業であるはず。と思うと、家事が苦痛という思いも和らいできました♪(まだまだはかどりませんが)

そして、そのような聖域であればこそ、より受容性が高められているのであって、損失と思われるようなことでも、必然であり、バランスであり、物事の流れであり、そのすべてを愛の中で受け止めていれば、何事も犠牲ではなく奉仕としてありえるということなのですね。


でもって、問題は、またもやスピ・アイデンティティが揺らいだということなのですが、何というか、傲慢さを清めて謙虚さに変えようとすると卑屈になってしまい、卑屈さを清めて自信に変えようとすると傲慢になってしまうという、堂々巡りから抜けられなくて、その、信頼している方(ヒーラーさん)に、自分の弱点を指摘されて、すごく動揺してしまい、その場を取り繕うような振る舞いしかできなかったという、感想iの方とほぼ同じような状況だったと思われます(すごく真摯に書いていただき、ありがとうございます!大変感銘を受け、大きなヒントと勇気を頂きました!)。

それは、私が「他者の痛みへの共感」と思っていたことについて、「思いが残っている(執着)」という指摘でした。私は確かにもともと執着が強い性格だとは思っていましたが、色々ワークを続けてきて、そういう自分も少しは癒されたかな?と思っていたところだったので、「まだまだダメだったんだ!」というがっかりする気持ちがあったのと、また、他者の痛みに共感できることに、少しばかり進歩できたような密かな誇り(これが傲慢さなのですが)を感じていたので、それを否定されたことで、それはそれは落ち込んだのです。そして、他者の痛みに共感してはダメなのか?という疑問と怒り。

確かに、マハコハンの私のパートとして、私は人よりは感情的なのかもしれない。でも、それを個性として受け入れて、愛しているのなら(自分にとっての真実であるのなら)、私はこんなに苦しくなるはずはないのだ。こんなに自分を失って、動揺するということは、そこに癒されないものがまだあるから・・・。自分で自分が悔しくてたまりませんでした。

熾天使であることの意味は、ただ試練における苦しみが癒されるだけではなく、試練が何のためにあったか、それらの経験そのものが魂の使命に係わっていることを真に理解することではないのだろうか(犠牲を奉仕に変えるために)?そういう意味では、私はまだ、自分が熾天使であることの意味を、本当には理解できていない。自分の経験を理解できていない(識別できていない)。だから、苦しいのだろう。


「高潔な意思・・・・。

 強くありなさい。

 愛しなさい。

 そして気高くありなさい。」 


これがまったく無理なのです。私の男性性は高潔さにすごく憧れているのですが、過去そうであった試しがなく、いつも自分の感情に動揺して、その場をおろおろと取り繕って終わり・・・。いまだにそうである自分に、さらに怒りを感じました。


それでも、そんな自分も、許してもいいし、愛してもいい。そこは、学びました。でも、自分を許し、愛そうとすると、時に、自分を否定する他人を否定し返してしまう。そうしたいわけではなくても。自分の価値をサバイバルの中に置いてしまう。


そうなのです。もし、信頼しているヒーラーさんに言われたのでなかったなら、そうやって歪んだ自己肯定をして終わっていたかもしれない、と思いました。今回の後半のガイダンスを自分の都合よく解釈して、傲慢さの深みにはまっていたかもしれません。でも、自らが、過去ではなく、今この現在、「受け取りながら(激しく要求しながら)、足りないと責める」立場であると認めるなら、謙虚であらざるをえませんでした。なぜなら、私の心の動揺は「不動」とはかけ離れていましたから、間違っても自分の方が正しいとは思えなかったのです。


では、もし、そのヒーラーさんが、高次からの導きの役目としてその言葉を発したのであり、それを私が受け止める必要があるのだとしたら?


そうだとしても、ヒントが少なすぎたし、スパルタではあったのですが・・・


12次元=完全なるノンジャッジメント


「思いが残っている」と言われ激しく傷ついたのは(これまで自分の感情に一生懸命取り組んできたからこそ、なおさら。)、私自身であって、私自身が「執着」=「悪・弱さ」とジャッジしているからではないのだろうか?その人自身は、実は、ノンジャッジメントのレベルで言われていたのかもしれない。実際、私は責められたわけではなく、ただ、自分で自分を責めてしまっただけなのだから。だとすると、「他者の痛みへの共感」を、悪だとするジャッジは、実は、私の中にある。では、何故、悪だと感じるのだろう?また、かといって、他者の痛みをスルーすることにも冷たさを感じてしまう自分もいる。


そして、その時激しく取り乱した感情をごまかすように取り繕った自分を、やはりとても恥ずかしく感じもしたし、でも、だからこそマグダーレンが、どんな経験をも守護してくれ、肯定してくれているのだという、その愛をより深く感じられ、ファンダメンタルな信頼だけは捨てずにいられましたが、でも出口が見つからなくて苦しい、という感覚が続いていました。


そして、iの方の感想がアップされ、励まされるとともに、フミさんがお返事で「他人のエネルギーシステムに関わるということを学ぶためには、しっかりと自分のエネルギーの在り方を確認しておかなければ、それはリスクを生みます。」と書かれていたこと、そして、「励ますということを通しても、あなたのエネルギーを入れてはならない、彼女が自分で自分の力で出した答えを静かに祝福しよう」というクマラからのチャネルも書かれていたことで、「そうなんだ、聖域を守るということはそういうこと。」と、ハッとさせられました。


そのヒーラーさんも、他者の痛みを冷たくスルーしているのではなく(もちろん、私が自分だけ共感してもらえずスルーされたように感じただけなのですが)、「聖域を守っている」のだとしたら。


私はひとの聖域を侵してまで共感を得ようとしていたのだな〜(苦笑)。それは、まさに「奪う」行為なのですね。以前フミさんに線を引かれたことに関して、その時は理解していたつもりだったのに(自立を目指して)、また他で同じように求めてしまっていたのでしょう。


で、私がなぜ「他者の痛みへの共感」を少しは誇りに思いつつ、それを「執着」であると指摘された途端に激しく卑屈に感じてしまったのか、改めて考えてみると、私は、「同情」と「共感」の識別がまだ出来ていないからなのでした!そう、私はまだまだ大部分「同情」に偏っていたのです。それは、おそらく、自分が癒されれば癒されるほど、「共感」へとシフトするはずなんでしょうね。


あ〜、だから、私自身こそ誰かの「同情」を求めていて、だからでしょうか、スパルタが苦手だという思いが昔からあるんです。距離を保って高い視点から、愛の鞭で鍛えられるということに、素晴らしいことだと客観的には思える一方、実際それをやられると耐えられないだろう弱い自分がいるのです。どうしても、感情的に、同じ目線で共感してほしい、慰めてほしい、と思ってしまうです。しかも、なるべく高次から。ダメダメですね(苦笑)。


しかも、私はまだ、「共感」の意味も取り違えてもいるんだろうと思います。8次元がワンネスだからこその、心の距離感のない共感こそを「共感」だと思っていましたが、ワンネスで共感できるからこそ、それぞれの聖域を守るために、距離をとること。それが、冷たさではなく、逆に愛を澱みなく流せるカギとなるのですね。


そうか!距離をとってもいいのだ(急に許可しちゃうんですが)。と考えてみると、あら、自由じゃない〜、と(笑)。


以前に、ひとに自分のことを否定されて苦しかった時に、私はどういう仕打ちに苦しみを覚えるのか検証してみたのですが、否定されることがただ苦しいのではなく、「愛のある(または愛のつもり)高い視点(または上から目線)からの指摘(または批判)」が、どうにも耐えられないのだと気づきました。それはもう、子供の頃からだな、と。その時は何故そうなのか分かりませんでしたが、「同情を求める」=「依存心」からだと、やっと分かったような気がします。そして、それらが、愛からなのか愛でないものからなのかの識別の理解や、愛からのものに対しての受容性も、少しは高まったように思います。


そんなふうに、ずっとひきずっていたモヤモヤした気持ちの答えを、やっとレポートの期限の前日に受け取ることができ、またもや感謝だな〜と思っていたのですが、何しろ忙しくて疲れていて、期限の今日に書き上げられるのか不安もあったのですが、またもや子どもが寝なくってですね、今まではゆったり構えていられたのが、いよいよ期限を迎えて、さすがにちょっと子どもに対して爆発してしまいました。


で、またもや自己嫌悪です(苦笑)。大切な秘儀を学んできているのに、最初は少し学んだ気になっていても、少し時間が経つと忍耐が切れてそれを活かせなくなってしまう、愚かな自分に打ちのめされました。清めたいのに、清められない、澱んだままの私。学んだつもりだけで、実際には学べていない私。受け取れていない私。


そして、獣性からの欲求と、真実からの欲求・情熱の違い。努力してはいけないことと、懸命に真実を求めることの違い。諦めることと、委ねることの違い。義務で愛することと、意思の愛の違い。これらの識別もつかなくなり、混沌としてしまいました。


が、でした。あ〜、またもや私は、自分の力でやろうとしていたんです。自分で自分を清めようと!

そうではない、ちゃんと学んではいるのだけど、まだ完璧ではないだけで、完璧ではないからこそ、そして愛されているからこそ、高次に清めてもらえるのです。12次元のエネルギーを知って、まずは自分が癒されること。ふと、私の苦しみがこんなことで癒されてたまるか!と自然界に対して思ってきたことに気づきました。でも、もし癒しがそこに準備されているのに、見えていないだけだとしたら?心を開いてみたら?もし、信頼しているなら?ワンネスの距離感のない共感とは、自然界との間にこそ生まれるのでは?(これは単なるインスピレーションである段階ですが。)


そして、深く癒されてこそ、これまで識別できなかったこと少しずつできるようになり、それが自分の真実へと近づく道なのだろうと思います。今はまだきちんと識別がつかなくて、時にガイダンスの言葉を曲解してしまったりして、愛でない方を向いてしまうことがあっても、それもまた学びのためであり、過ちではないのだということ。そして、自分もそのように曲解されたとしても、それもまた間違いではなく、すべては、力で留めようとしても、様々な支流を経ていつかは源の愛へと流れていくもの。


そういえば、識別、識別とこれだけ書いてきて、「識別」って、「聖別」なのでは?と。識別により、愛を選択していくことによって、聖別されていく。


そして、現実として、今の段階で、まだ奉仕への情熱が薄いような気がするのですが、というより、豊かさへの道が開けてきて、喜ぶ以前に怖気づいているというか。それもまた、再び動揺する自分に会ってしまうのではないか、という恐れからなのですが、もしかして、今回の学びと気づきで少しは清められているなら、その恐れを手放していいのかも?そして、真実に光が入れば、もっと情熱を感じることもできるのだろうし、高潔な自分を少しは見出すことができるなら、もっともっと喜びの中で奉仕していくことが可能なんでしょうね。昔の自分を思い出してみると、自分を犠牲とすることにとても情熱を注いでいました(汗)。それを犠牲としてではなく、奉仕の種として振り返ることも、その犠牲の苦しみが癒されることによってこそ、可能なんでしょう。9次元的には。そのためには、もっと天を信頼すること。いつも言っていますが、それ以上に信頼できるものはないのだから、もっともっと、信頼していい(信頼する余地がまだまだある、それくらい懐が深い)んでしょうね。


やはり今回は期限が短くてまとめきれませんが(一週間がとても長く濃く感じたのも新鮮でした!)、今回も期待以上にたくさんの学びがあって、楽しかったです!(こういうのが楽しい私って・・・)高次の方々、フミさん、ご参加のみなさま、ありがとうございました☆


レポートありがとうございました。
大変お忙しいなかで、期限を守って提出してくださったこと、すでに尊い奉仕だと思います。
(守れないかたも、それはそれ相当の事情ということで了解しておりますので、大丈夫です♪)


変わりたいけれど、変われないということがひとつのレポートの主旨かと存じますが、まず、大前提として、「人は変わりたくないもの」なのです。


それでは、どうして変わるのかといえば、「自分が変わると決める」と変化が生じてきます。え〜決めてるよ!と思われるかもしれませんが、苦笑。

今のわたしのように人のエネルギーシステムを拝見する仕事をさせていただいてよく目にする(エネルギーシステム)は、変わりたいと言って自分を責めていながら、芯のところでは「決して変わらない」と決めているケースです。

表層意識と潜在意識ともいえるかもしれませんが、現実(に現れていること)が、潜在意識の表出サインです。


それには、いろいろ複雑なケースがあって、やはり感情の痛みが絡んできています。
で、この場合正確にエネルギーシステムを表現するならば、「変わるつもりはないけれど、痛みを取り除いて欲しい」です。
要は、「変化する」=「痛みがなくなる」を求めているのです。
これはいい悪いではなくて、人間の本性のようなものです。
でも、やはりこれは、難しいというか困難なことです。


エネルギーワークは、その人の根本が変化することを促します。
その痛みを、どのように感じるか、受け取るかということが変化するこということです。

では、このような逡巡が無駄かというとそうではなくて、こういう経験こそ、自分が本当に変化するということに全面降伏するための、(辛い)前段階なのだと思います。

だから、少しづつであっても、痛みが続いていても、とても大切なプロセスを歩んでいらっしゃると思います。


でも、最終的に、変わるか変わらないか決めるのは、自分です。
(高次は、真に高次であるその由縁として、無理強いはしませんので。)


だから今は、そんなありのままの自分を受け入れること、ワークが変えてくれるわけではなく、ワークは、変わろうという意志をサポートするものだとご理解ください。


その人の境界線を守るということは、変わるように強制するのではなく、その人のプロセスを自由を尊重して見守るということだと思います。


もののけ姫について書かれたかたがいらっしゃいましたが、しし神の森を守ろうと、動物の神たちが、人間に対して、怒りで臨んでいるときに、しし神本人は、動物側にも人間側にも、さらに森を守るということにも肩入れしません。
まさに我関せずという感じ、笑。

けれど、しし神は、森の命の源(愛)なのです。

そんな感じで、この難しいテーマのフォローに少しでもなっているといいのですが、力不足ですみません。


わたしには、この「変わりたくない」というテーマに懸命に取り組んでいる○○さん自身がとても尊く感じます。
たくさんの祝福が天からあるように祈っています☆