金星の女神学校≪アバンダンティア≫の感想です7

史衣さま
いつもお世話になります☆


先日はアバンダンティアに参加させていただき、ありがとうございました。感想が大変遅くなりました!


今回は、私も大部分旅の体験談です(笑)。



少し遅めのお盆休みに家族で一泊旅行に出たのですが(少しアバンダンスのテーマも狙って?)、恩寵と試練が交錯していて、これでアバンダンティアの理解になっているのだろうか?と不安を抱きつつ帰宅したのですが、ちょうどフミさんの旅行記の記事がアップされていて、同じ課題があったのだ〜!と分かり、すごく脱力しました(笑)。



その前に(偶然、ペルセウス流星群の日です)、「自然の中に入っていってください」というガイダンスに従って、その時は一人で自然に浸ろうと思って山方面へ向かいました。行き先は、時々通る田舎の国道をそれて山に入った所で、いつも通る時にキャンプ場の看板を見ていたので、どんなところだろう?と気になっていたのもあり、ネットで調べると天文台もあったので、ちょっといいかな、と思ったのです。でも、割と遠いし他に目的もあるわけでもなかったので、ちょっと気負いすぎ?というきらいもありながら、まぁ、いいじゃないか?と。天文台といっても行くのは昼間なので、景色がいいかな?ぐらいの期待に抑えておいて。


で、実際行ってみると、天気も曇りだし、すごく狭くて急な山道だったので、正直、癒されるよりも恐かったのです(苦笑)。天文台も古くてこじんまりしていて、小さなエントランスには、窓口の向こうの無口そうな館長さんと自販の商品入れ替えをしてるビバレッジ屋さんしかいなくて、ちょっと気まずくもあり、さっさと屋上に上がりましたが、見晴らしも一方向が開けているだけで(空を見るために作られているので、景色は二の次だったのですね)、少しがっかり?(すみません)という感じでした。


それで、う〜ん、何かシンクロとか狙って来ている自分がイヤだな、と思い、何も分からなかったら分からないまま帰ろう、それでいいじゃない?と思いました。で、普段、ただボーッとするのが損に思えてイヤだという合理主義的な気持ちがあるのですが、何だかこの時は、そういう考え方に捉われるのをやめたくて、何もない所であえてボーッとしてみようと思いました。それはそれで作為的ではあるのですが。が、階下のビバレッジ屋さんの車の作業の音がうるさかったので、帰られるのを待っていたんです。それが思いのほか長くて(それでやっと作為的な自分から抜けられたのかもです)。で、ますます無意味にボーッとしちゃったな、とさらに思うのですが。


で、帰られた後、やっとメインの景色を眺めながらしばらくボーッとして、結局何も掴めないままでしたが、がっかりというわけでもなく帰ろうとしたのですが、その時ちょうど館長さんが屋上に上がって来られたのです。今思うと、女一人で山奥に来て、誰もいない昼間の天文台の狭い屋上に上がったきり半時間も経つものだから、少し心配されていたのかもしれません。で、ご案内しましょうか?とおっしゃられたんですが、昼間なのに申し訳ないと思い辞退して帰ろうと思いましたが、後で寄ろうと思っていたキャンプ場の眺め等少し質問させていただいたら、そのまま天文台のご案内をしてくださったんです。


昼間なので、景色に映る建物のお話や、飛行機の航路のお話や、周囲の植生・生き物のお話など、そのまま細やかさが伺えるお話を交えての天文の世界のお話で、これがまたささやかで地道なのだけど、それがなおさらいいんですよね。自然を観察するということは、やはり天気とかに左右されるのだけど、過剰な期待をかけてはやっていられないからか、期待をかけるのは人間のおごりだと考えておられるからなのか、非常に謙虚でいらっしゃるのです。それでいて、海外に皆既日食の撮影に行かれた時には、曇天が一瞬にして奇跡のように晴れたそうで、自然の恩寵はやはりあるのだ、とも思わせられました。


お話はすべて印象的だったのですけど、そのような本当に山奥の小さな天文台に来られるのは、意外に遠くからの都会の方が多いとのことでした。都会では、山に住んでいても、山から見下ろす景色も町並みばかりで自然がないのだと。ということは、比較的田舎の緑の多い環境に住んでいる私は、実はもともと恵まれていたんだな〜、と。


その後、キャンプ場に寄った後、まだ時間があったので、これまた今まで看板を見ていたけど立ち寄ったことはなかった某メーカーのワイナリーに行ってみることにしました。小さいながらもぶとう畑もや、ワインをお供えした神社もあって、自然から人間に贈られる豊穣と、それをささやかに讃える人々の暖かい気持ちを感じました。それから、地図にあった遊歩道を散歩してみたのですが、これが失敗で(苦笑)、荒れ果てたけもの道と化している中を恐々と進み、あげく道に迷い、汗だくでやっと元の場所に帰還しました。何だか、優雅に終われない私(苦笑)。


たぶん、途中から欲が出てきたのだと思います。それまでの路程で十分恵みがあったのに、まだ満足できないようなところがあり(時間やお金を使っていたので?)、さらに見返りを求めてしまっていたのだと思います。またもや自分のあざとさに落胆しつつも、実はわざわざ山奥に来たり見知らぬ土地をさまよわなくてもよかったのでは?実はすぐ身近に自然は溢れていて、それに気付きなさいということだったのでは?と思いました。(それに気付くために山奥に行く必要はあったし、館長さんのお話や他色々見所もあったわけで、作為的な考えに始まる私の行動にも、惜しみなく恵みをくれる高次の懐の大きさに感謝したわけです。)


そして家まで戻って自転車に乗り換えてみると、それはやはりそうなのでした。近所の庭に蓮の花(!)が咲いていたり、不思議な実を発見したり。そして、自転車だから風を感じるし、空を見上げることもできるし、それは毎日していることなのでした。



そんなこともありつつ、今度は家族旅行に行ったわけですが。旅には運があるというか、使うお金も大きくなるせいか、損得を感じる要素も多いのですよね(苦笑)。それは、今まで自分がものごとを損得で捕らえている面が大きかったから余計にそう感じるのであって、旅の中でまさにそれが課題だな〜と実感しました。


例えば、食事の場所選びに失敗した時など(苦笑)。欲が出ると(最初の一軒目ではなく、色々見てから決めたい、など。)失敗するのですが、失敗も実は失敗ではなく、味はともかく景色はよかった、とか、失敗もいい思い出とか、色々受け取りようがあるわけで、「失敗=損=不幸」のような今までの図式から、とにかく抜け出そうと思いました。事前に調べて計画して来た部分と、その場で決めようと調べずにいた部分と、当日の、計画通りにするのかどうか、その場で直感で決めるのか、というその時その時の判断が、いつもは優柔不断な性格から辛くもあったのですが、今回は、途中からはもうお任せして、損得で判断せずその流れを楽しもう、というようになりました。


そして、決定的なことが起きたのです。


二日目は伊勢神宮参拝予定だったのですが、朝からハプニングで時間がずれ込んだり、道に迷ったり、何だか変でした。それでも外宮の参拝は無事に終え、内宮に向かったのですが、猛暑日の炎天下の中、長い距離をを歩いて家族の機嫌も悪くなり、来てはいけなかったのかな?とさえ思い始めていました。遠方からはるばる来て参拝しないなんて、考えられないことでしたが。


そして、横丁をそれて五十鈴川に辿り着くと、川のほとりで泳いでいる地元の人たちがけっこういたので、子供が泳ぎたがったのです。機嫌が直ればと思い、泳ぐ用意もありませんでしたが、川に入らせると、子供はとても喜んでいました。でも、まだ小さいので、親が一緒に入れないことに少し不安があり、目を離さず見守っていたのですが、水が平気な我が子はあっという間に浅瀬から遠ざかり、呼び戻そうと叫んだのですが時は遅し、主人が服を着たまま水に入って助けるまで、ほんの数秒ですが、溺れてしまったのです。


子供はケロッとしていましたが、親の私たちは、あと数秒遅かったらと思うと蒼然とした思いでした。後で確認すると、主人は靴は脱いだけど、携帯と財布と車のリモコンキーはポケットに入れたままですべて浸水状態、携帯は壊れてしまっていました。これが、親も一緒に水に入ってそばで泳いでいるときのことだったら、溺れたというほどの認識ではなかったのかもしれませんが、私自身、カメラを首にかけていて、長い上衣にジーンズ姿だったので、私でも助けられるという自信もなく一歩も動けないままだったし、主人はずぶ濡れではもう参拝も無理そうだし、そして携帯が壊れたという具体的な損失もあったからか、私たちの恐怖は本当にリアルだったのです。


これはアバンダンスのテーマだけではなく、今までの女神学校の集大成のような学びだと思いました。実は数日前に、夢で、やはり子供が溺れてしまい、隣で泳いでいた私が手を伸ばしてもどうしても届かない、というのを見ていたのもあり(夢とはいえトラウマになるくらい恐怖を感じたのに、なぜか、川に入る前は忘れていました。)、まさに正夢だったのですけど、夢では助けられなかったけど、現実には助かった、という感謝の思いもありました。そして、私の恐れも希望も、すべて現実になったのだ、そしてこれからも、きっとそうなのだ、と漠然と思いました。


そして、幸い、主人が私一人でも参拝して来たら?と言ってくれたので、一人でお礼参りに行ってきました(かなり小走りで。苦笑)。


そういえば旅行の前日に、若い女の子が旅館の女将になるための修行をするというテレビ番組を見たのを思い出しました。上手ではなくても心のこもった自分の言葉で接客しなさい、という現女将からのアドバイスにも関わらず、接客の本番にずっと彼女の言葉が棒読みでした。そのうちに、彼女はお客さんの前で失敗をしてしまい、心底慌てます。その時女将から「お客さまに本当に悪いと感じたでしょう?その本当に申し訳ないと思った気持ちが大事」うんぬん(後は見逃してしまいました)と言われて、彼女は、それまでの自分の接客には心がこもっていなかったということを初めて理解するのです。


その時の私の気持ちは、それと同じようなもので、今まで、生きていること(命)に感謝するという気持ちが本当には理解できていなかったのでした。頭では分かっているつもりでも、心が抵抗していて(生きることは苦しいという思いから)、感謝の言葉を言ってはみても、心がこめることが難しかったのです。(そして、無理にそうする必要もないことを、これまでの女神学校で学ばせてももらってきました。)


が、その時は、本当に心から感謝の思い、人生を信頼する思い(助けられた)が湧いてきて、そして、今まで心の奥にずっとあった死の恐怖から、逆になぜか解放されたのです。そして、今この瞬間、家族とともにあること、それがすでにすごく豊かなことなのだ、という実感が湧いてきました。(これも、今までももちろん理解しているつもりだったのですが、さらに深く身を持って実感することがとても大事なことだったのです。)携帯が壊れたという具体的な損失も、私たちに与えられた豊かさゆえのバランスなのだと思いました。そして実際この出来事が、家族の絆を強めてくれたように思います。家族でお伊勢参りをして絆を強めたいという、私の勝手な願望より何より(苦笑)。


ですから、このように複雑で深い思いに包まれての帰宅後に読んだフミさんの記事は(カメラが壊れたり、刻一刻と色んなサインを受け取りながら行動していく様子)、本当に脱力ものだったわけです(笑)。そして、今までは、フミさんと自然との濃密な(そして、優雅な?)かかわりについて、羨ましいという思いがまだ少しあったのですが、今回フミさんが、やはりというか、恩寵のような形で流星群を見ることができていたということに、私たちのぶんも代わりに見てくれていたのだ、私たちもその恩寵を等しく受け取っていいのだ、という深い幸福感が湧いてきました。



今まで、私は自然に対して、すごくコンプレックスがありました。(農業に携わったこともないし、観葉植物もすぐ枯らしてしまう。生き物の飼い方もよく分からない、など。)そして、本能のままに生態系の秩序を守って生きる自然の者たちに対して、本能の壊れた生き物である人間は、欲にかられて自然から多くを搾取し、自然の調和を乱す存在だから、自然にとっては邪魔者なのではないか、と思っていました。ですが、ガイダンスを読んで、自然と人間の調和の道があるのだな〜、と人間は受け取っていいのだな〜、と暖かい気持ちになりました。また、動物の弱肉強食の習性や性行動の本能を人間社会にあてはめて是とする動物行動学的な考え方がイヤだったのですが、人間は本能を越えて理想を追求して行く存在なのだと教えていただき、勇気が湧きました。


そして、話は戻りますが、アチューメントの時には、そのような自然に対するコンプレックスが洗い流されていくような、リアルな感情の浄化の感覚があり、「それぞれの関わり方、それぞれの愛し方でいいのですよ。」という許しを受け取ったような気がしました。だから、自然と直接的に関わるだけではなく、例えば自然を詩に詠う、絵に描く、などもそうだし、まずは感じて、ただ感謝するだけでじゅうぶんなのだと(ただし、心から。)そしてただひたすら眺める、感じる、というそれだけのことの中に、自然の美や神秘や摂理は見出されるものなのだと、いうことのようでした。


昔、どなたかのエッセイで、どんなに不幸な境遇にある子供でも、自然と触れ合える環境にあれば、子供は自然に慰められ希望を持って生きられる、と読んだことがあります。辛いことがあっても、美しい夕日に慰められたり、雲を眺めて気を紛らわしたり、生き物と遊んだり、それは気休めではなく、本当に自然から生きる力を受け取っているのだと。


それで思い出したのですが、私にとって20代は暗い時期だったのですが、当時南の島にはまっていて、よく一人旅をしていました。で、ある時、観光客は足を踏み入れないような田舎に迷いこんでしまったのですが、そこでの景色のあまりの美しさに、自我を失ったような感覚になったことがあるのです。そして、その時の恍惚(?)の感覚が、後々に、自我のために傷つきやすい性格のために人生の途上で足を踏み外してしまわないよう、ずっと私を守ってくれていたのだと思います。そしてそれがきっかけで写真にもハマったのですが、あれも、欲を出すと撮れないのですよね。欲のない状態でこそ、奇跡のシーンが現れるという不思議。今思うと、観音意識を養う学びになっていたな〜と思います。つまり、自我から解放されることが、欲からの解放でもあり、自然と繋がれるカギのように思います。


でも、欲を恐れてただ禁欲的になるというのではなく、やはりそれはすごく高度な在り方なのですよね。光の方を見つつ、信頼しているからこそ、執着を持たず、透明であるような状態。欲というのは、根本的には、不足することへの恐れから来るのだと、自分の心もそのような恐れにとりつかれてずいぶん欲に流されてきたと思います。だから、物物質的なものの不足だけではなく、自分自身の内面的な不足にまで捉われて、失うことを恐れて身を守ろうと他人を蹴落としたり、さらにもっと所有しておくために他人を利用したり、それは外見的には成功のように見える場合でも、本当にほしいものとは違っていたり、いくら所有しても際限なく欲を感じたり、実はとても苦しいこと。


守られているという安心感が、やはり必要なのです。そして、それこそが自然から無償で贈られてきいるエネルギー。無償で与えられていることを知れば、信頼が生まれるのです。現代は、あらゆるものが経済に巻き込まれていて、消費という行為の中で逐一損得勘定を引き起こされてしまう、そういう循環そのものに私自身苦しみを感じてきましたが、消費活動に組み込まれていようといまいと、本当の愛や豊かさを識別して、そちらに軸を移せば、愛と豊かさの循環に入れるのでしょうね。(入ると、決意!)




だから、私が今はまだ自分の使命や魂の望みに気付けなくて、下手にヒーラーと名を語って成功もしていないこと、それもある意味守られて来たのだと思うのです。まだ私の中に恐れがたくさんありますから。でも、本当に自分の使命に気付けなくても、自然や生命を賛美して幸せを感じて、これでアバンダンティアと言えるのかしら・・・?


自然の中に入って行けば、きっと分かるでしょう、とありましたが、これだ!というものが見つからないままでした。自然の中にこそ見出せる、何か?何だろう?と。自分の中にある種・・・。


そうでした。私たち人間も自然の一部であるなら、誰でもその魂の個々の美を花開かせることのできるブループリントを持っているはずなのです。自然の花は、そのブループリントのままに、まっすぐに恐れも知らず、花を咲かせるという目的に向かって、自然から滋養を得ながら、成長します。自然には真実しかないからこそ、その目的をすでに知っているのですね。人間の魂は一人ひとりが違う種であるかのようにそれぞれ個性的だと思うのですが、人間の魂の可能性の実現について、自然というものの存在がリアルに介在するという認識は、今までありませんでしたが、自然の存在なしに人間が生きられないことを考えると、目に見える自然を通して私たちがエネルギー的にも地球と繋がっていることが理解できます。地球は、人間を介してでないと宇宙の叡智を受け取れないと聞いたことがあります。地球(自然)と人間が相互に補完しあって初めて宇宙と繋がる?三位一体とも言える?言葉ではうまく表現できないけれど、地球の在り方の真実は本当に豊穣なんですね。そして、それは約束なんですね!



私たち人間は、目的を忘れて生まれてきて、でもだからこそ、未知の可能性も大いにあって、大きく自然に反して破壊的に生きることも可能であれば、自然(たとえば身体的な生理)を超越して生きて行くことも可能で、実は自然自身が本能を超越してより多くの恵みをもたらすことすらも、まさに自然と人間の愛の循環によって可能なのではないかと思うのです。例えば身近なペットちゃんたち。彼らの愛は、動物としての本能のありったけの愛以上に人間の愛に応えているような気がします。美味な果物や野菜にしても、何故そんなに人間の口に合うのか考えると、実は奇跡的なことなんですよね。


人間が自然を利用するのでもなく、恵みとして受け取る(恵みを感じる)時、自然は祝福となり、自然現象が祝福の印となるのだな〜、と。その時、自然は、ただ本能のままにあるだけの自然ではなく、まさに神の具現としての自然となる。だから、人間も嬉しくなって、必然的に自然のために歌ったり、踊ったり、したくなるわけですね(笑)。


だから、自然を大切にとか、自然に癒されようとか、意気込んで自然と触れ合うのではなく、まさに魂を揺さぶられるような体験としての自然との絆を恩寵として受け取れるよう(すでに受け取っているのだと気付けるよう)、日々謙虚に心を磨いていくしかないのだな〜、と思いました。繊細な心なくして、自然に感嘆することは難しいですから。そして、それが、地上の天国へと続く道なのだと。そして、これまで心の闇と向き合ってきたことも、それらすべてがそのための準備になっていて、段々と地に足がついていく感覚というものを、ありありと実感しています。


これまでは、色んなところに遊びに行きたい(だから、お金がもっと必要?)、という気持ちがありましたが、もしかして、いつも同じところでもいいのかもしれない、それもすごく豊かなことなのだ、何故なら日本には四季があるのですから、同じ場所でも刻々と風景は変わっていて、それぞれの時期の豊かさを私たち人間に示してくれているのですものね。天文台の館長さんも、ずっと同じ場所で空や自然を眺めてきたからこそ、それを細やかに知り尽くし、叡智として受け取り、また本当の意味で自然を慈しむことができるのでしょう。


私の場合、実際の経済的不安もまだまだ大きいのですが(アチューメントの当日、お金の計算違いがあって、なぜか、貯金をあらいざらい計算してみる羽目に陥ったり、実は近々仕事をクビになる可能性もあったりもし、実際そんな夢も見ました。)、そうした不安に今後正しい形で向き合っていくためにも、まずは自らが地球の豊かさをエネルギーとして恵みを受け取り、自らがアバンダンティアとなるべく、謙虚に生きて行くことですね。恵みが巡るために。


とはいえ、うちのベランダのハイビスカスは今年も花を咲かせず(小さい蕾が出ても、水をあげる間隔が空き過ぎて、蕾の部分だけ枯れてしまうようです。汗)、アバンダンティア以降も水をやり忘れることがしばしばで、まだまだ謙虚さが足りないな〜、と肝に銘じるわけです(苦笑)。


今回もたくさんの愛のエネルギーをありがとうございました。