金星の女神学校≪聖母マリア 観音クァン・イン≫の感想です11

聖母マリア〜観音の感想です。


聖母マリアと観音は私にとってはどうも続き物のアチューメントになっていたようです。


聖母マリアアチューメントの前、複数の本を読んでいたら、どれもそれぞれ関係ないのに、「母と子(息子)の関係」に関する話題が立て続けに目にとまり、あれ〜??と思って注目していました。そのどれもが、「母に先立たれた・母に捨てられた子ども」というストーリーだったのです。


思えば私は聖母マリアは女神の中で一番嫌いでした 笑
なんとなく、うそくさい存在だと思っていました。
まず、「すべての子どもの母親」なんてものが嘘くさいと思っていました。
自分の子どもはかわいいけれど他人の子どもはどうでもいいというような、鬼子母神的な母性が私の中にある母性観でしたので。


でも、前日のガイダンスメールを読んで、マリアもイエスも、複雑なパターンではありますが、それぞれ「子どもを失う悲しみ」「母親に先立たれる悲しみ」「なさぬ仲の子どもと母親」というパターンを経験したのだということが分かって驚きました。


それが、どうやらマリアへの抵抗感をなくしたようです(親近感というか)。


で、アチューメントの当日、やっぱり母親的な存在への恨みは、私の中にあるインナーチャイルドの男の子が抱いていたようだなあと気づきました。インナーチャイルドの男の子というのは、私の中では新しいことにチャレンジしたり企画したりするわくわくするのが大好きな存在。
しかし、私の場合、自分の母親はとにかく私のやることをまずすべて否定せずにはいられないという感じで、やりたいことを無条件に支援してもらえたり、「それっていいアイデアだね!」と言ってもらえた記憶がなかったということです。その結果、新しいことを考えたりチャレンジする(=男性性を使う)よりは、インナーチャイルドの女の子=甘えん坊さんの側面だけで生きていくようになっており、まさに私の心の中のインナーチャイルドの男の子は私自身によって見捨てられたも同然だったのです。


ここ最近仕事で新しいことを企画するような機会が巡ってきたのですが、わくわくするような感覚と同時に、「どうせ認めてもらえない」という自己否定がわきあがっていました。


アチューメントを受けていて感じたのは、「あ〜そうか、母親に認めてもらいたかったんだな〜」という感覚と、「インナーチャイルド(の男の子)がわくわくのびのびできるためには、癒された母性のエネルギーが必要!」というメッセージが来ました。


でも、なぜ「癒された」母性なんだろう?と思っていたら、急に、最近買った外国のエンジェルカードセットの中にあった「大天使の母 ソフィア」という一枚のカードのことを思い出したのです。


アチューメントがくるまではあまり真剣に読んでいなかったのですが、気になったので早速取り出して読んでみたら・・・


「かつて地上には母系制社会が存在していた。その時代、女性性のエネルギーが男性性のエネルギーを凌駕していた。その後、今日まで続く父権社会が到来し、男性性のエネルギーが女性性のエネルギーを凌駕するようになった。それぞれ、他方のエネルギーが一方のエネルギーを抑圧するという経験をしてきた。この記憶は地球の集合意識にたくわえられている。


ソフィアは、創造という行為における男性性による女性性に対する復讐を記憶しているエネルギーである。ソフィアの神話によると、ソフィアはすべての大天使の母親であるが、これらの天使を男性性のエネルギーなしに創造しようとし、創造の神秘を知ろうとする欲求を抱いたがゆえに、自分の恋人である男性性のエネルギーから復讐されたといわれている。その結果、ソフィアは堕落し、地上に置いて身体的苦痛や精神的侮辱を受ける犠牲者となった。

しかし、まさにその犠牲によってソフィアは自分が求めていた宇宙の神秘を知り、それによって再び上昇しすべての天使たちを偉大さと叡智で輝かせるのである。


今日、すべての女性が男性(性)によって傷つけられたという記憶や経験を持っている。しかし、実際のところ、加害者である男性(性)というのは、実際には、かつて権力を持っていた女神を恐れている被害者でもある。この権力を握り男性性に牙をむく女性性の象徴がリリスである。ソフィアは、この女神の暗黒面(ダークムーン)を知る者である。


ソフィアが教えているのは、地球の集合意識が、男性性も女性性もそれぞれに犠牲者であり加害者であったということを自覚して男性性と女性性のエネルギーを和解させることができるなら、人類に創造の叡智と神秘が開示されということである。


今日、加害者としての女性性が特に母親と息子の関係においてカルマ的に現れることが多いということが自覚できたら、被害者意識が解消され、その結果、人類の男性性と女性性の関係性の起源(母系社会と父権社会の歴史)を知ることができるようになるだろう。」と書いてあるではないですか!


特にこの中で私がビビっと来たのが、「加害者としての女性性が母と息子の関係性で現れることが多い」という一文でした。
これは、文字通り母と息子ともとれるけれど、母性とインナーチャイルドの男性性とも解釈できると思いました。なので、あらゆる母子関係のなかで(子どもが女の子であっても)当てはまるのではないかと感じたのです。


母親が子どもに与える影響というのは大きいですよね。家庭などで影の実力者として母親が君臨しているというのは、歴史的に見ても、暴君ネロと母親アグリッパとか、母親が息子を操るという関係性もありますしよく見られるものです。


アチューメント中、に感じたのは、イエスとマリアの物語は、こうした人類が長年にわたって繰り返してきた負の母子関係の癒しというのも含んでいたのではないかなと感じたのです。


そして、その母子関係を癒して初めて、男性性が解放される下地を作ったと。だから、マリアは「癒された」母性なのかと納得がいったのです。


(同時に、自分自身の中にある加害者としての女性というテーマにようやく向き合う準備が出来たように思いました。被害者意識が強いうちは絶対に見えてこなかったテーマです。マリアの剣は三日月ですが、ダークムーンを切り裂く光のようにも取れますね。つまり女神の暗黒面(リリス)を打ち破ってくれるエネルギーでもあると感じました)


エスもマリアも、それぞれ母に見捨てられるとか、子どもを失うという悲しみの犠牲を経ることで、鬼子母神的な限定された母性ではなく、人類全体に向けられた母性を表現しようとしていたのではないかと思いました。


最近読んだ「ウニヒピリ」という本の中で、顕在意識と潜在意識(インナーチャイルド)の関係性は母子関係であると書かれていたのですが、潜在意識とうまくコミュニケーションを取るためには、やはり自分の中の母性イメージが癒されていないと絶対無理なんですね。そうでないと、母親役の顕在意識が潜在意識の声をつぶしてしまうからです。


そんなこんなで、マリアのアチューメントまろ〜んとした優しい雰囲気に包まれて終わりました。


観音のアチューメントは、それとは違って、やや厳しい感じのテーマが来ていました(というか、そういうものを見るだけの準備がマリアで作られたという感じなのと思っています)。


最近「経絡」のことを調べているのですが、その関係である指圧の大家の人の文章を読む機会がありました。
この人が研究と施術を重ねていく途上で、経絡の背後にある「気のからだ」(多分エーテル体のことかな?)の奥に、集合的な邪気の層があることに気付いたときのことが書かれていました。


それは、すべての病の根源とも言える、家系的・遺伝的・また過去生的な負のエネルギーの層だったようです。
その人は、はじめてその邪気の世界の存在を知った時、「経絡で扱っている気の世界の正体はカルマなのか?」と悩んだそうです。
しかし、この方は浄土宗の僧侶でもあるのですが、念仏三昧を通じてあるとき分かったそうです。この人類の集合的な悩みや苦しみの世界というのも、より大きな霊的世界=仏性のエネルギーの一部であると。


そして、仏は様々な能力(6つの神通力)を持っている。修行などで5つの神通力(オーラを見たり、心を読んだりすること、つまりサイキック能力)は身につけられる。でも、最後の1つの力だけは仏にしかない。その力というのは、漏尽通と呼ばれる力で、あらゆる煩悩や執着から解放されている自由な境地であるというのです。


あらゆる煩悩や執着から解放されているというのは、決して煩悩や執着を感じないということではないのですね。知っていて、ある意味味わいつくして、その上で昇華できている(癒されている)という意味であると思ったのです。
というのも、この指圧の大家の人は、音楽家としての一面も持っているのですが、こんなことを書いているのです。


「実は、自分の内側を突き詰めて行かざるを得ないのも、またこれを音楽に表現せざるを得ないのも、自分の心の一部に、自分が存在していることが耐えられないというような狂気の部分があるからです。

・・・ミュージシャンも宗教者も、それから犯罪者や重篤な精神科患者さんも、実はどっちに転んでいたかわからない、そんな違いのような気がします。

いずれにしても、自分の救いを神に求めるか、クリエイティブなものに向けるか、それとも狂気による自己破滅か、あるいは他を破壊する反社会的行為として現れるかの違いです。問題は、与えられた負のエネルギーをどうするかということです。 ・・・・

狂気や苦悩は、結局は救い難いほどの孤独ということでもあるのです。その苦しみの奥にある、自己のうちの内なる聖なる世界、それはすべての人に共通しているはずですから、その世界を認めてもらい、それを他者と共有することで、はじめて自分は孤独から解放されるのです。」


ここで彼が言っている「与えられた負のエネルギー」というのは、それぞれの人がそれぞれのかたちで向き合わざるを得なかった「傷」とも言えるかと思います。
だから「孤独」なのでしょう。
(以前アルテミスのアチューメントで、傷はある意味個性の始まりと書きましたが、傷と向き合う作業は孤独であり、だからこそ静謐と集中力を要するのですね)



でも、その傷を通り抜けなければ「すべての人に共通している内なる聖なる世界」には到達できない。ある意味、傷や苦しみは、この聖なる世界(より高い次元)に向かうための入口なのだということだと思いました。


エスの「貧しい者は幸いである」という言葉は、ここで仏教の言う仏性の心にも通じてくるように思いました。
なぜなら、自らの内に心の弱さを持ち傷を抱えることで、はじめて、この「すべての人に共通している内なる聖なる世界」への入口が開くからです。



ただ、この入口から実際に聖なる世界に至るまでの道のりは、遠くて長く辛い。
自分の力ではどうしようもないものに向き合うということだからです。



そして、自分の力ではどうしようもないものだからこそ、5つの神通力が修行で得られるとしても仏だけが持つ最後の神通力は、修行では得られないのだと思いました。

それは、他力本願というか、恩寵の光を受け取るという形でしか可能ではないからです。苦闘しない、自ら何かしようとしない、というのは、謙虚に自分の限界
を認めて高次元に向かって開くということでもあるのだと感じたのです。


・・・で、そんなことを考えていたら観音のアチューメントの朝、上司に(ある意味腹いせ的に感情的に)怒られるということがありました。もちろん、私の側に過失があってのことですが、だからといってそこまで怒りをぶつけるなんて・・・という内容でした。


私はびっくりしましたが、思ったよりも衝撃を受けず、驚くほど素直に謝ることができました。昔だったら、反論していたところです。しかし、そうしたら、怒りに燃えていた上司も、すっと引き下がりました。


周りの人達はその言いがかり的な叱責を聞いて私に同情してくれました。
この上司は普段から言いがかり的なモードで人を頭ごなしに怒鳴りつけたりする人なのです。しかし、自分に100パーセント落ち度がないということはなく、いつも何かしらゆるされて存在しているんだなと謙虚に思う気持ちが瞬時に湧き上がってきて、上司の怒りを冷静に受け止められたのです。


アチューメントを挟んで数日間、急に航空チケットがチケット会社の不手際で変更されたり、海外からの送金金額が間違っていたりという「他人のミスによる不都合」に出会うことがいくつかありましたが、上司からの怒りを買った一件を含めて、ミスや間違いというものを自分も犯すし、他人も犯す。

そういう関係性の網目の中で生きているんだと改めて確認したようです。


人間として間違わないように努力するとしても、いざうっかりミスをしてしまうことは誰にでもある。
ただ、そういう思いをしっかり受け止めるには、やはり自分がミスをしてみないといけないですよね。



「こんな完璧で正しい私なのにどうしてこんな不幸が降ってくるの!?」みたいな態度だと、どうしても謙虚になって恩寵の光は受け取れないので、そういう意味では自分がミスを犯すことも「幸い」なことであるとも言えるのです。


そうしたら、急に、ここ数か月考えてきたある仕事に、「ビジネスとして関わるか、それともボランティアとして関わるか」ということに関する答えのようなものが降ってきました。


ボランティアという言葉は、自発的な奉仕という意味ですが、ヨーロッパの言葉ではよく「名誉ある」という意味のhonoraryが使われることもあります。
つまり、無給である=名誉を受け取っているという意味なのですね。



しかし、対価を受け取らずにいることで輝く(栄誉)ためには、既に十分受け取っている存在であることが必要です。
つまり、このような栄誉ある仕事を続けるためには、サバイバルの問題がクリアーになっていなければならないし、色々な意味で満たされていることが条件だからです。


例の仕事に対して、ビジネスとして(対価を受け取って)関わるべきか否かという問題を考えてきて、ふと答えを受け取りました。



満たされていないことそのものを否認しないこと。
やせ我慢するから他人の幸福を渇望するし、本当は欲しいのにいらないと否認するから怒りを覚える。


仏だけが持っている神通力は、本当に満たされた結果手放している境地。



だから神を通すことができるし、神に通じている。
その境地に立って初めて、真の意味で「まったく無償で」与えることができる。
それが栄誉ある奉仕という意味。対価を得るのはむしろ自分の闇が濃いから。だからこそ謙虚に受け取り与えられる。


そうすれば、「邪気(闇)」の世界が邪気ではなくなる。
ビジネスの中に身を置くというのは、光にも闇にもなるお金を頂いて生きていくということ。光にも闇にも転じるものの使い方を覚え、その中で適正な価値を見出していくこと。


満たされていないという闇から目を背けたいばかりに他人を救おうとしないこと。


そうすると、他者や周囲への操作になる。
外側の光の世界があれば自分も満たされるのではないかと思わないこと。そうすると、他者を無理やり自分に共感させようとすることになる。



だからこそ受け取ることが必要。自分がすぐに与える側に回れないことも充分自覚すべき。


自分が満たされていないという思いに向き合わずにごまかす手っ取り早い方法は他人に偽りの光や愛を与えること。


なぜなら、自分が優位に立てて満足できるから。


それは、満たされないとあがくよりもむしろたちが悪い。



もっと欲しいと思う自分、傷だらけの自分を見つけることがはじめの一歩。

それを受け容れる。

そしてその渇望に対して自ら与えることを許可し、受け取るからには必ず癒されると信じる。それが謙虚さ。



傲慢に拒否するより謙虚に受け取る。
受け取らないから輝くのも真。
受け取らなければ輝けないのも真。
なぜなら、受け取らないでも大丈夫という状態に至るまでは輝けないから。
しかしそこに至るまでは闇を見つめ苦しい道のり。
でもそれを経験しているから観音は観音として人に寄り沿える。


。。。というような感じだったのです。



思えば、例の仕事で関わっているの人々も、もっとちゃんと受け取ってほしいしそうすべきだと言ってくれていたのですが、今いち自分の心が決まらずにいました。
何より、どこまで関わるか自分でも逃げ腰であったことにも気づきました。


ところが、そうやって受け取れていないと、少しでも交渉に時間がかかったりするとイライラするんですよね。
つまり、どこかで「ボランティアでやってあげているんだから、もっと私に気をつかいなさい!」みたいな心理が働いてしまうわけです。



だから、私はまだまだ完全に天使ではない。
だとしたら、怒りを覚えたり失望するよりは、ありがたく相手から受け取るべきなのでした。そうでないと、あとになってから恨みの感情を持ってしまうから結果としてよくないのです。



そういうわけで、今後は受け取ることを許可していくことで責任と忍耐を学ぶという段階に入ったということも自覚しました。
一見素晴らしいことのように思える「ボランティア」も、結局は完全な天使じゃない今の私では、かえって自他ともによくない結果を生むと感じました。



・・・で、自分の内になる加害者としての女性性に向き合うというテーマですが
・・・、観音のアチューメントの直前、
梨木香歩さんの「エンジェルエンジェルエンジェル」を読んでいたのですがこれがヒントだったみたいです。



この作品の中で、女学生だったころに友人の一人の不幸を呪ったら本当にその子が失敗してしまったという経験をして以来、自分は悪魔に魂を売り渡してしまったと後悔しているおばあちゃんと、その孫が、一緒に熱帯魚を飼うというシーンがあるのですが、そこで、餌少なめにあげた結果、エンゼルフィッシュが他の熱帯魚を殺戮していき、最後には共食いまでして、たった一匹のエンゼルフィッシュだけが残ってしまうという話があるのです。で、最終的にはちょっとした温度調節の失敗でこのエンゼルフィッシュも死んでしまうのですが、このエンゼルフィッシュをおばあちゃんは石をぶつけて厳しく罰するのです。


ところが、この水槽をつくった「創造主」である孫の女の子が、「かわいそうだからもういいじゃない。水が汚れるからと言ってあんな風に餌を少なめにあげた私がよくなかった。熱帯魚なんだから仕方ないよね」と言うシーンがあります。



すべてのものを薙ぎ倒し、最後には醜いまでに肥え太ってしまった=罪を犯してしまったエンゼルフィッシュって、私のことだったのかもしれません。

男性性の暴走の象徴です。

もはや天使でもない単なる魚なのに、天使のフリをしている男性性。

そして、それを石で打ちすえるおばあちゃん=加害者としての女性性の私・・・。



そう思って観音のアチューメントの時に私が祈ったことは、平和であることでした。

そして、天使でもない自分が天使であることを証明するために周りの人間を悪魔に仕立てたり、天使でもない自分が天使であるかのようにふるまって気づかぬうちに悪魔になることがありませんように・・・と。


そんなことを考えつつぼーっとしていたら、急に、「天網恢恢」という言葉が浮かんできました。何それ〜と思って辞書で調べたら老子の言葉でした。


老子の言葉にはよくあるのですが、この言葉も色々な意味に解釈することができます。「天網恢恢疎にしてもらさず」というのですが、意味としては、「天の網は粗いようでいてすべてを把握している」ということです。天の網(天の目)は大雑把なようですべてを把握していて漏れるものはないという意味です。 悪事も善事も、必ず天は見ているよということ。


それと、この部分で大切なのは、人間には裁くことはできないということなのです。
人間には裁く権限はないということです。
そして、天の采配はたとえ人間である私の目にどのように見えたとしても、正しいのだということ。
そう、イエスも言っていることだけど、裁くな、裁かれないためにということです。



とはいえ、この三次元の人間としてはあくまでも目の前にある出来事をジャッジしていかなければならないことだらけです。
そして、そのジャッジがその瞬間において真に正しいかどうかなんていうのは究極的には分からないとも思えるのです。
だから、なるべく他者を許し、それによって自らが犯しているかもしれない罪も許すということしかない。
まったく何一つ罪を犯さずに生きている人間はいないんだなということ。


だからこそ、人のさばきは本当の意味では天だけが決められるのだということ。
でも、こういうイエス老子のような境地にいたるためには、天使ではない自分も経験してみないといけなかったわけです。



この物語の中で、ヨシュア記の一説が出てきます。
これもまた一説ですが、イエスヨシュアの再来だと言われているそうです。

真偽のほどはわかりませんが、それが本当だとすると、とても意義深いなと思えました。


なぜなら、聖書の記述を読むと、ヨシュアは、モーゼの後継者ですが、約束の地であるカナンに辿りついたのち、もともとその土地の様々な場所に住んでいた人々を皆殺しにしているからです。


他の存在を薙ぎ倒して最後の一匹になってしまったエンゼルフィッシュを目の前
にして主人公の女の子の言葉。
「もう、今度こそ何も殺さないよ。もし、私たちが、私たちの正義に合わないからといって、これ殺したら、結局、こいつのレベルと同じなんだよ。それ、旧約聖書の世界だ。私たちは、ここから更に次元を上げる必要がある」


もしイエスヨシュアの再来であるというなら、イエスは、かつて「偽りの正義」によって大虐殺をした経験ももっているということになります。そして、だからこそ、深いレベルで許しと愛を地球に降ろせたのかもしれない。


いずれにせよ、人間である私には計り知れない何かの計画があったのかもしれない・・・。


奈落の底に突き落とすために闇を見せるような高次元の存在はいません。本当に癒された存在は、罰を与えるということはない。
むしろ、守られて愛の中で闇を見せ、そして変容を促すのですね。



そして、そのように愛されたという経験が謙虚さと高次元への畏敬の念を生む。
だから、間違うということも、ものすごく意味があったということなのです。



・・・・とここまで書いた後で、例の新月の前に陰鬱とした気持ちになっていたときにふっと浮かんできたのが「マルデク」というテーマ。
どうやら、木星天王星春分点を通過したこととも関わっていたようなのです。


マルデクは13の月の暦などでは、火星と木星の間にあった太陽系の5番目の惑星と言われています。色々な伝説があるようですが、私がそのとき受け取ったイメージは、「強大な母に押しつぶされる息子」のイメージと「女性によって殺された男性」というイメージでした。



マルデクは、牡羊座(火星)と魚座木星)の間にあるくじら座と、蠍座(火星)と射手座(木星)の間にある蛇使い座ともかかわりがあると言われているそうです。つまり、今回天王星木星が通過したことで、春分点くじら座のテーマと、その裏側にある蛇使い座のテーマが同時に浮上したのかな~と思いました。



そんなことを知人に話したら、「マルドゥクスクランブル」というSF小説を紹介されました。
これは、母ティアマト(くじら)を殺して天地の支配権を握った息子マルドゥクにちなんでネーミングされた架空の都市で、少女の娼婦が自分のパトロンだった男性に殺されかけ、九死に一命を取り留めたところである特殊な手術を受けて超感覚能力と、意志を持つ武器であるネズミ型の生命体を手に入れ、この男に復讐するというドラマなのですが、最後には、このパトロンだった男性が幼少期に母親から性的虐待を受けていたという事実やその後の顛末を知って、この少女の中である種の「共感」が起こり、それまで抱えていた怒りやトラウマが深いレベルで消えていき、加害者と被害者の輪がメビウスの輪のように反転して、少女の怒りが叡智に変化するという話なのです。


春分点魚座牡羊座の間にある意識の産道のようなところですが、そこにくじら座があるというのは面白いですね。母と息子の葛藤劇の神話ですから。


そして、蛇使い座というのは一説では性エネルギーの使い手という意味でもあり、また、太古の母系社会でよく崇拝されていたグレートマザー(蛇の女神)のイメージを帯びています。


やはりその時期に、友人から中国の雲南省の一部族であるモスオ族出身の女性が書いた自伝を紹介されました。このモスオ族は母系社会で有名で、権力を持つ座についているのは女性、様々な裁量権を持っているのも女性です。実は、この自伝を書いた女性は、モスオ族を嫌って欧米社会に移住した経歴の持ち主なのです。

癒された母性というテーマ、加害者としての女性というテーマについて深く考えることになった2つのアチューメントでした。



・・・で、そんなことを感じつつついおとといまで仕事で海外に行っていたのですが、その仕事先で、「私はこの仕事をプロフェッション(お金を頂いてする仕事)としてやります」と言いました。
そうしたら、現地の会社の人、特に社長である女性もすごく喜んでくれたのですね。
さらに、私のコミットメントを裏付けるような高次元からのプレゼントなどもあり、改めて、「ああ、これが足りなかったんだな」と分かったのです。つまり、相手の会社も、高次元も、私がどこまで本気か分からなかったのですね。だから、私がはっきり意志表明することで、すごく前向きになり、加速し始めたのです。


改めて真実を表明することの重要性を確かめることになりました。


セミナー中、グループ瞑想をしているときに、瞑想をガイドしている女性を通じてマグダラのマリアからの力強いメッセージがもたらされました。
改めて、マグダラのマリアのエネルギーの強さには驚きました。とにかくパワフル。


彼女からのメッセージとして、パイオニア(改革的な仕事)であるということに対して勇気づけられ、また同時に自分が孤独ではなく、とても大きなネットワーク(高次元や、また横のつながり)の中で働いているのだということも改めて気づかされました。


自分が思っている以上に自分は守られていた。ということだったのです。
しかしそれは、とにかく自分だけが頑張っていて自力でなんでもできると思う気持ちを捨てなければ分からないことだったのです。


以上です。遅くなりましたがどうもありがとうございました。