金星の女神学校≪聖母マリア≫の感想です5

先日は、聖母マリアとクァン・インの女神学校に参加させて頂き、ありがとうございました。

まずは、聖母マリアの女神学校の感想です。

前日には、久しぶりによく通るところにある神社にお参りをし、ご縁を感じている女の神様の祭られている摂社にもご挨拶させて頂いきました。子安神社という名前の通り、安産や縁結びの神様なんですが、その時は何故かもう一度確認したくなって見てみると、今まで気付かなかったのですが、育児の神様でもあり、何だかその日に来たことが必然のように思えました。

以前同じ女の神様が祀られている別の神社を参拝した時、自分の真実を生きたい、と思い、そのように祈った(コミットした)のです。が、今回は、母としての自分なのだ、と。前回の感想に書いたように、どこか心の奥で、自分の真実に生きるということは、母としての自分を犠牲にしなければ成り立たないのではないかと思っていました。

でも、そうではないのだと。自分の真実に生きるということは、女としても、母としても、真実であることであり、それこそが統合なのだと。でも、今まで、別々のもののようにしか思えないまま生きて来ました。なるほど、男性性と女性性の統合という課題ももちろんですが、こっちの統合の課題もあったのだと。

実は5次元・6次元統合のナディの頃、感想に書こうかなと思いつつ書きませんでしたが、偉大な女性たちのエピソードを取り上げたドキュメント番組をやっていました。中でも印象に残ったのは、自分の命と引き換えに出産した日本人女性でした。そして、もう一人印象に残ったのは、アイルランドの女性ジャーナリストで、麻薬売買がはびこって街が壊滅的になっていたところを、子供たちの未来のために麻薬撲滅を決意し、マフィアのボスの存在をつきとめますが、マフィアに家に銃弾を打ち込まれたり、子供を殺すぞと言われたり、脅され続け、それでも屈服することなく立ち向かって行き、遂には自らが銃弾を浴びて亡くなってしまったのです。が、彼女の幼い一人息子は、母親を誇りに思い、お葬式でも涙ひとつ流しませんでした。その後、彼女の遺志を継いだ社会運動によって、麻薬の売買ルートは完全に絶たれました。

この、子供に命を捧げた日本女性とは対照的な、女性ジャーナリストについての話は、母である身としては、とても複雑な思いを抱かせるものでした。彼女にも、母としての逡巡があったのですが、立ち止まることはしませんでした。それが、彼女が全力で生きる道だったから、です。それは彼女の母としての道にも繋がっていた。息子は母の成し遂げたことのすべてを理解して、その叡智を譲り受け、また愛としても受け取ったのだから。

そして、女神学校の当日、家族でふらりとドライブの行き先が、何故か広島の原爆という流れになったのですが、資料館へ入った時には子供がグズってしまい、全然じっくりは見れなかったのですが、休憩所になっているところで休ませていたら、その近くに展示されていてたまたまじっくり見れたのが、原爆で子供を亡くした母親たちの当時のお話だったんですね。

母親たちの話は言葉少なに淡々としています。子供がひどい火傷を負いながらも命からがら家まで帰ってきてくれた喜び・・・とはいえ、その火傷のひどさを見ればもう長くはないと絶対に気付いているはずなのですが、ただ「抱きしめてあげたら安心して眠った」「お水をあげた」「痛いと泣くので油を塗ってあげた」というくらしか書いていないのです。そして、帰ってこない子供を探して、並べられた夥しい数の遺体を、一体ずつ布を捲っては自分の子かどうか顔を確認する母親の話もありました。

想像するだけで耐えられないのです。想像だけでも、その哀しみや恐怖に耐えられないのに、当事者の方たちはどのようにしてそれを耐えたのでしょうか?耐えなければならなかったのでしょうか?人間という存在は、そのような苦しみにも耐えなければならない宿命が果たしてあるのでしょうか?何のために?その哀しみと恐怖の究極を見つめるために、広島へ来たのかもしれません。平和な時代しか知らない私一人でさえ、想像だけでもその苦しみから癒されることができないなら、いったい誰が癒されるというのでしょうか?

母性とは一体何なのか、分からないまま帰宅し、ふと空を見上げると、三日月と金星が寄り添って、美しく輝いていました。母から、「空を見て!」と電話もありました(笑)

夜、迎えたアチューメントの時間に感じたのは、自分の母親の愛でした(これは意外でした)。母は、とても犠牲的な人生を送ってきて、本人こそその自覚があって、娘である私はことあるごとにネガティブな思いをぶつけられてきましたが、私が母についてずっと信じているのは、この人は子や孫のために命を捧げることを惜しまないだろう、ということ。それだけはなぜか確信を持って言えるのです。しかし一方で、犠牲的な人生であったからこそ、逆に愛する者のために命を捧げることが究極的な魂の昇華なのだ、と無意識にでも結論づけているのだとすれば、そんなありがた迷惑な犠牲はやめてほしい!!そんな押し付けがましい愛はいらない、とずっと思ってもきました。しかし、母のそのような魂のありようの中での私たちへの思いというのを、アチューメント中にはまったき愛のエネルギーとして感じ、私はこの愛を受け入れよう、受け取ろうと思いました。そして、主人の家族の写真を見て、やはり主人の母の息子への愛を感じ、そのまなざしを通して、私自身も主人の愛を感じました。

そして、私は見ていないのですが、イエス・キリストについて描かれた「パッション」という映画について、友人が言っていたのを思い出したのですが、母マリアは、息子イエスがどんなに酷たらしい目にあっていて、自分が何も助けることができなくても、とにかく目を反らさずに見つめ続けていたのだそうです。つまり、母とは自らを子に捧げ尽くすことができる存在であると同時に、子の、その独自な魂の旅路を最後まで見届けようとする、ただひとりの存在でもあり、そのまなざしは、子のすべての苦しみからも目を反らすことなく注がれ続けるのものなのですね。

すべての人間がマリアの子であるなら、マリアの子として、その犠牲からの愛の結実として、またその絶え間ないまなざしの中で、その生を受けているのであり、また、そのことは、現実に母という立場にあるかどうかに関わらず、マリアのエッセンスを持って生まれてきているということでもあり、その奉仕を、まなざしを、世界に投げかけることが可能なのであり、また、それを必要としているマリアの子供たちがたくさんいるのだろうと思います。

田口ランディさんが原爆をテーマに時々書いているので、検索してみると、原爆の生き残りの方が「原爆は人間の恐れの感情の集大成なのです」とおっしゃったと。だから、なのですね。私が聖母マリアで原爆に向き合わされたのは。恐れの究極のところまで降りて行かなければ、ありとあらゆる苦しみが存在する世界で、それを見つめながら、また経験しながら生きなければいけない、という中に生まれてきた自分自身の傷を、癒すことができないのです。そして、生まれてきたこの世界をどう見るのか、見えた世界でどう生きていくのか、この世界で一体生きていく価値があるのか、という真実と向き合おうとする時、人類の悲惨な歴史を無視するわけにはいかないのです。その、世界を見つめるという作業は、どこかで、愛する息子の一生を、その苦しみもすべて見届けたい、というマリアのまなざしと、どこかで繋がっているのかもしれません。

でも、そんな重荷をすぐに背負えるはずもなく、浮かび上がってきた自分自身の恐れに、ただ向き合うしかなかった私は、すっかり自信がなくなって、弱くて、勇気もなければ真実も見えない、という状態でした。今、平和といえる日本で、何とか自分を奮い立たせて生きているとしても、もし、未来に悲惨な経験をしたら、醜く逃げ惑い、恐れの中に身を沈めて、二度と真実の私へ戻れないかもしれない、私の本質が神と同一であるとしても、と。この世界に生まれてきて、これからも生きていかなければならないのに、恐れのあまり、もう一歩も進めないようにも思えました。

でも、なぜ私は強くてはいけないのでしょうか?勇気があってはだめなのでしょうか?たとえ、これまで弱かったとしても。もし、聖母マリアに癒されているなら、聖母マリアの剣によって、私はたった今勇気に満ちてよく、未来にも勇気を持ち続けることが可能なはずではないでしょうか?それが自分のこれまでの現実の中で例外的であるとしても、それは自分が強くあることを、自分で許可していないからなのです。癒しを信じるか、信じられないか(弱さから疑ってしまう)、ではない。癒しは常に私たちに注がれているのです。それは真実なのです。そして、そのことに気付くチャンスとして、女神学校という恩寵を受け取ったのです。であれば、私が癒されることができるかどうかは、自分が癒しを受け取ることを自分で許可するか、しないか、また、自分が自分であることを自分が許可するか、しないか、なのですね(周りが許すか、ではなく)。

人類に悲惨な歴史があり、それがまだ起こり続けるとしても、自分が経験する可能性があるとしても、私はその時の自分自身を生きればよい、そのことは、罪ではなく、許されていることであり、罪を感じるより、生きている私たちが目の前に愛を創造していくこと。そして、そのためには、私たちがまず自分自身を愛することが必要なのですね。

そして自らの苦しみには、常に自らが一番に寄り添うこと。一番に、自分が。自らのマリアとして。その中に自らの勇気、強さを見出すこと。自らがマリアとして、マリアとともに、自分の人生に寄り添い、励まし、喜びも哀しみもすべて見届けること。自分を最大に癒すことができるのも自分であるなら、自分の癒しを最大に受け取れるのも、やはり自分なのです。(それは尊大ということではなく、他者を愛するための、そして他者の愛を受け取るための器も大きくしてくれるのだと思います。)

自らのうちにマリアを見ることで、初めて聖母マリア様の愛に触れたような気がします。それほど、今までマリア様の愛を拒んできたのでしょう。本当に縁がないと思ってきましたから。

しかしながら、この人類の悲惨な歴史について想像力を働かせ過ぎて、恐れおののいてきたこと、共感しすぎて傷ついてきたこと、それもまたひとつの愛からの贈り物なのだと思います。哀しみの理解は、愛の理解でもあるだろうから。そして、恐れの理解によってしか、恐れは癒されないだろうから。

とはいえ、これらの思いが私の中で定着した言うにはまだほど遠く、今回の学びによって、ほんの一滴ずつ、聖母マリア様のエッセンスが私の内側に流れ込んできた、という状態ですが、その一滴一滴が、だんだんと溜まって、細くても清らかな癒しの流れを、これから作り出していければ、と思います。

聖母マリア様、高次の存在、フミさん、ご参加の方々、今回も長くなりましたが、ありがとうございました。