金星の女神学校≪観音 クァン・イン≫の感想です5

引き続き、金星の女神学校「クァン・イン」の感想です。

クァン・インについて、ガイダンスを受け取った時にフミさんにメールをしたのですが、その時に言葉について書きました。私は言葉を愛しているなぁ、と。それはある種の予感だったわけで、今回まさに私にとっての言葉というものに向き合わされています。

これまで、私の中の傷ついた男性性は、言葉に魅入られながら言葉の空虚さの罠へといつも嵌っていましたが、これまで私を救ってきたのも、やはり言葉であったし、これからも言葉であり続けるのだろうと思うのです。そして、レポート提出が今回必須であることについて、ガイダンスにあった「言葉にするのが難しいことをあえて言葉にすることが、すでに恵みである」ということ、私が女神学校に惹かれてきたのは、まさに、言葉が恵みとしてもたらされる(読むことと書くことの両方)ことを望んでいたからだったのだと、しかし、これまで、暴走する男性性に任せて饒舌過ぎた私も、今回のクァン・インのエネルギーはまさに言葉で語りきれない、安易に言葉にしてしまっては誤解が生まれてしまいそうな、そのような何かであって、説明するのではなく、すでにそのエネルギーに預かって生きられればもう満足というような感じで、これまでのように、溢れるように書きたいという意欲が湧いてこないのです。また、現実にも、書くという態度においてそれが正しいことなのか試されるような出来事もあり、もともと臆病なのが、さらに臆病になってもいます。

でも、やはり書きたいのです。誰の許しも必要とせず、ただ私の真実の欲求として、言葉を紡ぎたい、言葉にならない何かを、言葉という表現で表したい自分がいる、だからこそ、ガイダンスを読んだ時点で、前もって言葉への愛を宣誓してしまっていたのだと思います。でなければ、やはり、ひるんでしまっていたでしょうから。

パラスアテナまで、自分の感情を深く深く掘り下げると同時にコントロールすることが、今までのネガティブの連鎖から意識的に抜けるために必要でした。が、それまでは浮上してくる課題は常に自分自身と向き合う内的な課題だったのが、聖母マリアからクァン・インへ向かう狭間に、現実に他者と向き合うことを試される課題へと変化し、戸惑いました。さらに、これまでガイダンスに添って、自らの真実に向かって突き進んできましたが、クァン・インのガイダンスには「求めないエネルギー」とあり、私はコントロールの手綱を失った状態になりました。

それは、暴走中の私の男性性にとっては、登る梯子を不意に外されたような心許ない状態で(女性性は辿り着いた!と思っていましたが。笑)、課題となった現実的な試練においても、けっこうショックを受けていたのですが、そんな時こそ、委ねることの本当の意味を知るタイミングでもあったのでしょう。私が必死で求めて必死に守ろうとして来た私の真実は、実は求めずとも、常に存在していたのであって、そこから分離していれば、それは見えなくなってしまう、という、それだけのことなのだ、と。そして、真実とともにあるならば、それを振りかざす必要も、もはやないのだと。試練の中で、自分が犯した間違いもあれば、敗北感もあり、それは認めるしかなかったこと。でも、それは、つまり男性性の傷の収束の印でもあったのでした。

つまりそれは、自分の受けてきた苦しみや、行ってきた努力が真実であり、自分自身がその真実とともにあるならば(自らが愛をもって寄り添うならば)、それを振りかざす必要もないということ。私は、正義だけではなく、苦しみや努力も振りかざしてきた・・・それは私の傷ついた男性性の訴えだったのですね。それほどまでに、今まで私は弁解しながら生きてきました。何か間違いが起こると、それを相手に対してだけでなく、自分の中で弁解することに、ものすごいエネルギーを使ってきました。でも、結局その弁解で自分すら納得させることができなくて、疲れ切って、いつも自分を罪びとへと貶めてしまってもいました。

しかし、私たちはみな観音の種、真実の種を持って生まれてきている。だから、愛すべき価値のないものなどない。弁解の必要などなく、私たちは、もともと許されていて、愛されている。受け取らないことによって尽きることのない宇宙の泉によって。宇宙への信頼、高次への信頼、人生への信頼。(これらはすなわち、すべて自分自身。)信頼は取引を必要とせず、受け取りたいものを受け取ることができるし、与えたいものを与えることができる。尽きることのない、奉仕の循環。

そのように、過去の女神学校より、女神たちとともに、自分の真実を少しずつ掘り起こし、少しずつ磨き上げ、女神たちに少しずつ癒された心で、女神たちに見守られながら、自らその真実に恐る恐るではあるけれども寄り添うということを続けて来たわけですが、何かの拍子に大幅にブレてしまい、やっぱり自分はダメだ!と思うことがあっても、すぐにではないですが、いつか必ずその地点へ戻れるのだ、という信頼感が(だって、女神が約束してくれたもん、的な。苦笑)、ほんのひとかけらでも残っていることに気付きます。とはいえ、そのかけらを辿って元の地点に戻れたとしても、すぐに苦しみが去るわけではありません。自分が真実としてその苦しみにしばらくは寄り添う(苦しみの感情を味わう)必要があります。しかし、不思議なことに、いつしか痛みは消えて(ここに、無意識に「委ねる」という過程があると思われます)、以前より、自分や他者への愛が、少しずつではあるけど、増しているのを感じるのです。(昔の私なら、何かその失敗を上回るような勝利を得ない限り、決して癒されなかった傷が、です。)それは、ただそういう「状態」であるというだけなのですが・・・だから、自分が前より立派な人間になった、とかいうこととは全然違うわけですが、罪や屈辱を感じながら、それらを払拭できる勝利をひたすら狙い続けている状態や、ただ諦めて自分に絶望している状態よりは、はるかに心安らかであることは、間違いありません。

しかも、ただ在る(真実とともにある)という状態は、在るだけなので、在るだけでよく、そのままで満たされているので、コントロールする必要もないのですね・・・この至福が魂の滋養となるのでは。もちろん、恐らく、これからも、何か行動しようとする時、私たちはまたすぐブレもすれば、愚かにもなり、間違いもするのだろうと思います。でも、その滋養を受け取っていれば、私たちには安心して帰ることができる、自分自身という居場所を持つことができるのだろうと思うです。

一方、私は、自分の中の恐れの極限まで見つめ、何が何でもそこから逃げたいと願いもしました。(自分さえ逃げられれば。自分だけ逃れた、という罪の意識を背負うとしても。)実は、それらの恐れから逃れるためにスピリチュアルな道を歩んでいるのではないか?と思ったこともあります。幸せになるために、でも、まずは不幸にならないために。でも、世界で起こり続ける厄災から、自分が逃れられると100パーセント保証されることを望んでいたのかというと、それが自分のエゴだということも薄々は気付いていて、そうではない何か、もっともっと真実たる何か(でも、私にとっての真実である必要がある)を求めていて、その行き着いた先がクァン・インのような気がするのです。

しかし、クァン・インの高貴な光(受け取らないこと)が、近寄り難いほど眩しいのです。でもクァン・インは、真実から逃げようとする私すら、理解して、慈愛を注いでくれる、それもまた真実へと向かうための尊い感情なのだと、知っている(経験している)から。私自身の次に、知っている、と。実は、聖母マリアの感想の時に、自分を一番癒せるのは自分なのだと書いて、ちょっと尊大だなと思ったのですが、やはり、それは私の真実だったのであり、また、そのような高次の存在の謙虚さに胸を打たれもしたのでした。ならば、私に真実をもたらすことができるのは、高次の存在である前に、まずはやはり私自身なのであり(高次の存在は、ガイダンスやエネルギーをくれるけれども、そこから学びを得るのは自分自身)、そのための勇気を、今回受けとって行くのでしょう。いえ、すでに受け取っているからこそ、そう言えるのかもしれません。

だから、人類の悲惨な経験のすべてに私が耐えることはできないだろうとしても、私は私の真実の中に、私の人生を見出し、生きるなら、その中で起こる経験はすべて尊いはずであり、恐れる必要のないもの、あるいは恐れや苦しみを感じようとも、クァン・インと共に必ず乗り越えることができる、より深い愛のための学びであろうから、持つべきものは勇気であって、過剰な恐れではないはずなのです。そのように理解すると、私の恐れの大部分が癒されていくように思います。

そして、真実に生きるとは?

私が今、私の真実だと思っていることは、本当に真実なのだろうか?と問いつつ、フミさんのブログの過去ログを何となく読んでいたら、中に、

「でも、わたしの神話は、わたしにとっては真実です。

そして、現実のもの、それは実はすべて神話です。

ひとりひとりの神話で、存在するすべての神話で

この宇宙はなりたっているのだから....クマラからのことばです。

大切なのは、他人の神話を生きないこと。

もしわたしの神話があなたの神話に

共鳴するようなら、同じ神話を生きましょう。」

とありました。それを読んで、もう演じなくてもいい、それが自分にとって真実である(他人の真実ではなく)ならば、それを生きればよい、それを自分の生と認めてよいのだと、すごく肩の荷が下りたような気持ちになりました。つまり、やはり必要なのは自分への許可なのですね。何だかちゃんと生きているという実感が湧いてきます(何もしていなくとも。笑)。それでこそ、自分の現実を本当の現実として受け止めらるような気もしますし、そこから未来への創造性も湧いてくるように思えます。

そして、、私の傷ついた男性性は(というか、ある種の傷ついた男性性はみなそうだと思うのですが)、「神話」(=ロゴスの空虚を埋めるもの)を演じさせられることに、もうかなり昔から、うんざりしていたことを思い出しました。被害者という神話にしろ加害者という神話にしろ、もう沢山だという思い。あなたは何を演じているのか?とあざ笑われたり(それもまた、実は自分のジャッジなのですが)、自分は一体何を演じようとしているのだろう?と恐れ、ありきたりの神話の中で筋書き通りに死ぬのはイヤだ、と恐れる人生から決別したかったのです。かといって、笑って乗り越えようとしても、現実の残酷さは必ず笑いを凌駕します。結局、何の手立てもない・・・。そのくらい、傷ついた男性性というものは、人間の魂に備わっっている「神話」という部分を巡っては、ロゴスの掟というものに縛られていて、その恵みの方を受け取ることができないのです。あれも、そしてこれも、陳腐だ、あるいは、残酷だ、と。それでも人生に価値を見出そうとするなら、その陳腐さ、残酷さにこそ、人間の美がある、と苦し紛れに論じるしかなかったんですね。(あくまで男性性の方の私ですが。苦笑)

そして、さらに、実は、これまでの一連の学びにおいて、あるマスターからの恵みについて学ぶことは、その恵みを受け取るということでもあるが、その恵みを自らがもたらすこともできるようになることである、と解釈していたのですが、知らず知らず、「恵みをもたらさなければならない」という義務感のようなものも生じていたのです。で、私の男性性のことですから、恵みを十分に受け取る前から、恵みをもたらさなければと先走っては、また無力感に襲われるという、まぁ小さい環の中ではありますが、そういう堂々巡りな葛藤も、実はあったことを告白しておきます(苦笑)。

しかし、今回のクァン・インの理解不能なまでの高貴さを前にしては、そこから学ぶうんぬんよりも、まずもうとにかく自分が受け取るしかないんだ、と、そのためには自分を律することを手放すこと、と教えられ、また、クァン・インが「あなたの次にあなたの尊さを知る者」と表明したことで、私たちは、高次の存在に学びながらも、そこに近づこうと努力して少しでも近づくのが目的なのではなく、私たちがまずそこから受け取り、今度は、私たち自身から湧き出る、愛によって奉仕し、尊さを表現していくこと(=自分自身の神話を生きること)が目的なのだ、と教えられ、そこまで愛され尊重されてはじめて、私の男性性は、やっと一段階解放されたのでした。それでこそ、私たちはそれぞれの奉仕を分かち合うことができるのだ。みんな違うからこそ。

そして、このそれぞれの人の持つ神話こそ、それぞれの人の持つ聖域なのだと。そして、それぞれが違うことを尊重しあえるのは、曼陀羅的に大きな神話にカテゴライズしていくと、最終的な神話「ワンネス」に行き着くからこそではないでしょうか。そういうまなざしで世界を見つめてみれば、あれも尊い、またこれも尊い、と、喜びの中にも苦しみの中にも、陳腐さ・残酷さに回収されない、個性の煌きを、自分の人生にも、他者の人生にも見出すことができるようになるのではないか、と思います。

そして、言葉とは、いとも簡単に人間自身から乖離することもできるものでありながら、実は、とても三次元的な、人間的な伝達法。もっと、高次の世界では、もやは、言葉はいらないはず。いつかその境地へ向かうためにも、今三次元的に、言葉によって、その恵みによって、癒しをもたらそうとしている、それもまた尊いもとなのだ、と思いました。

このような学びに私の男性性が屈服するならば(何故か、屈服、という言葉。笑)、私たちの創造性はどこへ向かうでしょうか?

「遊び心」(!?)

だそうです(汗)

6月に入って、クァン・インのエネルギーが一気に男性性の癒しに向かったようで、今回はそれをテーマにしてみました。

関わってくださったすべての高次の存在、フミさん、ご参加の皆様、ありがとうございました。