金星の女神学校≪聖母マリア≫の感想です4

先日は、「金星の女神学校」≪聖母マリア≫に参加させていただきまして、ありがとうございました。

エントリーメールの『わたしたちの救いと癒しには、多くの犠牲と愛と統合の結実が働いているのだということ。』の一文を読んで、「犠牲」という言葉への強い拒否感がわき上がりました。


私は7次元ナディを受けていないのですが、『栄光に溢れた奉仕と、犠牲の違い』というテーマでしたよね。でも今回は「犠牲」が語られた。このことに凄く動揺してしまったのです。キリストの供犠やサロメに対するヨハネの供犠を読んでも平気だったのは、かの方々においては、高い意識によって全てが「犠牲」ではなく「栄光に溢れた奉仕」に高められていたのだろうと思っていたからなのです。実際そうなのだと思うのですが、「・・・だからといって、彼らが何も感じなかったわけではないのか?」と今さらながら思ったのです。


☆高い意識の方にも「犠牲」と感じる感情があった・・・??☆

「犠牲」と感じる意識があり、なおかつ「犠牲」になった人。他者のネガティブな感情の奥の痛みを感じとり、共感し許すことは、難しいことではあるが、自分の感情ではないので、ある意味たやすい。しかし自分の感情、感情とは心を揺らすもの・動かすものだから、揺れる大地に立っていることが難しいように、自らの感情の中で動じずにいるのは難しい。感情をマスターするということは、感情がなくなるわけでも、ポジティブな感情しか感じなくなることでもなく、感情に揺らされなくなること。


☆しかしそれって、どういう状態なんだろう?何故感じても揺れないのか!?納得できない。幻だと知っているからだろうか(9次元のナディでの学び)!?☆


真に幻だと知るためには、「幻でないもの」を知る必要がある。故に、今ここの自分を浄化し、内なる愛と真実に辿り着かなくてはならない。そこで幻でないものを知れば、もう2度と幻に振り回されることはない。


上記のようなインスピレーションを受けて、余計に3次元という領域やそこで生きるものが光と影でなりたっていることへの苛立ちがおさまりませんでした。何故わざわざ影を抱き、幻想の中から真実に目覚める旅なんかしてるんだろう、意味ないじゃないか!というような地上全否定状態の後、でもその旅に意味があるor望んで旅に出た自分であるのだろうから、3次元(地上)とは何なのか?何故こんな影を抱えて生きるのか?人間とは何なのか?そんな思いのまま9時になり、≪聖母マリア≫が始まりました。


☆胸が軋むような痛みとイラつきと怒りが湧いてきました。それは、「自分は間違っていない!」という頑なな主張・抵抗のようでした。自分を律して自らの影を排除することで完璧さ(光)を目指した(そして挫折した)これまでの方向性への根強い執着を感じました。☆


光と影のシンフォニーである人間そして世界。今のあなたは影を嫌がり、結果として影にばかり焦点を合わせている故に、喜びがない。光もあるのに、影に比べてまるで価値がないかのような扱いをしている。光と影はフィフティフィフティ。その比率が成長によって動くわけではない。どちらに焦点を向けるか?大切に思うか?その意志・意図・感情・選択・決意、それらがあなたの現実を作り出す。どんな現実を作るか?それが3次元の自由。影は常に在る。影に基づいた現実を作るか、光に基づいた現実を作るか。どちらに「集中」したいのか?


あるがままで光に集中する気持ちだけが溢れている時が、感情をマスターした時だろう。影を抱えながら、光を信じる勇気。聖母マリアの剣を携えた勇者は、地上の天国への集中を切らすことはない。


影は全て光を知るための種だ。3次元では影がなければ光は存在せず、聖母マリアの剣を磨く・作り上げるのは、光だ。影を通してしか、光を知ることはできない。影を昇華することで、初めてそこに光があることを知る。影を通して知る以外の光は、外から与えられた知識に過ぎず、人はそれを信用できない。信じるフリしかできない。光を信じたいなら、光を知らなければならない(体験)。そしてそれは、影と向き合うことでしか得られないのだ。己の中の影に対峙したことのない人間は、己の中の光についても無知なままである。


あとは扉を開くことだけ。光と影の混沌に存在する「地上の天国」の扉(天上の天国の扉ではない)。「地上の天国」の扉は、浄化の末に開くものではなく、あなたが開けると決めて開け、次に開け続けるための集中力・忍耐を必要とするものだ。知識の光では、「地上の天国」に集中できない。体験の光は、混沌の地上を生きる人にパワーを与える。自然な集中力・自然な忍耐をもたらす。


☆ここまできてやっと、≪アルテミス≫関連の記事で史衣さんが語った『わたしたちは、自分の聖域を守っていいのです。 いや、守らなければならないのです。』が分かった気がしました。自分についても他者についても「影が在る」ということを受け入れられなかった私は、「全て愛なのに、守るとは?」とずっとこの部分が理解できませんでした。影を浄化(排除)の対象としてしか認めず、真に対峙して(愛して)こなかった私は、守るべき光にも無知なままだったので、ユグドラシルの守護者としての意識に目覚めようもなかったのです。しかし、「守っていい」のであれば、それが分離・孤立にならないためにはどうしたら良いのだろう?とも思いました。☆


ワンネス意識を知る(体験する)こと。そうすれば、2度と分離の幻に惑わされることはない。ワンネス意識も光と影の関係と同じ。分離を通して知る。個々人が全体の1つの意志によって動いていることを感じ取るにつれて、知っていく。シンクロニシティなど当たり前になる。


他者の影は他者のもの。他者の影と向き合うことは、基本的に出来ない。出来るとすれば、その影を包含する他者と向き合うことだ。他者の影ではなく、他者と向き合う。他者の影からは、自分を守らなければならない。自分を守れるのは、自分だけだ。侵害を許可するのも自分。自分についての決定権は全て、自分が持っている。その責任をしっかり認識すること。


以上のような経緯のあとのアチューメントで、私は「聖母マリアの剣」によって自分の中の影をみることへの「怖れ」をバッサリ切ってもらったような気がします。それによって、私という人間が光と影でできていること。自分の影は、コントロールするものでもましてや消し去ろうとするものでもないのだと気づき、受け入れることができました。私は、とにかく自分の中の影を消し去り、光だけにしたかったのです。善良さ・優しさ・愛情しかない人間になりたくて、ずっと苦闘していました。そういう人間になれれば、苦しみから解放されると思っていたからです。全てのものや人が愛しければ、どんなことが起きようと何をされようと、苦しみも怒りも悲しみも感じずに許せるのではないかと、それが悟りのようなものなんじゃないかと思っていました。


5/12の史衣さんの記事『シュタイナーのご意見』が耳に痛いです。『残酷になる勇気を持たないものが、しばしば残酷な信念を信ずる。』あ〜、その通りです。エントリーメールをきっかけに、私は自分の感情的平穏を保つために、偉大な人々の心は光のみ溢れていると崇めることで、彼らの苦しみに対して不感を決め込んでいたことに気づきました。光を装った影です。


学校翌朝、史衣さんの『なぜ、そのようなものを内面に抱えながら生きてゆかなければならないのか?その答えを知るためにも、わたしたちは、生きなければならない、そして、そのためにも生命を守らなければならない、それが、ナウシカのすべての存在に対する母性愛なのだと思います。』というナウシカの記事(以前のものも含めて)が急に胸に響きだして、ネットでナウシカ全7巻を注文してしまいました。


10日経った今思うのは、感情というものはこの地上を生きる羅針盤のように大切なものであるということ。ネガティブな感情もポジティブな感情も全て、魂からのメッセージであり、この混沌とした世界において、瞬間瞬間の感情のみが真実の道を教えてくれる確かなものなのだということ。そういう意味では感情に善悪はなく、ネガティブな感情も大切。重要なのは、感情と完全に一体化せずに、静けさを保ちながら「感じる」ことなのだろうとやっと納得できました。喜びの生じる方向へ向かえば、求めているものに出会える。でも、ずっと感情を、特にネガティブな感情を怖れて抑圧してきた私は、今、全ての感情が麻痺してしまっているような状態だとに気づきました。「私って、何がやりたいんだろう?」と分からないのです。これから、「感じる」ことに心を解放していきます。


今回も素晴らしい機会をありがとうございました。女神、マスター、史衣さん、ご参加の方々、関わってくださった全ての存在に感謝します。ありがとうございました!