金星の女神学校≪パラス・アテナ≫の感想です4

ふみさん☆女神学校、ありがとうございました。

ふみさんと同じように私も前日は頭が,痛かったのですが、疲れかなと思っていました。
色々な影響があったのかもしれません。


前日は会社の健康診断でしたが、問診の際、先生のちょっとした言葉に私に対する思いやりを感じたのですね。最近までも私が男性に対して頑なな気持ちを持っていたことに気付きはっとしました。

男性が仕事を通して行う社会の奉仕って、こういう優しい感じもするものなのだなと、気持ちが緩み、緩んだ事で自分を一生懸命支えていたものを初めて(改めてかな)意識出来たという感覚で、まだまだ私は自然体でなくて頑張リ過ぎている事に気付いたのです。
男性に自分を女性として意識されて思いやって貰うという場面には、こんな検診の病院の先生くらいしか、遭遇していなかったのですね。

しかし言い方を変えればそんな場面でしか、自分を女性だと受け入れられていない、
どうもその辺は強がってしまうのかもしれません。だから日常生活の場面では、男性の純粋な思いやりの気持ちにさえ気付けないし、受け入れられないのかもしれません。


まさに女性らしさは余裕なのですね。これはサロメですかね。
私自身が与えてもらう事に対して柔らかくないというか、自分が生きることに必死だと、与えようと待っているエネルギーさえも見落とすのかもしれないなと。
受容するにも受け入れる準備が整っていないと、相手にも気付かず、ましてや気持ちを上手く汲み取る事も出来なくて相手にも満足感を与えてあげられないのでしょう。

勿論自分もその気持ちをありがたく、嬉しく感じるチャンスを逃してしまうという事ですしね。
エネルギーを上手く循環出来ればお互いが相乗効果で良い気分に浸れるのだとおもうのです。


与えるよりも受け取る力の方がより、高度なのかもしれません。
どこまで相手の気持ちを受け入れるか、という選択も必要になってきますし、そこの境界線がしっかり引けている人はコミュニケーションに長けていますよね。


確かに今回のエネルギーは今までの女神学校の統合かもしれないですね。私にとっては足りないところを補ってもらったような感じです。

美と音楽というテーマでは女神学校の当日何故かアクセサリーを作っている知人から個展の
お知らせのメールが、また自分の作曲したCDが、発売になったという友人からもチラシが届いたのでした。美とアートな世界にどんどん入りなさいというメッセージとして受け取っています。

さてさてエントリーのメッセージを受け取って、私にとって失敗から学んだ叡智とは何か、どんな事が私へのギフトなのかと考えていました。(そういえば私にとってソフィアやゾフィーという名前は小さい頃からとても好きな馴染み深い名前だったなと思い出しました。
2つは同じ意味なのでしょうか)

私は沢山の欠点に目をつぶってまっしぐらに突き進み失敗を繰り返してきました。
何事も力が入れば入るほど私の思い通りにいったことはなく、私の母譲りの完璧主義傾向はうちのめされたのです。

挫折したり、物事が上手く進まなくなって自分の力が、抜けたときに私は大切な人に会ったり、とても楽しんだ事が記憶として残っているなぁとぼんやりと考えました。


自分の考える思い通りは所詮自分の力量範囲でしかなく、上手くいっても当たり前としか受け取れない訳です。でも思ってもみなかった偶然や出来事だから新鮮だし、上手くいっていないときの友人からのメッセージは謙虚に受け取れるし、その時にこそ、友人のありがたさが身にしみるものですからね。

色々な場面でクマラからのリコメンドを頂いて、それらを総合して考えると私に必要なものはゆとりと余裕ということなのだと思います。
ブログの中で新しいエネルギーの入れ替わりのこの時期に自分の生きる方向性をコミットして
くださいとありましたが、やはりそれに尽きるようです。
本当にそれを獲得するのは私にとってとても難しいものでしたから。今でも・・。

人生を直線的に考えず、行き先のレールを敷くことなく、安心と平和の中にいて流れるように、流されていけばいいのでしょうが、かといって弱い私ですから経済的に不安があるとそれも難しく、その辺の自信をどう獲得していくかは課題です。

しかし進まないときに力づくで修正しようとしても上手くいったためしがないのでその辺はだいぶ力まないようにすると自分で意識して心がけるようになりました。

上手くいかない時こそそれを天に委ね、自分の中の余裕を保つこと、しかし、それは安心の中にいるからこそできることなのかもしれません。平和や安心の中にいるということは揺らぎない自分や天への信頼や自信が伴うことなんだろうと思うのです。
だからこそ難しいのですが。。。

私はクレーム処理の仕事柄、いつもお客さんの怒りを受ける立場ですが、無理難題を要求される事が多々あります。
怒りを静める為にはその要求を呑まなくてはならない、しかしそれは会社として応じる訳にはいかない・・・そんな板ばさみの苦しい場面に何度も遭遇してきました。

出来ない事を上手に伝えれば相手も納得するかもと一抹の希望を頼りに説明に必死になったり、気持ちが焦るとかえって怒りや何とかして欲しいという相手の気持ちが行き場を失い、空回りするのでしょう、お客さんには私に受け取めて貰えていない事だけが、直感的に通じてしまうようで、かえって倍増した怒りをかってしまい、自分の自尊心やら自信まで、踏みにじられるような言葉を浴びせられるのです。

そのたびにどうしたらいいだろうと考えてきました。

女神学校を受け続けてきて、最近、私が何とかしようとじだばたしなくなったような気がします。

どちらにしても私にはその相手に対して満足な答えは出せないのです。
私に出来る少しだけの事は「この程度で怒るんだ!」というようなジャッジを入れないことだけでいいのかもしれないなと思うようになりました。
受け入れようとすると価値観の差が激しいので、無理が生じ、私の怒りがこみ上げてきてしまうのですね。自分の怒りを押さえるのはかなりのストレスになるのです。

ジャッジをせずに聞き、私は理解できないけどという意識は持ちつつ、更にでもあなたはここが許せないのね、言いたい事はわかったというメッセージを出して・・・会社としての対応を
淡々と伝えていく・・・相手を納得させるというような目標を定めるから、または、納得してくれるようにと依存するから自信をそがれたり、落胆するのであって、納得して貰おうと
思わなければいいのだなと。



納得させるというのはある意味支配と似たようなエネルギーを発するのかもしれないのです。




納得するもしないも相手にお任せするようになったら、嫌味を言われても、だいぶ動じなくなりました。
相手の要求通りにしていないのですから、怒られても当たり前になるわけです。
私がイメージしていた女神的感覚でなくてかなり現実的ですが、この状態が自分との境界線を意識して自分の平和の中にいるということかなと思ったりして。


もっとも、お客さんの言っている事が少しでも共感できるような時には出来ないと告げる自分に罪の意識を感じたり、そこを感じ取られて多大な要求を呑まされたりする事もあり、日々、微妙な境界線の引き方を学んでいます。


地上の天国とは何なのでしょう。
今私が仕事上で学んでいるのは、人との関係は競争や戦いの為にあるのではないということでしょうか。
たとえ、喧嘩を売りに来る人がいたとしても、その人の満たされない思いはどこにあるのかを察し、その程度の差を自分と比較しなければ自分がその喧嘩を買わないで済むのです。まだまだ未熟ではありますが・・・。


愛情で満たされている人との関係、豊かさを受け取るのに、きっとこの道は今まで以上の感謝を感じられるようなルートなのかなと思います。

そんなところでしょうか。
女神学校を終えてだいぶ経ちますが、学び中でもあるため、更に難しい局面を迎えたりして凹むことも多いです。
仕事は仕事として割り切れる一方でそれが私生活の事となると難しいかったりしますし。
長くなったので、ここで、一区切りということで感想とさせて頂きます。

ありがとうございました。