第9回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiii(夏至7次元8次元特別合同)

史衣さま

先日は本当に色々とお世話をおかけしました。色んなご配慮に感謝しています。

やっとレポートができたので送りますね。書き直しがないかしら?(^_^;)

先日は、7次元8次元合同ナディに参加させていただき、ありがとうございました。遅くなりましたが感想をお送りします。(相変わらず長文で、うまく簡潔にまとめられずすみません。)


前日にガイダンスを読ませていただき、ちょっと青くなりました。フミさんの予想されていたような、「わたしたちが、いついかなるときに、どのような力によって変容するのか(ヴァイオレッド)とか 、わたしたちの良心(ブルー)は、いついかなるときに、どのような刺激によって、向上するのか?、またどのように希望を持つことが出来るのか」といったことについて、説明があってほしいと、強く期待していたからです。

う〜ん、でも、これは、私たち参加者の多くが、よほど自分を愛せない傾向が強いのか、そしてそこからの変容を、個々に学んで得ることをよほど期待されているのか?ということでしょうか?(苦笑) (後から実際にみなさんの感想を読ませていただくと、それぞれに必要な受け取り方をされているという感じだったですね。)

どうやったら自分を愛せるのか?という、本当にうんざりするほど繰り返してきた(ぶり返してきた?)自己問答の答えを渇望して、今回のナディに臨むつもりだったので、また焦る気持ちになり、そして、焦っても無駄だというのももう分かっているし、ナディ中にチャネルしなければ何の答えも出ないように思ってしまいつつも、まだまだ真実にアクセスできていないではないか、と恐れを感じていて、ため息とともに始まった今回のナディでした。


前日までに「偏在」について考えていたこと。

神(意識)が遍在であること、それは私自身にとって、これまでも真実たる真実であったのです。哲学的にです。

が!私の頭にはひとつの構図がありました。

ありのままのこの世界に神が遍在であり、世界の本質はワンネスである、と信じることができるのは、ただし、自分という存在を抜きにして、という条件つきでした。すべての人が、今どのように生きていても、その本質は愛である、と。でも、たった一人、自分という存在が世界に参入しただけで、たちまちワンネスの神話は崩壊して、分離の神話にすりかわってしまうのです。なぜなら、私がこの世界で生きるということは、他者が、他者それ自身であるより前に「私にとっての誰か」という立場となり、現実に傷つけ合ってしまう、それはまさに私という個が分離を「経験」することに他ならないからです。「愛されていない」という神話の経験が、たちまち分離の神話に基づいた世界を生み出す。そのくらい人一人の経験は、重い。どんなに幻想だと言い聞かせてみても。

そして、この「愛されていない」という神話の中で、「愛されたい」というエゴで生きようとすると、挫折し、絶望するしかない。しかし、自分ひとり、世界から仲間はずれになり(神に見捨てられる)、自分を犠牲にすれば(他者になるべく迷惑をかけず、出来る限り尽くす)、世界はワンネスの神話を取り戻すのです。みんな、愛されている、私以外は。それでも、分離をエゴの経験として生きるよりは、犠牲の経験として生きる方が、辛うじて絶望せず(ひどい失望も、敗北もせず)に生きることができると信じていました。この世界を愛したいから。自分が愛されていなくても。愛されていなくても、愛したい、それが「犠牲」。あえてルシファーの役割を担って、闇に堕ちるかのように。

でも、自分のエゴを殺すために、愛されたいという潜在的な純粋な欲求までも見捨ててしまった。実は、見捨てたのは、神ではなく、自分自身。そして、愛されていない怒りは増大していきます。もちろん、エゴを殺しきれるわけもなく、エゴは度々主人公になろうとし、自分の欲求を満たすために、他者を、時には利用し、また時には断罪するのでした。そしてまた、自分は悪魔だと、自分を責めます。

(5次元6次元合同のナディの時のガイダンスに、「自分のみが不完全な罪ある存在かもしれない」という恐怖について書かれてありましたが、自分ひとり、と思ってしまう心理を、なぜマスターたちが言い当てたのか、本当に不思議でした。実は、犠牲というものの性質がそこにあるのですね。)


エーテリックな施術の時間に、「犠牲が、どうすれば栄光ある奉仕となれるのですか?」と問いました。

マスターは、私の考えていた構図は合っている、と(笑)。そして、すべきことは、ただ、ワンネスの神話に自分も参入するだけ。そこで分離の神話に生きないこと、愛されているという神話に生きること。そのためには自分を愛すること、だと。それさえできれば、今までの犠牲が、これから最大の奉仕をして行くための種だったと理解できるだろう、と。

で、また、どうしたら自分を愛せるのか、という堂々巡りが始まるのですが(笑)。

「あなたが主人公なのです。

あなたという自己、あなたという愛、あなたという宇宙。

あなたがその主人です。」

そして、そのようなイメージを広げてみるも、まだまだ抵抗している私の自我。

だって、私という宇宙がどんなに広大だとしても、まだ愛せない。(後で気付いたのすが、自分という宇宙が愛せないのではなく、人間界で偏った個性を持って生きなければならない自分が許せなかったのです。)


で、マスターに直接コンタクトして聞くしかない(ぼんやりと浮かぶ考えではなく、ハッキリとした答えが欲しくて)、と、集中するのですが。

チャネルってどうやってやるんだろう、あのチャネラーさんは?そして、フミさんは?

と・・・あ〜、他の人のことは一切考えてはいけない、自分の真実だけにアクセス、だったのでした。

で、「自分を愛せないから、自分の真実にアクセスできないんですけど!!」と、半ばヤケになりつつ雑念を払っていると・・・(そうとう変な状況ですね)

「あなたは、このやり方で集中するのではないのだ。書く時に集中しなさい。集中して書きなさい。(今までもやってきたではないか?) チャネルを合わせるのも、書きながら合わせなさい。答えはそこにある。」

確かに・・・と思いながらも、書く時の難しさ、重さ、にうんざりしている自分にも気付く。

でも上から降りてきてそれをやらされるのなら、もっとスムーズにできてもいいんではないでしょうか?エゴが入らないなら、力が入らず、もっと軽いはずでは?

「あなたは、まだ自分が書いていると思いたいし、そして、その通りでもある。あなたは、実はもっと軽く書けるとしても、まだそれを信じることができないだろう。そして、言葉とは、顕在意識に直接働きかけるものであるから、他の手段より波動が重いのも確かだ。」


半ば納得しつつ、理解できない部分もありつつ、じゃぁ、この残りの施術時間をどうやって過ごせばいいんだろう、と途方に暮れつつ、自分の感情にフォーカスしてみました。

すると、とんでもない言葉が。

「私ひとりだけを、特別に、誰よりも、愛してほしい。」

こんな感情はイヤだ、と思いましたが、それは私の真実でした。心の叫びが止まらなくなった。

愛してほしい。私だけを、特別に。誰よりも。

すると、マハ・コハンが、

「言ったとおり、私は、あなたという個性の中にある、あなただけのための、たった一人のマハ・コハンだ。そして、その私は、あなた一人だけを、特別に、誰よりも、愛している。そして、あなたも知ってのとおり、偏在という意味では、私は、すべての人のためのマハ・コハンでもある。それは、すべての人と同じようにしかあなたを愛していないということではなく、あなただけを特別に愛していることと同時にある。あなたは、そのことを、もうよく理解していることだろう。」

はい、よく分かっているのですが・・・。今回は、とことん抵抗したいみたいです。ここが満たされないと、私は絶対にまたこの地点に戻ってきて、グダグダやるのが見えていますから。100パーセントの真実として信じられないなら、まだ自分の真実にはなっていないじゃないか、と。

そこで、私は、誰にどのように愛されたら満足するのだろうか?と考え始めます。

世の中のありとあらゆる愛、私が受けてきたありとあらゆる愛、想像できるあらゆる愛に心を巡らせてみますが、リアルに想像してみると、どれもどこか不完全な気がしてくるのです・・・・。こんなバカなことってあるのだろうか?

唖然としつつも、この数日間の間に外とのかかわりの中で起こった予想外の成り行きについて、自分がどういう感情を持ったのかを、ふと思い出します。

「誰かに私のことを見つけてほしい。本当の私を。」

また同じ失敗(依存)を繰り返しています。「誰かに」。常に外に求めているんですね。

自分が見つけなければいけない、自分自身を。だから、特別に愛されたいのも、きっと、自分自身に、なのだ。でなければ、他人に、高次に、どんなに愛されようと、それを識ることができず、満たされることがないのだ。

で、またもや振り出しに戻るのでした。


よく分からない。とにかく、今はもっと甘くしてほしい、甘さをください!そうでなければ、逃げます!(逃げるところもないのを知っていていうわけですが。苦笑) 最初の頃は甘みもあったではないですか?新しい世界(クマラ・ワールド?)が新鮮で、たまらなく幸せでした。今は辛いばっかりです。孤独?耐えます。褒められるとか、そういうことを求めているんじゃないんです!自分を愛したい、ただ、それだけなんです!

(この私の堂々巡りを、マスターの方々、楽しんでらっしゃいませんか??)

つまり、信じるとか信じないとか、そういう、言葉の文法とか何かの論法ではなく、ハートが、これが愛だ、私の愛、私への愛だ、と実感すること、が必要なのですね。あ〜、頭のかたい私。

ここまで来て、バカらしくて、笑いたくすらなってきました。(泣き笑い)

そして、高次に対して、理屈っぽいひねくれ少年のようにダダをこねている自分に気付き、あまりこういうことってしたことないなぁ、と気付きました。そして、そんな自分が少し微笑ましいというか、かわいいじゃありませんか?子供のように、本音で、人間という存在、生きるということについて、疑問をぶつけられることは、宇宙にとっても案外微笑ましいことなのでは?

と、ほとんど笑いをこらえたいくらいになってくると、何だかワクワクしてくるではありませんか?

そしてはじめて夏至のディーバたちのサポートを実感するのでした。(おめでとう!と言われている気がする・・・苦笑)

そして、「喜べ!」と言われます。

この、自分をかわいいと思う気持ちから、なぜワクワクする気持ちが出て来たのか、よく分からないのですが、何だか変容という言葉がピッタリな。そして、喜べ・・・!

ということで、しばし、お笑い番組でも見ることにしました(笑)。


でも、まだ愛しているという確信はない。やっとやっと、ありのままの自分を受け入れて、少しは許せたかもしれない。何が愛なのか、まだよく分からないけど、受け入れ、許すことから始まるのだから、とりあえず、安心しよう。そして、不要なものは手放そう。何かを手に入れる必要はない。身軽にすることの方が大事。手放すのは難しいけど、それを今の自分の一番の望みとしよう。愛が分からなくても、今はいい。

で、そのまま数日ボーっとしていました(本当に起き上がれないくらいだるかったんです)。

で、急に普段の調子に戻り、動けそうな気がしました。


しかし、まだネガティブな感情は次々と浮かび上がってきて、以前と変わらず(いや、それ以上に?)こんなにネガティブになってしまうなんて、これまでのトランスミッション・ワークで得てきたものはなんだったのだろう?幻?とまで思ってしまう自分もいました。

そして、暗い気持ちを少しでも払拭したくて、気分転換に神社に行ってみました。

私の真実が宇宙に貢献できる日が来るなら、真実だけを求めます、他の何よりも。

そして浮かんできた言葉。

「ただ、器でありなさい。器を磨きなさい。」

単純でありながら、深い言葉。

「器」とは何者かであろうとするあり方ではなく、それを放棄したあり方。自分であれ、他者であれ、ただありのままを受け止め、映し出すために、曇りなく磨かれた器。何かを得ようとすることではなく、不要なものを溜め込まず、曇りなく透明に近づけて行くこと。

そして、実は器って、その製造過程がアルケミックでもありますよね(土と火のエネルギー)。この時点で、器のイメージが、アルケミー・クリスタルボウルなのですが。(後で考察書きます)


私は何も持っていない(才能とか能力とか知識とか)、とついつい卑屈になってしまう自分を今まで捨て切れませんでした。が、何かを持っていることを権威にしないことも謙虚さであれば、何も持っていないことを恥じないことも謙虚さ。謙虚であれという道徳的な命令ではなく、振りかざさなくていい、恥じなくていい、という許可としての謙虚さ。

そのように、愛することも、愛せよという道徳的な命令ではなく、許可であるはず。私は自分に命令として愛することを課してきた。でも、真実に生きるなら、愛は自ずと溢れ出て、意志すら必要としないのでは?と思う。


自分を許せた、これは真実。では、次は、少し愛せるかもしれない。同じように他者も。

でも、実際に他者と接した時に、やはり動揺してしまう。鎧を着てしまう。その時の自分の感情の真実を見れば見るほど、自分も他者も愛せていない自分に気付く。

愛というフィーリングは、それが純粋で真実のものであっても、マスターの道では、必ず試練として試されるものでもある。そこでいつもくじける私。やっと、愛という種を見つけた。でも、どうやったらそれを世界に持ち込み芽が出せるのか、分からない。

そうした時に立て続けに来たシンクロのような外部からのメッセージ。

「私にとって、ゴールとは、愛です。」(サッカー監督の言葉)

「私にとって、テニスとは、人生です。」(テニス講師の言葉)

スポーツをまったくやらない私には、理解が難しいのだけど、人の本来のパワーが発揮されるためにはある種の法則があり、それに則ってのパワーの発揮が、その人自身を満足させることができる、ということのような気がする。

動けない間に「アトランティスの叡智」という本を少しだけ読んだのですが、三位一体について、「意識、エネルギー、衝動」という客観的な法則であり感情の入る余地はない、というように書いてあったんですね。それもまた真実だな、と思いました。私は、愛されていないから、三位一体を実現できない、と言い訳しても、法則は変わらないんですから。でも、シグナチャーと身体という雛形を誰も等しく備えているならば、誰もが三位一体を実現できる可能性を持っているということでもあり、その雛形(構造)自体がもう愛であるとも思いました。


そして、フミさんの書かれていた、「愛の叡智の女神」「愛の純化の女神」「愛の誕生の女神」の三位一体。二元性を越えるための。

「無意識の深い海」=「あらゆる感情のすべて」から「愛」が生まれてくるということ。つまり、感情がなければ、愛は存在できなかった。だから、暗い感情のすべても愛の誕生のために必要だった。そして暗い感情が愛の源であるということは、やはりそれも「愛」であるということなのだ。


ならば、感情の「純化」よって、自分を許し、それによって愛の種が見つけられたのなら、また純化によって、芽を出し、花を咲かせるはずなのだけど、それは一体どういうことなのだろう?

その頃、テレビの番組で、不時着した飛行機が爆発する寸前に乗客全員が避難出来たという脱出劇のドキュメントを見たのですが、翼部分から出火して機内がパニック状態の時に、乗務員が「落ち着いてください。私たちは訓練されています。」と言ったことで、乗客が我に返って、整然と協力し合って避難したそうです。

説明によると、乗務員の一番の使命は非常時の乗客の救助であり、実際に厳しく訓練されているから、非常時に冷静でいられる可能性も一般の人より高いのは当然なはずだとのことでした。

感情の入る余地のない訓練、というか、感情をコントロールするのが訓練、それが乗客を一番に救うという使命となり、実際に救出できた「愛」となった。不思議に目から鱗でした。

つまり、愛されること、自分を許すことによって自ずと(意志すら必要とせず)見つけ出せるのが愛の種ではあるが、自分を許すという過程、そして、愛の種が実際に愛の花を咲かせる過程には、意志が、「訓練=鍛錬」が必要なのだ。少女の愛と、成熟した女神の愛との違い。愛(生命)の誕生の瞬間に働くのは、自然(宇宙の良心)。それを信頼すること。その宇宙の良心を呼び起こすのは、私たちの、愛への意志。この両方がなければ、私たちは女神になれない。

そういえば、ワークで私たちがやっていること、まさに訓練みたいだよな〜、と(笑)。そして、そのことが「愛の純化」という技なのですね。それにしても、この訓練みたいな過酷さって、一体本当に愛なの?と思うこともしばしばでしたが、感情の純化は、訓練によってこそ可能なのだな〜、と、しみじみと。(後でガイダンスを読み直したら、訓練だと書いてありますね。笑)

フミさんも、女神の三位一体は常に循環していると言われていました。その循環、つまり「愛の純化」の「反復」(←哲学用語的な意味で)によって、愛が鍛錬されて、愛が真実として定着していく過程にやっと入れるのですね。

だから、私たちは、ワークによって、訓練されているのであり、何か動揺する状況に陥ったら、「私たちは、訓練されています。」と唱えてみるのもいいのかもしれません。そのためには、前向きに、能動的に、信念を持って訓練を受け続ける必要があるし、高次からしばしばテストされるのも当然なのですね。

愛の形は色々あるのかもしれないですが、愛されなかった苦しみを受けてきた私たち(人気のない犠牲の道を選んだ?)が、犠牲を奉仕に変えるためには、そういう訓練みたいな過程が必要で、それはある種の特別な(誰もが特別という意味での)喜びとなることも可能なのだと思います。


私たちは、誰もが、もともと高次とともにあった、固有の真実の種なのだ。卵なのだ。だから、自分を思い出せばいいだけ。でも、それは隠されているから、自分で見つけなければいけない。自分を許して、やっと種を見つけることができる。でも、真実に生きるためには、硬い殻を破って再び誕生しなければいけない。種だから。卵だから。誕生するということは、変容するということ。自らの愛への意志と宇宙の良心によって。そこに思いを馳せると、胸がときめく。ワクワクする。愛を感じる。

私たちが自分の運命において「愛されていない」と感じる時は、ただ目に見える不幸に襲われる時だけではなく、出口の見つからない時。問題を打破できる智恵を得たとき、私たちは運命に愛されていると感じ、自分を愛していると感じる。だから、魂に叡智が流れ込む時、私たちは愛を識ることができる。そして、叡智が流れ込むために必要なことは、自分を許す、感情の真実を受け入れる。それから、不要な感情を手放す。叡智が流れ込むスペースを作るために。

そして、三位一体が永遠に循環するということは、私たちは常に、再び生まれると同時に、また新しいより高位の種(しかし、常に自分固有の種)ともなるということ。それが反復されることによって、愛はより真実に近づいていく。反復とは、ただ同じことの繰り返しではなく、同じパターンを少しずつ新しく組み替えていくことによって、上昇し、完成を目指すということ。真実という大地を踏み固めていくという作業。だから、私たちは女神学校やナディで少し悟っては、また新しい殻(壁)に、より硬い殻に、出会う。このことを恐れる必要はないのです。

恐れは、まだあってもよい。でも、恐れを中心にしないこと。恐れを反復してしまったら、恐れの大地を踏み固めていることになってしまう、負のスパイラルに陥ってしまうから。でも、その恐れの中からほんの少しでも愛や真実をつかみとっているなら、次にやってくる課題は以前と同じように見えても、それは新しい種から来た殻なのだ。また再び生まれるための。そのことを信頼していれば、私たちは、諦めずに、恐れを持つことにただ開き直ってしまうだけで終わらず、少しずつでも謙虚に前進していけるような気がする。


女神の三位一体で、私が思い浮かべたのは、真珠です。ヴィーナスが貝殻の上に乗っているから(グリッドでも貝殻が使われていました)、ヴィーナスは真珠なのかな?と思ったのがきっかけですが。真珠が誕生する過程では、自然界で偶然、砂などの異物や外套膜外側上皮が組織内に入って、真珠の核となるのだそうです。

また、オーラソーマを調べていて知ったのですが、ボトルが水の部分と油の部分から成り立っているのは、水というワンネスが個別化するためには、細胞の膜を作るための異物=油が必要だった、だから、生命の誕生のためには、常に相反するもの同士が必要とされる、と。

だから、私たちは互いに異物として存在させられているけれども、ともにワンネス(ターコイズ)から生まれてきたものであり、異物を取り込んで(痛みに向き合う)、新たに誕生(ピンク)し続けて行く者でもあるのだなぁ、と。

そして、生命は海から誕生する。創造性の源である、ターコイズ


しかし、ひとつだけ、ガイダンスの中で気になるけれどもどうしても分からない言葉がありました。

「必ず、虹を越えて」

虹ってなんだろう?プリズム効果で光が様々な色に変換されること(それぞれの個性の美)は単純に理解できるのだけれども、なぜ「虹を越えて」なのか?それが気になったままで、レポートをまとめ上げることができずにいました。

そしたら七夕の前日という今日になって、テレビから「Over the Rainbow」のメロディが流れてきたのです!「虹を越えて」。そのまんまじゃないですか?もしかして?

さっそく歌詞を調べると、

「虹の向こうのどこか空高くに

子守歌で聞いた国がある

虹の向こうの空は青く
信じた夢はすべて現実のものとなる

いつか星に願う
目覚めると僕は雲を見下ろし
すべての悩みはレモンの雫となって
屋根の上へ溶け落ちていく
僕はそこへ行くんだ

虹の向こうのどこかに
青い鳥は飛ぶ
虹を超える鳥達
僕も飛んで行くよ」




あっ、虹の向こうに空があって、空は青いんだ!虹の向こうの国では、信じた夢はすべて現実となるんだ!




青=ターコイズ・・・空の青=海の青。




空と海は、ターコイズという色で、確かに繋がっている!(空海という名前もある意味すごい?)




それを繋ぐのが、虹。




地上に生きる人間が、無意識の深い海に潜ることによって、天と地を繋ぐ虹となり、空=宇宙=叡智=8次元のワンネスの調和へと繋がることができる。そして、人間は自由に空を飛べる鳥となれるのだ。




私たちが虹となるためには、宇宙を完成させるパーツとしての自分固有の色を、輝かせなければいけない。 自分固有の色を輝かせるためには、他人ではなく、自分を生きること。







ナディの直前に、クリスタルボウルのコンサートに参加したのですが、その時、多くの方が「宇宙に行ってるみたいでした!」という感想をおっしゃっていて、そうではなかった私は少し卑屈に感じてしまっていました。私は、ボウルの波動が響き渡るたびに海の底へ沈んで行ってたのです。




でも、もともと海好きな私は、今まで海の中のヴィジョンに哀しみを感じたことがありませんでした。海へと還ることは、自分自身へ還ることのような安心感があったのです。ある意味、世界がワンネスであることは私にとっては当たり前で、どちらかというと、「なぜ個別化されなければいけなかったの?」という哀しみの方が大きくて、ワンネスの意識ではすべて愛だと思えるのに、個別化されちゃったら、もう誰も愛せない、と苦しむ、みたいな。だから、ワンネスの海に還りたいよ〜、と、いつも思っていました。




でも、その時は、「みんな軽々と宇宙に行けるのに、何で私は行けれないの?何で海の底で私だけ独り(独りではなくとも、ある種のオールドソウルというか、人気のない犠牲の道を選んだ私たちというか。)、感情と戦い続けなければいけないの?」と、はじめて海の底のヴィジョンを辛い気持ちで受け止めたのです。でも、辛うじて、「海の底は宇宙と繋がっているはず。だから、本当はみんな同じひとつなのだ。どうやって、それが繋がるのか、まだ分からないけど。」と思いました。そのことを裏付けるかのように、コンサートの終わりに最後に響き渡った音は、一番高い音と低い音の両方で、それは異例のことだったそうです。







その時の、「どうやったら、海の底と宇宙が繋がることができるのか」という疑問(ワンネスの真相)が、やっと今、解けたのです。




虹とは、また、太陽と水が出会うことで現れるもの。




だから、感情に取り組む海にいる私たちは、太陽を見つけなければいけない。虹となるために。虹を越えるために。




要するに、私は、自分の感情に向き合うことにだんだんと疲れてきて、この道(感情に取り組む)を必ず通らなければいけないものなのか?と内心疑問すら感じ始めていたところだったのです(苦笑)。が、やっと再び、これでいいのだと確信が持てたのです。







そして、器=アルケミー・クリスタルボウルという構想は、また新たなインスピレーションをくれます。




私たちが何者かであることを放棄する器としてあるなら、そこに私という固有の魂の個性はどこに現れるのだろうか?



「ワンネスとは、体験に他ならない。ありとあらゆるものとして、存在し体験するということ。」とは?




そして、「個性化しながらも、ひとつであるという認識に完全に全レベルにおいて至ること、それが進化」とは?




器というのが、もしクリスタルボウルのようであるなら、私たちは、すべてを受け止める器でありながら、同時に固有の音=シグナチャーを持つものでもあるのではないか。それは、曇りなき器であろうとすることで、自然と本来の姿・輝きを現してくるもの。




そして、曇りなき器であることで、眼前に現れるものすべて、他者(人間だけでなく、動物、植物、鉱物・・・すべて)の体験をもまた、曇りなく映し出し、受け止めることができる、そしてこのこと自体が、器である私自身のワンネスの体験ともなりうるということではないか。




また、私が私という固有の音(真実)を世界に響かせることで、その響きが周囲に浸透し、愛として返ってきたり、色々なシンクロが起こること。(他者をコントロールして環境を変えようとするのではなく、自分が変わることによって環境が好ましく変化していくことを目の当たりにすること) これもまさにワンネスを体現している現象、ワンネスの体験と言えるのですね。(テクノロジーにおける発明なども、偶然の産物ではなく、ワンネスの現れと言えますね。)




そして、「完全に全レベルにおいて」ワンネスであるのなら、今のこの(自分がまだまだ低いと感じている)私のレベルの体験をもワンネスの体験(よくも悪くも)として尊重してよいのだし、このレベルの中でも、マハ・コハンのパートとして、最大限自分を愛することによってこそ、必ず上昇できると約束されているのです。そして、実は、それをしないならば、私たちは、他にどんなに高貴な意識を抱こうとも、虹を越えることはできないということでもあります。




そうした安心感と、必要な時にちゃんとメッセージをくれている(というか、眼に映るものすべてはメッセージ、という魔女の宅急便のような世界が真実なのかもしれません。笑)高次からの愛に対しての感謝の思いに満たされ、いつになくくつろぎを感じていると、ハートチャクラから、真実という名の聖霊(?)が生まれてくるイメージが湧いてきました。




それは、まったく知らなかった私の真実の姿、ではなく、実は、私が人知れず大切に温めてきた自分の一部のような感じでもありました。




そして、彼女は言います。




「その、身体に閉じ込められた、いつも動揺して感情に振り回されているあなたは、あなたの仮の姿です。本当のあなたは、この私なのです。あなたはそのことを心の奥深くでは知っていたでしょう。でも、あなたがこの私として地上に生きたことは、今まで一度もありませんでしたね。これから、あなたは、この私を本当のあなたとして、この地上を生きることができますか?」





確かに、、私にとって、その真実の聖霊たる私は、見知らぬ私ではないものの、いつも隠されていなければいけないもので、現実の私は、この身体にある自我の私で、感情に動揺してばかりの弱い自分であるのだから、それを現実として演じなければいけない、と思いこんでいたのです。




これからは、このヴィジョンの中の真実の聖霊の方に(あくまでヴィジョンであって、まだ真実の内容はよく分からないですが)、私の身体を、自我を溶け込ませて行くこと、ここから、新た誕生していける喜びを味わい、また、新たな課題(まだまだあるからこそ、なんですよね〜)に取り組んでいくエネルギーも生まれてきそうです。




そして、これまでの犠牲の経験を、感情の純化によって、少しずつ救い出して行くこと。それを、真実として踏み固めるために、少しずつパターンをバージョンアップしながらも、反復すること、何度も新しい殻にぶち当たっては突き破って変容し、新たな愛を誕生させていくこと(実際は、そんな順風なイメージではなく、恐れの中でジタバタしながらも一筋の光を見つけること、そこから辛うじて意識を拡大させていくことを続けるのだと思いますが)。この過程で様々な他者に出会い、向き合って行くことが、ひいては奉仕となり、調和へと繋がって行くように思います。





そして、感想iiiの方と同じように私も、今回は特に、同じくワークに参加した方々とのワンネスを、これまで以上に強く感じました。みなさまのレポートのひとつひとつに、まさに自分に向けられたかのような言葉=叡智を、それぞれ発見したのです。うんうん、そうなんだよね〜、と同感したり、すごいな〜、と感心したりすることを超越した、自分自身に必要な気付きとして、です。みなさま、本当にありがとうございます。




フミさん、そして高次の方々の常なる深い愛にも感謝いたします。重ね重ねありがとうございました!