第10回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiii(日蝕新月9次元11次元特別合同)

遅くなりましたが、 レポートをお送りします。今回は前半快調だったのですが、後半になってレポートがまったく進まず、苦戦しました。まずはありがとうございます。6次元・7次元合同ナディの追記もかなり含まれますが、よろしくお願いします。


これまでの一連のワークを消化するのに、私はかなり時間をかけてきた方だと思っているのですが、今回ナディ(しかも合同)が立て続けということに、身体的なハードさも感じていたところではありました。とはいえ、前回の6次元・7次元合同ナディの時に、ようやくと言いますか、背伸びをせずその時目の前にある課題だけに精一杯取り組むようにしたところだったので、逆にきっちりと消化できた(今必要な学びとしての範囲では)という感じもあり、今回のナディには、マインド的には準備が整っていたという感じでした。

というのも、今までは、信頼が足りなかったからか、ひとつのワークを受けては、理屈では分かったけど現実に対処する仕方がまだぜんぜん分からない、と焦ったり、現実が全然好転しない、と不安になったり、ネガティブな考えの堂々巡りにエネルギーを使いすぎて疲れてしまっていたのですね。

でも、前回のナディではじめて、「今取り組むべきことに取り組んでいれば、必ず新たなガイダンスが(自分の内側から)やってくる」という信頼とともに、「現実にうまく対処できることが目標なのではなく、現実が自分に何を教えてくれようとしているのかを冷静に見ることが大事なのだ」という確信が持てたので、ワークで得た叡智を持って、さて現実にどう対処できるのか?まだ全然分からないままなんですけども、今は分からなくてもいい、という安心感の中にいたので、余計なエネルギーを消耗せず、逆に今必要な学びのスピードが早まったように思うのです。

なので、今回はナディに対するワクワク感がいつになく大きかったのです(個人的に、クマラが楽しんで受けてくださいと言ってましたし。笑)でも、ちょっと緊張感もまだありました。


それでですね、ナディの当日に、人と会う用事があって、指定されたファミレス(皆さんご存知でしょうが)に行くと、そこは天使の絵が多いと知ってはいたとはいえ、ナディとの関連すら浮かばないままだったのですが、なんと、「ヴィーナスの誕生」の絵があったので、本当にビックリしました!これは祝福なのかなぁ、と♪

後で気付いたのですが、今回のナディは天使がたくさん関わっているわけで、「ヴィーナスの誕生」と天使たちが一緒に現れたということは、人間界で新たに誕生したヴィーナス(女神あるいは女神の愛)が天国を目指すということの隠喩ですね♪そこまでバッチリ設定されていたとは・・・。

しかしですね、その時その場での自分は、今後の仕事に関わることだったので始終緊張してしまっていたし、翌日はナディの影響で身体がだるくて寝ていたかったんですが、日常の用事に追われていつもの調子でワーッとなったまま終わってしまったんです。ナディのワーク中には色々な閃きがあって、早く書き留めたいと思っていたのけど体力も時間もなく、イライラしてしまった部分もあり、あ〜、天国を遠ざけている私、と思いつつ、とりあえず自分を責めるのだけはやめて(笑)。


で、ナディのワーク中のことをまず書きます。

今までで一番体感があり、エンジェリックな濃密な波動を感じました。

そして、ふと、今自分が無邪気な子供であるとしたら、何をしたいと思うだろう?と考えました。すると、無邪気な、天使のような幼い子供が、天界から地上世界を見下ろしているイメージが湧いてきました。その子は、もともと愛として生まれてきた者同士の天界での調和の関係に、満足できないようでした。そんなの当たり前すぎる。もっと高貴な愛というのがあるんじゃないかしら?たとえば、すごい憎しみの関係を調和の関係に変えるとか?素晴らしいじゃないか?それこそ、天界での愛よりもっと高貴な愛ではないか?人間界に降りたら、そういう経験ができるんだって?僕もそんな経験してみたい!(なぜか、「僕」。で、瞑想している私自身は、やめときなよ!と思っている。笑)

かくして、私は地上に降り立ったようです。

それから、天使なる自分は、人間界で修行を積んで、ついに自分が誰だったか思い出します。そして、「ついに思い出したんだね、おめでとう!お帰り!」と褒められたくて、天国の門を再び叩きますが、そこで天国に帰ってしまうのをやめて、地上に戻ることを決意するのです。まだ残っている自分の使命のために。

(過去のナディの感想で、ヘラクレスの映画について書かれている方がいたと思いますが、ナディの後にDVDを借りに行ったらたまたま目に入ったので、借りて見ました。すると、最後の場面が自分のヴィジョンとそっくりだったので、驚きました。それだけではなく、真の英雄とは何か?というテーマが、愛と真実、自立の課題を巡って描かれていて、シンプルながらハートに響きました。ギリシャ神話のヘラクレスとは全然違うストーリーになっていますが、だからこそ、というか。)

そういえば、前回のナディの後、思ったのです。私という存在を抜きにすれば世界はワンネスだ、という思いは、自己否定もあったけど、実は、人間への憧れの思いもあったからなのです。みんな完璧ではないかもしれないけど、それぞれ魅力的で、自然で、輝いていて、人間らしいじゃないか、私よりは、と。もしかしたらダーク・サイドからやって来たのかも知れない私は(なぜなら、掘っても掘っても愛の源泉が見つからない)、素朴な愛や信仰を持つ人たちには及びもつかない。だからこそ、人間らしい人間として人生をまっとうすることに深く憧れていたんですね。だから、人間以前の時に、人間になることを自ら意志したのは想像に難くなく、つまり、今、念願の人間をやっているわけです(笑)。


そして、ガイダンスの内容について質問してみました。

「ハートの叡智とは何ですか?」

エーテリックな施術の時間の前に、パラパラとめくっていた宗教絵画の本の中の、「イエスの心臓の礼拝」という絵を思い出しました。イエスの顔は描かれておらず、赤いハートの周りに釘で打たれた両手と両足の4つの聖痕があり、ゴールドのオーラに包まれ、周りを天使が囲んでいるという、異色の絵です。(本当は、十字架の神聖幾何学的な意味が気になってネットで調べたのですが、心当たりのある記事が消えていて、落胆していたところでした。)

そして、十字架の交差する真ん中に心臓(ハート)があるというインスピレーションが湧きました。そして、天と地(天国と地獄、天界と地球の核)を繋ぐのもハートであれば(縦の繋がり)、地の者である人間同士を繋ぐのもハートである(横の繋がり)、と。


それから、

 私は、「真実」という名の「書物」、

 「愛」という名の「ハート」、

 「奇跡」という名の「身体」である

というメッセージ。


ハートに愛があれば、血液は細胞に愛を送り込み、細胞のひとつひとつが愛で満たされる、と。そして、ハートは膨張と収縮を繰り返し、絶えず肉体を再生させる。生命はそのように循環し、愛もそのように循環する。それが、肉体の奇跡であり、宇宙の創造の奇跡でもある。

ハートを愛で満たしなさい。

永遠であるための条件は、「絶えず変化すること」である。変化することによってこそ、永遠であるのだ。だから、変化を恐れてはいけない。変化とは、自分が自分でなくなることではなく、自分がより自分であるために、変化しなければならないのだ。常に新しく。変わらない本質(シグナチャー)があるからこそ。


それでも、ハートの叡智について、まだ理解できなかったので、考察は続いていました。

メッセージの中で「私は真実という名の書物」と言われたことは、読み返していた哲学の本から、すでにエッセンスを得ていました。数少ない賢明な哲学者や詩人たちは、「この宇宙にはただひとつの真実という名の書物があって、人間が語るものは、すべてその断片に過ぎないのではないか、しかし、すべてがその断片であることによって、無限に宇宙は語られることができ、語られることによって新たに創造される。」、という思いを持っていた、と。これは、個人の人間が宇宙のピースであるというワンネスの考え方と一致します。自分の固有の音、シグナチャー、色彩環の中の自分の固有の色・・・それと同じように、固有の神話が存在する。それは、宇宙の断片であることによって、逆に宇宙上で完全なものとして存在する。

そして、言葉(ロゴス)によって、認識され、解明される、または解明され尽くすことがないからこその、身体、自然、宇宙・・・すべての「ありてあるもの」の奇跡。つまり、奇跡的な創造があっても、それを認識する者がいなければ、それは「奇跡」と名づけられることさえない。だから、「創造」(神)はそれを認識する「意識」(もうひとりの神)を必要とした。言葉(ロゴス)に表される以前のものとしての、身体、音、色・・・・ありてあるもの。認識されたものがロゴス。


つまり、「ハート」とは、奇跡を認識することによって感じる感情=「愛」。それは、ありてあるものをロゴスとしての宇宙の叡智へと還す聖霊であり、ロゴスを、ありてあるものとしての宇宙の創造へと導く聖霊でもある、要の、中心の心臓」。男性性と女性性を繋ぐのも、ハート。聖なる魂の秩序と地上の混沌の両方を行き来して生まれる、美=芸術。

そして、高次と地球を繋ぐハートの役割として存在するのが人間。イエスは、受肉して私たちと同じ人間として存在したからこそ、ガイアにも、すべての人間にも、天国のエッセンスを届けることができた。

だから、やっぱり「感情の純化」からこそ、愛(と愛の美)は誕生するのです。・・・どの角度から問われても変わらない、私の真実。

「上にあるものは、下にもあり、下あるものは、上にもある。」 

三位一体の秘密。

そのような理解によって、はじめて、私のハートは、「これがハートなんだよ」と存在感を持てたように思います。(今まで、ハート=愛がピンと来なかったくらい、存在感がなかったんです。汗)


そして、前回のナディの成果といいますか、真実という名の聖霊がハートから出てきて、これからはそっちを本当の自分として生きることができるというインスピレーションを得て、その聖霊に溶け込もうとイメージングを繰り返していました。そして、それから数日後、今までネガティブの塊のようだった自分自身の意識、つまり今までの自分そのものであるような意識が、何というか、自分の外側にあるような不思議な感覚が起こったのです。そして、その自分の外にいる自分自身が、「私、そろそろあがってもいいよ?」と言ったので、これまたビックリしたんです。じゃぁ、私は一体誰だったの?そして誰になるの?というような(笑)。

しかし、これこそ変容のきざしなのだな、という確信もありました。もう本当に、自分の力を超えた恩寵として、しかも意識の変化より先に、物理的な(エネルギー的な)変容としか言いようのない感覚で、それはやって来たのです。

その段階で、今回のナディを迎えてどうなるのだろう?と思っていましたが、ただ単純に古い感情体の私が成仏(?)するのかなと思っていたら、そうではなかったのです。

ナディの晩に、子供が「明日で終わりなの?」と言い、主人もその言葉を繰り返しました(実際はお菓子の話です。笑)

そして、翌日の晩、ナディを受けたにも関わらず、リラックスを忘れて緊張もしたし、家族にガミガミも言ったし、相変わらずという感じで過ぎて行ってるな〜、と布団の中で振り返っていました。

「相変わらずこんなふうな私、色んな感情に振り回されてる私は、まだまだ私の真ん中に居座っているけど、それってあなただよね?」と、私の外側にいるはずの私の古い感情体に向けて話しかけてみました。「今日で終わりって、あなたのことなの?」と。

すると、私の古い感情体はこう言ったのです。

「それらの感情を、私に預けてください。私は、今、生まれ変わり(だから、古い感情体の私は、今日で終わり?)、あなたの感情を受け止めるために、ここに残っているのです。」

え?上にあがるんじゃなかったの??

けれど、半信半疑で私の諸々の感情を彼女に預けてみると、私の真ん中はまっさらな安心感に戻ることができたのです。

私自身ではある彼女ですが、マリア意識・観音意識を感じました。つまり、ルシファーが天に還るように成仏するのではなく、私の中の闇が、私自身を癒す女神意識として、他者の痛みへの共感の種として、私の本質に統合されたということのようなのです。(もちろん、まだ全然完全ではなく、その下地ができただけということでしょうが)

(ちなみに彼女は最初は腰の右側の下あたりにいるような感覚で、まだ位置が正しくないような気がしましたが、その後、ハート内に移動しました。これで正位置?)


実は、ガイダンスを読みながら、すべてがひとつであるなら、私であることももちろん私であれば、私でないことも私であることになりはしないか?と(論理的に)思ったのです。

だから、私がもともと天界にいて、自分でないものを経験するために人間になったのなら、人間であることは自分でないことになるから、自分が何者か思い出したら地上を去って天界に帰るしかない?でも、地上を天国として生きるということは、真実の自分が、自分でないもの(人間)を経験したのちに統合した、新たな地上の天使でなければならないのではないか?と。

そう考えると、私のこの感覚は、私の中の闇を手放したというより、統合したという方がよりしっくり来るのです。その哲学の本にも書いてありましたが、私たちのひとつの人生、その中で経験したひとつひとつの出来事は、宇宙の歴史に永遠に刻印されている、と。それは(どんなにネガティブな経験であれ、消せるものではない)、宇宙が経験することの完全性を織り成す大切なピース。そして、その時感じた感情も記憶に残っていようといまいと、宇宙意識に刻印されている。ならば、本当の意味で手放せることなどできるはずはなく、できるとすれば、癒された経験として新たに刻印されること。それが、新たな愛の神話となる。

で、たまたま、ナディの日の新月日蝕についての占星術的な解説を読んだのですが、この日の蟹座の20度には独特の安定感や恒常性を表しているけど、その安定感や恒常性は、自分に都合の悪いことを排除して成り立つものではなく、影の要素を取り込んで、解消して出来上がっている強さなのだ、とあり、タロットでいえば、20の審判は、過去へも未来へも自由自在にアクセスできる、因果律から自由であるということ、とあり、同じだな〜、と!

だから、私たちは、過去の経験のひとつひとつを自分の中に溜め込んでジャッジし続け、そこから経験則を得て以来を予測するというやり方でどんどん苦しくなっていったけれども、それは宇宙が経験していることでもあると思えば、大いなる宇宙に経験を預けることができるし(ジャッジするのではなく、未来に生かす礎とするために)、一瞬一瞬に集中して生きることができると思うのです。


その後、ほぼまるまる残りの日にちをかけて、天国的な部分はより一層天国に近づきましたが、地獄的な部分も、はっきりと姿を現してきました。実はこの地獄の表れをすごく恐れていたのですが(通過儀礼とはいえ)、リラックスして、信頼していれば天国なのだから、と言い聞かせても、「真実が姿を現すのは、地獄を経験する最中にしか起こらない」のであれば、真実を得るためには、まだ地獄を経験する必要があるのではないか?と思うと、真実の聖霊や、マリア・観音意識とともにあろうとも、足がすくむような気持ちになっていました。

そして実際、それはやはり次々と起こったのです。しかし、恐れのままに、というより、実際には、あ、またか・・・という飽き飽きした嫌悪感の中で。その渦中で、私はほとんどと言っていいほどよい振る舞いができなかった。が、今までのように、ネガティブ意識に引きずり込まれて、動揺して憎しみや被害者意識でいっぱいになる、ということもありませんでした。ただ淡々と、その場に居合わせたという感じで。実は、そういった地獄の様相を、私の外側にいる、私を傷つけようとする敵の仕業としてではなく、淡々と、自分の内部のネガティブ意識を反映して引き起こしている現象として受けとめる自分がいました。そして、それが自分の一部なのであれば、これまで取り組んできた自分のネガティブ意識の一部なのであれば、それこそどこまでも深く見つめようとしてきたことなのだから、実は、もうそれほど恐くないことだったのです(以前よりは、という程度ですが)。

天国がまだ分からなくても、せめて地獄に加担しないこと。まだ世界にネガティブな集合意識が渦巻いているとしても、高次と直接手を取り合って真実を生きること。と、フミさんの示してくださったサビアン・サインを勝手に自己解釈しました(笑)。


そして話はまた遡るのですが、申し込みをした時くらいに、フミさんが以前私のレポートについて、エネルギーがいいと言ってくださったことを思い出しまして、今さらながら何故だろう?と思ったのですね。その時は洞察力とかのことなのかしら?と漠然と思っていたのですが、エネルギーと言われると、改めて何なんだろう?と。

で、改めて過去の一連の感想を読み直してみると(ついでに何年も前の日記帳も)、何だろう、初めて、自分への愛を感じたのです。私はこんなにも自分を理解しようと心を注いできたし、自分のマイナス面を人間存在の理解のためにさし出してきたし、人間存在を必死に見つめることで自分を愛そうとしていた、と。それでどうして私は自分という存在を憎んでいるなんて思っていたのだろう?じゅうぶん、愛している。そして、今、その愛で自分を満たしてよいのだ、と思いました。

今までの一連のワークで自分の中の愛の感情について取り組んできて、偽善だったとか依存だったとか、ボロばかり出てきて、私は愛されていなかったから、本物の愛情なんて何にも分かっていなかったんだな、と思っていました。しかし、本当は、偽りなく真実として自分を愛している自分もいたのです。ただ、他者との関係においては愛されなかった傷は大きかったから、それは、危険な自己愛や自己顕示欲とスレスレのものではあり、それは感想を書いている中でもスレスレだという自覚は実はあったのだけれども、その中にこそ真実があるのだという確信のもと、これまでひたすら書いてきました。そして、そのように、自己愛もろとも感情を掘り出してきたことが、自己愛ではなく、普遍的な愛として、今、私を満たそうとしている・・・不思議な感動でした。

もちろん、自己顕示欲も完全には消え去ってはいないのですが、今はどちらかと言うと、まな板の鯉だという自覚の方が大きいです(笑)。何といっても、前回のナディの前にあまりにも落ち込みすぎていたために(まさにスピリチュアル・クライシスという感じでしたが、今回の合同ガイダンスで、クマラの計画通りだったのだと。)、もう自分のことしか考える余裕もなかったし、「他の人のことを一切気にしない、どう感じてもよい」とガイダンスにあったので、ただ必死に自分だけを見つめたのですね。何て自己中なんだ、と思いつつ、もう、最大限。

そして、極限まで自分を見つめたことの結果として、高次は、逆に個人的ではない、「普遍的な」メッセージをくれたわけです。これは、私にとって、すごいことでした。そして、それをシェアすることで、奉仕になる・・・、と、事前にはそれどころではなく、そんなことはまったく頭になくて、どうやったら宇宙に奉仕できる自分になれるのだろう、と悶々としていたので、「あれっ、これが奉仕だったの?」って(笑)。何だか、嬉しかったです。そう、これでよかったんですね。今のこの段階では。

(ナディの後、死への恐れについて考えていたら、「大往生」という言葉が浮かんできたんです。幸せに生きたら、それをますます手放せなくなるのではなく、幸せを享受したからこそ、いつか満足を得て、生命すら喜んで手放すこともできる。ひとつの段階で十分に満足することによって、次の段階への不安も不要となるし、逆にその準備が整っていく。だから、今得られることを、得てもよい。得るべき。今に集中する。と。)


でもって、こういうことを言うことで、過去の自分を正当化したいとかいうことではなく(逆に自分の弱点も、今の方がすごくよく見えるわけです。)、自己を通じてこそ「普遍」に触れることが可能なのだと理解したからこそ、自己愛とスレスレの自己探求の苦闘の中にも普遍的な愛の萌芽を見出すことができた、という、今の自分のものの見方が変わったからこそなのです。

そしてそれは、他者の苦闘の中にも・・・ということなのです。地獄にも花は咲いているのだな〜、と。(自己投影としての他者は、地獄だったわけです、これまで。)神なき現代社会での人間という存在は、自己愛という魔物によって、より一層分断されてきたのですね。自分を愛したいという真実の欲求が、危険な自己愛にすりかわってしまう、あるいはすりかえられてしまう・・・映画のジャンヌダルクのように。

(ここで、何かひとつ大きな解放を感じました。今まで、恥ずかしいことであるかのようにこそこそと自己探求するしかなかった男性性の怒りが、一段階癒されたかも・・・。偽りのジャンヌが高潔なジャンヌとして救い出されたというか。いや、だからと言って、堂々とするものでもないとは思うんですが。汗)


つまり、フミさんは、ヒーラーさんとして、クライアントである私の天国のトーンの方をすでに聞いてらっしゃったのだな、と思うわけです。

そうです、3次元の世界では、天国のトーンと地獄のトーンが常に重なり合っているのです。ここは天国だけど、あそこは地獄、この人は天使だけど、あの人は悪魔、と分かれているのではない。3次元的にそのように見える様相、それこそが幻なのであって、どんな状況においても、私たちがどちらのトーンに波長を合わせるかによって、天国を作り出せるか、地獄を作り出してしまうか、ということなのです。

あ、なるほど!

実は、これまでの成果であるとも言えるのか、最近急な勢いで天国的な環境を引き寄せつつあったのですが、それとは裏腹に、その天国的様相に地獄を見つけてしまいそうな自分がいたんだ、と、この最終段階で気付きました!それこそが、ここ最近のモヤモヤの理由だったのです。

明らかに地獄的な様相を持つ状況に対して、地獄に加担しない、感情に振り回されない、という土台はできたような気がする(天国に変えることはまだできなくても)。しかし、逆に、自分が一番求めてきたはずの天国的な状況にあって、不安や欲望から、より深い地獄へと転落させてしまうのではないか、という恐れが膨らみつつあったのですね。「天国を汚すことは許されない」。やはり、何重にも螺旋構造なんですけども、絵的に考えると複雑ですね・・。

そのように改めて認識できると、それもまた私がこれまで見つめてきた高位の悪魔なのであり、本当の自分ではない、けれども、統合するべき闇の私、なのですね。あぁ〜、こっちの悪魔さんは、まだまだ私そのものの一部として成長させてしまってましたね(汗)。しかし、それもまたマスターとして生きるには、当然通るべき試練でもありますね。それが統合できたら、高潔な男性性が再誕生するのかしら?(笑)


9次元の時間のない次元、永遠の観念については、実はとても馴染み深く感じているのですが、また膨大な話の展開になるので、今回は自分だけ納得して終わりたいと思います。ほか、天界の音楽、天体についてなど、全然分からなくて気になることはたくさんあったので、海に行って波の音を聞いたり、空を見つめてみたり、貝の音を聞いたり、昆虫の世界に触れたり、シュタイナーを読んでみたり(霊的に、見る・聞くという必要があったから、目や耳という器官が作られた、というのが、興味深かったです。だから、天国の音楽はアストラル体で聞くのだとか。)、この2週間ぎりぎりまで待ってみたのですが、色々インスピレーションは高まりましたが、最終的な答えとしてはみつかりませんでした。焦りもしたのですが、いつか必要な時に分かること。と信頼すること、ですね。それまで、天国の扉を叩き続けること(ハートをより開いていくこと)。

前回は、自分もできるのだ、という自信、そして高次は必ず与えてくれるのだ、という信頼を持つことが課題でしたが、今回は、前回自信と信頼を持てたからこそ、まだまだできないこと、分からないことがあることも受け入れて、取り組むべきこと、待つべきことに粘り強くあれるように、という課題でもあるのかも。自立を促しながらもそこまで導いてくれたクマラは、やはり的確です。

なので、最後までまとめにならず、ですが。あの「over the rainbow」の曲は、私の中ではハードロックのカヴァーヴァージョンが好きだったので、必然的に「天国への階段」(レッド・ツェッペリン)を思い出してしまって(笑)。嬉々として訳詞を探したんですが、詞の内容がけっこう難解らしくて、ちゃんと理解して訳している詞が見つかりませんでした。でも、すごく意味深なキーワードが満載で(ゴールド、チューン、笛吹き、ハミング、囁き、など)、刺激を受けました。参考までに。


最後に、まだ解けない謎の数々に向けて、「ひまわり」の絵に寄せてのゴッホの言葉を。

「あれらの花の色調である、あの黄金を溶かすのに十分なだけの情熱をかきたてることは、誰もができることではない。人間一人の力と集中力が、まるごとすっかり必要なのだ」



今回もたくさんの祝福をくださった高次の方々、フミさんに感謝します。ありがとうございました。