第9回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiiiiii(夏至7次元8次元特別合同)

こんばんは。
今日ようやく時間が取れたのでレポートをお送りします。


真の光は闇を消さない。
真の光は闇を虹に還すもの。
虹とは色彩環のこと。すべての色を含んだ○、ワンネスの象徴。

この言葉は私が1年ほど前に受け取ったメッセージでした。


今回のナディを受けるにあたって、同情と共感の違いと、1年ほど前に降りてきたこの言葉が深くリンクしているのだということを考えさせる機会がありました。


ナディの前日、いつものようにアートのワークショップに出たときのことです。
普段、決して評価的なコメントを言わない先生から、「あなたはここ半年以来このワークショップに参加していますが、あなたが描く絵の色彩はいつも神秘的です。とても心に響くエネルギーです。
いずれ、アクリルを習って習作を重ねて、展覧会を開くことも考えてみてはいかがでしょうか」といきなり言われたのです。



この言葉はびっくりでした。
まず、このワークショップは、先生が一切の評価や批評をしないというコンセプトのもと、あくまでも参加者が求めた場合にのみ、アドバイスをするということになっていたので、その異例の言葉に驚いたのです。

帰り際、先生が、
「あなたは本当に絵を習っていたことはなかったんですか?あなたの色彩はとても秘密に満ちていて不思議で神秘的(mysterious)です。」
と言われたとき、
「いえ、習っていたことはなかったです。私はいつもこのワークショップでは無意識に描いていますから」
と言った時、ニコッと笑って、
「そう、無意識で描くのがいいんです」
とおっしゃいました。



そう、このワークショップは定期的に自分の無意識につながって自分を見つめ直すという場を提供する目的のもので、私自身絵画技術の向上などを求めるつもりはまったくなかったので、先生にすすめられたことは青天の霹靂とでもいうようなことでした。
帰り際、他の参加者の方から、とてもきれいな色彩だった、癒されたとまで言っていただけたのも、ますます不思議でならないことでした。


他者から認められたいという思いから発して描いた絵ではなく、むしろ、自分の中にある葛藤や悲しみや怒りを昇華させるために内面に向き合った結果出てきた絵であったので、なぜそんな絵が、人を感動させるのかと、むしろ作者である私の方が不思議な気持ちでした。


それは、才能が認められたというよりは、この孤独でごくごく私的な作業(内面に向き合うこと)の副産物でしかないこの絵が、どうして、私の孤独や体験をまったく共有していない赤の他人である人々に「共感」してもらえたのか・・・という、まさに「神秘」でした。


そこでふっと思い出したのは、よ〜く考えると、小学生のころ、本当に数か月という短期間の間、絵画教室に通っていたことがあったということでした。
その絵画教室は、頼んで通わせてもらったところではあったものの、絵に興味のない悪ガキが走りまわったり、それを先生が手ひどく怒鳴りつけたりして、子ども心にいつも緊張していた苦痛な場所でした。さらに、その絵画教室の先生が、色々な個性を認めるというタイプではなく、ゴーギャンのようなトロピカルな色彩の絵が好きだったので、そういう色を使わない限り絶対に評価しないという姿勢でいました(そういう色使いが「こどもらしい」
と思っていたようです)。私はもともと渋い色が好きだったので、私の絵はいつも先生からは評価されませんでした。
あるとき、半ば自暴自棄に、「先生に気に入られるように」と思って、普段絶対使わない赤や紫や黄色をカラフルに塗りたくった絵を描いたところ、その先生は嬉々として私のその絵を絵画教室の前に張り出す「今月の一枚」に選んだのです。
その後ほどなく私は教室をやめましたが、このときの苦い思いがずーっと心の奥に沈んでいたようで、そのワークショップの帰り道、そのときのことを思い出していました。



それは、自分の心に対しての裏切りだったのです。
自分が描きたいように描くのではなく、迎合したということです。

その日の晩、母親にその絵画教室の話をしたら、「なんでそのことをもっと早く言ってくれなかったの!?」と。
「だってお母さんが、お前は絵画教室に通っているのに全然絵が上達しないね、って言ったじゃん。。。」と返答しました。
そう、昔は自分の母に認められるために、自分の心を売り渡してでも頑張っていたのです。


でも、結果としてこの体験は自分を偽るむなしさを私の心に焼き付けることになりました。


それでも私にとって色彩はずっと大きなテーマの一つであり続けました。
ゲーテが色彩論の中で
「色彩は、光の行為である。光の受苦と行為である」
「色彩は光と闇の遊び(相互作用)である」
と書いていたこの文章に惹かれて、大学時代、少し読書会に出ていたのですが、今回のナデイやその前後の出来事を通じて、そのことばの意味が、少し分かってきたようにも思います。


色彩が私たちを癒すのは、それが光(高次元の愛)が、自ら自発的に(好意として)ある限定の中に捧げる(受苦)ことによって、生じているものだからである。
だから、色彩は常に、光の部分と闇の部分の、ちょうどその境(相互作用)に生じる。


なぜ色彩が私たちに与えられているのか。
それは、光が、自らを捧げ、闇に留まっている状態だから。
そして、その個々様々な有り様が、虹として、つまり、色彩環である。


ひとつひとつの色、膨大な色が、色彩環の中に含まれている。
自分の色を探すというのは、そのひとつの中に自分がいると気づくこと。
そして、色を持つということは、光であり闇であることを知っているということ。
喜びも悲しみも、その色にしか分からない。そして、光も闇も、その色の属性である。



闇の部分を持つからこそ、色彩は私たちと共鳴し、光の部分を持つからこそ、色彩は私たちを癒す。


そんな神秘に胸を打たれていたのですが・・・ナディ当日は、むしろ、普段あまりしないような私のおせっかいが原因で、勝手に私に同情してくる人とのメールのやりとりに明け暮れていました 苦笑


ガイダンスでも語られていましたが、同情と共感は違うということですが、言葉の上でも、またついつい態度の上でも同情と共感をごっちゃにしていることは自分も他人も多いのだなと改めて考えさせられたのです。



「あなたは他人の人生への共感がない」
といきなり知人に言われたり、
「あなたのその葛藤は癒さないといけないね」
とアドバイスも求めていないのに言われたりすることがあり、むかむかしていました。



一見、共感して良かれと思ってやっていることのように思える行為が、実際には自分の限られた経験とそのときの感情に基づく投影、上から目線の押しつけにすぎないこともあるのだと感じたのでした。

じゃあ、共感ってなんだろうと思い続けていました。


共感は、そのときそのときの相手の気持ちに寄り添うこと。
それが、自分の気持ちと違ったとしても。
一方同情は、似たような経験をして悲しいと思ったとき、そのような経験をしている人を、「あなたはかなしいでしょう、そうでしょう」と押し付けること。


それぞれ、何が基準になっているのか違うのです。

だとしたら何が必要か・・・それは、マハコハンが言うように、ハートの中に愛を見つける、ということにキーがあるように思いました。


ひとつひとつの色を理解するために、その別の「何か」になりすますことは不可能。
むしろ、自らの色を探っていって、そのたった一つの居場所を色彩環の中に見つけ、虹(色彩環)の世界を俯瞰できるようになることが、真に共感するための素地を作る。


思えば、たった一つの色を成り立たせるために私が負った傷としての闇、そして孤独を、私はずっと避けていました。
それさえ消えてしまえば、私は幸せになれると勘違いしていたのです。


その結果、ここではないどこかに、絶対に私の居場所があると思って、外側にサンクチュアリを探していました。

その旅路で、様々な人に出会い、愛を感じることもありました。
深い感動も、再会の喜びも味わいました。

でも、私の孤独は消えなかった。闇も。


でも、何が変わったか・・・それは、どれほどの孤独や闇も、色彩として、あの虹の世界から送られてくる色として、表現されたなら、その時私は、孤独を消すこともなく、即座に一体感を感じられるのだということでした。
そして、そのとき急に、孤独は祝福なのだと感じたのです。


真の光は闇を消さない。
真の光は闇を虹に還すもの。


それは、色彩の領域から私に送られてきた、大切なメッセージだったのです。


昔、民族紛争を少女時代に経験しているクロアチア人の人に出会ったことがありました。彼女の話を聞きながら、私には、戦争がどういうものか、自分の母語が公式には世界から抹消されるという苦しみがどういうものか、分かりませんでした。
でも、その彼女に言われたことは、「同じ思いをしなくていいんだよ」ということでした。


その当時の私は、なすすべもないと思い、かけてあげる言葉も分かりませんでしたが、今の私なら、彼女の孤独の意味や、彼女がそう言ってくれた意味が、分かると思います。


その当時の私は本当に共感するだけのハートを持っていなかったから、同情だけでつながろうとしていた。でも、私には母語をしゃべれない苦しみを体験したことはない。その状態でフリーズしていた私を見かねて、彼女が「同じ思いをしなくていいんだよ」と言ってくれたのです。つまり、彼女は私が同情しようとしているということに気づいていたのです。


同情は、すべてのものにつながれる共感ではないばかりか、恐ろしいことに、無意識に他者の同情を欲することによって、カルマはつくられているのかもしれないと思います。


「同じ経験をした者にしかこの苦しみは分からない」・・・その思いが、無意識のうちに他者を「道連れ」にしているのかもしれません。
「あ、私だけじゃないんだってほっとした。」という思い。
この思いも、ある段階まではいいけれど、成長してきたら手放さなければならないものでもあると感じました。傷をなめ合うだけで成長を阻みあうことになるかもしれないから。


また、「自分(たち)は『特別に』苦しんでいる」と思い込むことで、別のあり方をしている苦しみを看過してしまうこと・・・。自分の傷を特別視することは、自分を特別視することにもつながると感じました。


マハコハンが語るように一番進化しているこの肉体をもって、苦しみを色々味わう時代(魚座の時代)があったことは、大きな準備だったのだと思います。肉体という共通項を介しての学びだったのかもしれません。でも、水瓶座の時代の共感はそれとは違う。共感は、文字通り喜びも悲しみもすべて共鳴することであり、それは、ハートの次元でのつながりだからです。
それは、虹の世界につながるための入口だったのです。


だから、水瓶座の時代のエネルギーの反することは、自分の真実を生きないこと。
自分を愛さないこと。なのだと思います。
なぜならそれは自分のハートへの裏切りであり、宇宙全体を裏切ることでもあるのです。


ナディの後から、8次元のおおきな色彩環の世界を通って、光の存在たちが、様々な美しい形態をとって、7次元に降りてきているというイメージが浮かびました。そして、その光の存在というのは、さらに降下して私たち、ひとりひとりになっていると。


「私たち」という言葉も要注意です。日頃何気なくこのことばを使いますが、いつも自分に都合のよい「私たち」を使っています。
あるときは、人類=私たち。あるときは、日本人=私たち。あるときは、女性=私たち。
そうやって、私たち、というあいまいなものに寄りかかって、自分を見ることから目を背けることもあるからです。


ほんとうの私たち、は、私、を掴んでみて初めて分かる。
私、を掴みきった状態で感じる「私たち」の感覚と、そうではない「私たち」の感覚は全然違う。
前者はワンネス、後者は分離から目をそらして都合のいい母体を他の存在に押し付けること。


色彩環の世界にまで突き抜けて、自分の居場所を見つけること、それが、私を掴むということ。


ハートに開けている傷は、海を泳ぐための入口だったのです。
それが、どれほど暗くて恐ろしいように思えても、そこに飛び込まないといけないのでしょう。


そのことが分かったら、他者の悲しみに過度に入り込む必要もないし、むしろ、私がもしそういう人を助けたいと思うなら、ただ自分が真実につながって自分を愛していくしかないのだということを理解しました。

いるだけで感化するような存在になれなければ、ほんとうには助けられないのです。

そのことを肝に銘じました。


昔から、自分を助けるより他者を助けようとしていたのですが、それが本当にできるようになるためには、色彩環(虹)の中に自分の場所を見つけなければならないのですよね。そして、それが完全にできた存在というのがマスターなのだろうかと最近ではおぼろげに思います。


またまたレポート提出遅くなりましたが、どうもありがとうございました!

P.S. 気づいたのですが、例のアートのワークショップ、実はナディでやっているにとても近いのです! あるお題が出て、それについて先生が哲学的な解説をしてくださり、それに基づいて1時間ほど絵を描く。その後、皆の前で自分が絵を描いているときの内面の体験を語り合うという時間を持つのです。こういうグループスタディ水瓶座の時代的なあり方なんだなと改めて感じました。