第10回ナディマスタートランスミッションスタディシェアi(日蝕新月9次元11次元特別合同)

17日は「リモートトーンサラウンド」ありがとうございました!
整えていただくことプラス、今回は光をたくさんいただいたような感覚でした。
そして早速レポートを送っていただきまして、ありがとうございます。
自分が感じていた変化が気のせいじゃなかったことを教えてくださった、とても嬉しい内容でした。
ありがとうございます!
その辺の変化も含めまして、以下、ナディのレポートです。



先日は、「9次元11次元特別合同ナディ」に参加させていただきまして、ありがとうございます。


今回のナディの開催が告知された七夕の日。私は「ラブ&アバンダンス Love&Joy」のエネルギーを浴びた後、何かいい感じ(?)だったので、そのまま深く呼吸をしながら、瞑想してみることにしました。しばらくすると突然「許してください!」という言葉が浮かびました。


「???」だったのですが、私の隠された感情ではないかと感じ、それにアクセスするために、「許してください」と心の中で何度も繰り返してみました。すると何やら泣きたい気持ちになりました。


さらに続けてみると、涙がこみ上げてきました。神を信用できずに迷走した傲慢さ、地獄への加担、私の中の高潔な男性性が自らが犯してしまった間違いを天に謝っている。その罪を後悔し、許しを祈っているのを感じました。愛ゆえに生まれてきたのに、高潔であることができず間違いを犯してしまった事を真剣に申し訳ないと感じている部分があり、それが罪悪感になっているのが分かりました。


この気持ちを高い意識へ高めて、罪悪感によって停滞するのではなく、別の道を選ぶ衝動へ変化させなければならないと思いました。



間違いを犯して、許される経験。
観音の学びが頭に浮かびましたが、これまで私は自分の間違いを真剣に感じたことはあっただろうか?と改めて思いました。
真剣に感じるからこそ、許される経験が愛の叡智に繋がるのではないか?と思いました。



9次元のナディの説明に『それは、間違ってしまった自分にはもう愛される価値もなく戻るところも失ってしまったという深い多次元的な傷の感覚です』という部分がありますが、私は全くピンとこず、自分には関係ないと思っていました。


でも今回湧き上がってきた感情を受けて、大いなる宇宙にそして観音に許しをこうために、引き続き瞑想をしてみました。
宇宙の愛にハート開く(受け取ることを自分に許す)気持ちでいたら、右手にエネルギーの重さを感じました。


それはまるで私を労るように、慰めるように、何かがそっと手を重ねてくれているような感じでした。途端に涙が溢れてきました。涙が溢れそうになると反射的にどうしても抑え込んでしまい、うまく泣けない事が多いのですが、その抑制を突き破ってほんの少しだけ泣きました。愛に触れて、私の中の傷が癒されないではいられなかったのだと思います。



そして、何が起ころうと、どんな感情に襲われようとも、全ては愛、全ては1つ、という真実に共振し続けること。その覚悟を決めました(以前にも決意していたような気もしますが:汗)。


それからは、この覚悟を実行するために障害となっている「怒り」や「寂しさ・孤独感」など様々な感情が浮かび上がってきました。


それを解放しつつ、しかしどうしても「天への不信」がぬぐい去れませんでした。
何故信じられないのか?抵抗するのか?正直に自分の心に聞いてみました。すると、「苦しみたくない!」という大きな声が聞こえました。怒りの感情と共に。



私には、「愛のために犠牲になる必要があるのではないか、嫌なことでも我慢すべきではないか」という思いが強くありました。その一方で「犠牲(苦しみ)になる」のを嫌がっているので、それを強いる(と私が感じていた)天をどうしても信頼できなかったのです。


「全ては愛」だと考えても、どうしても「嫌だ。怖い」という気持ちが、最後の最後で天への信頼を吹き飛ばします。7次元ナディでの学びは勿論のこと、今までのトランスミッションでマスターも女神も大天使も「犠牲になれ」なんて一言もおっしゃっていません。でも、「犠牲」となって私達を救ってくれた存在がいるのに、自分は「犠牲」になる必要なんてないと思っていいのか?どうしてもそれが引っかかっていました。



ただ、「犠牲」になる必要がある、なんて考えはやはりおかしいと思いました。
そんな考えがある限り、犠牲者のいる社会が具現していくのでしょうから。「犠牲」を嫌がる気持ちは自然な感情で、そして誰も「犠牲」になる必要などなく、でも愛が最高に高められた時、自らを他者に捧げる至高の愛が宿るのだとしたら、それを目指す向上心(魂レベルの)が低次で展開した時に、私の中で「全ての存在は、本当は光なのだから、(確固とした理由もなく、やみくもに、常時)他者のために犠牲になる必要がある。苦しむ必要がある。」という思い込みを生んでしまったのではないかと気づきました。そして、そんな犠牲を強いる地上世界への怒りが天へ向かっているのではないかと思いました(この思い込みをしたのは私自身なので、何とも勝手というか、一人芝居なのですが)。



この思い込みのくびきから逃れようとして、「私は犠牲になる必要なんてないんだ!」という衝動を怒りにまかせて外側に向けると、新たな不調和(苦しみ)を生むだけなので、「苦しむ必要はない。宇宙は私に苦しみを求めていない」と信頼しようと思いました。私は、「苦しむ」ことで天と取り引きしようとしていた部分もあるのだと思います。だから自分に「快適さ」や「幸せ」を許可できなかったのです。そこで思いついて、月の女神学校のワーク「人生は、危険で苦しいものだという感覚に対処する」をやりました。その後、もう「苦しむ必要はない」安心感に浸りました。苦しむ必要がないのであれば、未来を不安に思うことも天に怒りを抱く必要もありません。心から天を信頼して、委ねていればいい。
そう思えることが、本当に嬉しかったです。



でもその翌々日には、また不安に囚われている自分がいました。「何故だ〜?!」と内省していて、浮かんだインスピレーション。



この地上の遊び場では、自由意思に反したことは絶対に起きない。それが絶対のルールだ。だから、快適さを真に望んでいれば、快適さを享受できる。



☆快適さを許可し、しかしそれが実現されるまでのタイムラグを想像して気持ちが萎えてしまう。そして、状況を長引かせてしまうのですが・・・☆

快適さを許可し、実現するまでの間にエネルギーは遊んでいるわけでも、惰性で状況を続かせているわけでもなく、快適さの実現に向けて必要なことが行われている。去年の七夕のトランスミッションで真剣に変えることを決意したからこそ、この1年の動きがあったのだ。別に堂々巡りしていたわけでも、成長しなかったわけでもない。あなたの真の望みに必要なことが行われているだけだ。
宇宙を信じると決めて、しかしそれに反する感情が出てくる。決意したからこそ、(不要になったものが)出てくるのだ。その感情のもとになった傷を探り、その傷がある自分をそのまま受け入れていればいい。感情に振り回されず、流していく。傷をしっかり見る。



☆傷を感じ、見るだけ、受けとめるだけでいいのですか?☆


それが苦闘しないことだから。



☆苦しいわけですが?☆

いつか終わる。



☆苦しさを感じながら、一方で宇宙を信じることは可能ですか?苦しさ(感情)の否認になりませんか?☆


真実に波長を合わせようとすることは、いつだって癒しになる。本当は信じていないことを信じている振りをするのであれば、否認になるが、今あなたは感情に振り回されつつも、心の底で真実が本当に真実だともう分かっている。去年の七夕の時のあなたとの違いが分かるだろう?一歩一歩進んで、ここまできたのだ。
真実と愛に共振すること。そうすれば、傷がまだ傷のまま在ったとしても、内なる愛と真実を探し求めることが容易になる。探求の道を早く進める。苦闘せずに宇宙を信じること。自分が光であり、愛されていると信じること。今は他者の事は考えなくて良い。自分に集中すること。自分を愛することに集中すること。



そしてナディ前日、ガイダンスメールを読んで、何かがカチッと合わさったような気がしました。マスターサナトクマラのガイダンスを読んで、「ここ(地上)は地獄ではない。天国なのだ」と強く感じました。3次元の自由意思による無限の可能性。全ての存在が光であり、ただ今は、傷ついて、お互いに分離の幻想を投影し合って生きているだけであること。だから全てを、愛を持ってあるがままに受け入れられそうな気がしました。しかしそう思った途端、怖れが湧き上がり、「そんなことできない!嫌なものは、嫌なのだ。受け入れられない!」と叫びました。それはインナーチャイルド(傷ついた男性性)の嘆きでした。



でもそれも私が真に傷ついているわけではなく、ある意味幻想であることを同時に感じていました。真実と共振していれば、いずれは癒されずにはいられないもの。私(全て)が本当は光であると思い出したからこそ、そう冷静に感じることができる。これが、大天使ウリエルのガイダンスにあった『その夢は、目覚めたあとに、あなたに自己理解という、叡智を与えてくれるのでです。それが、太陽(自我)の叡智です。』の始まりなのかな?と思いました。以前はインナーチャイルドの傷を感じたら、その苦しさに同調するだけでした。そして傷ゆえにネガティブになる自分が嫌いでした。でも今は、その傷と同調せず、一歩引いて、その傷ゆえにネガティブにならざるをえない自分を愛しく感じて(とまで言うと、ちょっと誇張かしら:汗。でもそれに近い感覚です)、ただ抱きしめていることができるようになってきた気がします。



思えば、去年の「太陽のナディ」を受けてから、自分でも「私はおかしいのではないか」と思うほど、「不安や怖れ」を感じていました。七夕から始まったシフト以降はそれがさらに激しくなり、時には足がガクガク震えたり、じっとしていられなくてやみくもにウロウロしたりと、怖れを誘発する現実の状況を冷静に見ると、自分が感じている怖れがどう考えても不釣り合いで馬鹿馬鹿しく、でも怖れる気持ちは一向に消えず、「一体これは何なのだ!?」という思いを、毎回トランスミッションにぶつけていました。レポートでは毎回毎回「苦しみ」について語り、何故こんなに叡智と愛を注いでいただいているのに、自分は「怖れ」に囚われ続けるのかと、自分を嫌悪していました。でも、そうではなかったのですね。傷が癒されるためには、一度その痛みを感じなけれらない。そして、傷を直視することで、あるがままの自分を知っていく。その必然の部分を過ごしていた日々だったと気づきました。私はどうしてすぐに変われないのかと自分を責める目で見ていたけれども、逆にこれまでの自分が、変わるために凄く頑張っていたのだと気づいて、「えらかったね」と頭を撫でてあげたい気持ちになりました(・・すみません。どうぞ読み流してください:汗)。



ナディ当日。直前にちょっと思いついて、今回のナディは、「天使の祝福カード」を2枚ずつ引きながら、それをキーワードにしてインスピレーションを求めることにしました。最初に飛び出してきたのは、『感謝』と『自由』でしたが、『感謝』のカードを見て、少しうんざりした気持ちになりました。「感謝」が大切であること、「感謝」というエネルギーがとても波動の高いものであることは、色々なところで語られています。でも何か、順番が逆じゃないかというか、前述した「犠牲にならねば」の思い込みじゃないけですけど、「感謝」って、しようと心がけてするものなのか?みたいな気持ちがありました。世に氾濫する感謝に、下心を感じていたのです(投影ですね…笑)。




感謝というのは、愛を感じた時に自然に浮かぶもの。宇宙の愛をもっと感じなさい。積極的に探してみなさい。考えないで、心を自由に動かしてみなさい。実は、心はもっと知っているのだ、この世界が愛に溢れていることを。それを受け取っていないだけなのだ、あなたの頭が。何故受け取れないか?心を自由にしていないからだ。『石の壁が監獄を作るわけでも、鉄の棒が檻を作るわけでもありません。何も知らず活気のないマインドが、隠遁するための檻を作るのです。(カードの解説に引用されているラブレースの言葉)』真実を知らず、幻想の中で苦しみから逃れることだけを考えているマインドが、心を閉じこめてしまうのだ。地獄(苦しみ)ではなく、真実(愛)へ焦点を変えるシフト・進化。



拒絶され、諦めてしまった全ての望みを取り戻すのだ。あなたの頭の中の母親から自由になれ。その母親は、幻想なのだ。あなたの傷が作り出す幻想なのだ。本当にやりたいと思っていること。頭を一瞬よぎる思いを逃さない。それを1つ1つすくい取っていけば、自由になれる。宇宙の愛をもっと感じることができるようになっている。自然な感謝と共に、意識が上昇していく。



次に引いたのは、『許し』と『創造性』のカードでした。


願望を持つことを許す。自分の創造性を発揮することを許可する。自信を失っている。夢を持つ。実現したら、真に喜びに満たされる夢。その夢への情熱を燃やし、実現を信じて、行動を起こす。



でもこの時、私は、どれが自分の真の夢なのか分かりませんでした。迷いがありました。そこで次のカードを引いてみました。『癒し』と『敬愛』が出ました。
『癒し』の解説に引用されていたゲーテの言葉「あなたが自分を信頼できるようになればすぐに、どのように人生を生きたらよいかがわかるだろう」によって、ナディ前は「天への信頼」の問題がクローズアップされていましたが、マスターサナトクマラのガイダンスにあったように、「自分への信頼」の問題が今度は浮かんできているのが分かりました。『敬愛』で語られているのは、自分への愛です。私は自分がまだまだダメだから、自分の創造性を発揮して何かを始めることよりも、「浄化!浄化!」と考えていましたが、浄化というのはそう簡単に終わるものでもありませんし、自分に対して覚めた視点で浄化を進めることと並行して、自分を信頼して「自分には出来る」と望みを抱き、実際に行動し始める時がきているのだと思いました。



その後引いたカードでは、私が夢を実現させるために、信頼の欠如や制限を取り払うべしというインスピレーションに繋がるカードが続きました。奇跡を起こすために、「勇気をもって、目覚める」というインスピレーションで、11時になりました。



ナディ後の日々において、一番感じたのは、幻想(地獄)から真実(天国)への実質的なシフトでした。まさに『3次元にあって、天界の音楽を聴く訓練』が始まっていることを感じました。去年のナディでは光の叡智として最初の刺激を受け取り、でもまだ夢のように抽象的な概念としてあった「真実」ですが、今は本当にそれに立脚して思考し、行動することが促されている気がします。

真実というのは、一度知ってしまえば、知らない振りなどできないほど強力です。真実にそぐわない制限を知らせるために、「不快な状況」が現れています。早く手放せればいいのですが、ちょっと手こずっています。


「天への信頼」と「自分への信頼」ですね。
「奇跡」が起きるレベルまで、制限を解き放つこと。傷ゆえの制限ですから、それを苦闘せずに受けとめることと、真実に積極的に共振していくことの違いがまだ私には分かっていない部分があるように感じます。ただ以前と違うのは、表面的な感情がどう揺れ動こうと、土台の部分が真実(全ては愛)からブレないことです。だから精神的な消耗が少ないです。



今回のナディでどんなことが起こったのか、私には把握できませんが、非常に大きなシフトが深いところで起こったのを感じます。心が羽ばたきたがっているのを感じます。
幻想のヴェーエルを突き抜けて、世界の美しさを知りたい(思い出したい)衝動が高まっています。全ての犠牲が勝利の喜びに変わる愛の次元に心を開きたいのです。
幻想から目覚めつつある今、不要な感情・制限の浄化と解放に励むことと並行して、本当にユグドラシルを育て始める時がきたことを感じます。
これからが本番。そんな風に感じています。

今回も素晴らしい機会をありがとうございました。マスター、大天使、史衣さん、ご参加の方々、関わってくださった全ての存在に感謝します。ありがとうございました!