金星の女神学校≪アルテミス≫の感想です2

女神学校ありがとうございました。今回は前回ほど、エネルギーを感じることはなく、また当日よりもその前段階で自分の中の怒りに気付けたため、あとは多分ゆったりと癒してもらえたのだと思います。

自分の中に集中するってなんだろう、どのようにすればいいのかと思いましたが、なかなか意識すると出来ず、今回自分のために買った素敵な花で溢れた庭の写真集を眺めながら過ごしました。


エントリーメールの内容を読み、改めて私が幼い時に聖域を侵害されたという怒りが多くあったからこそ、コントロールや依存に奔走されてゆがんだ人間関係の大きな痛手を負った経験が多かったのだなと思います。


私の中の怒りが今まで癒されてこなかった訳ですし、だからこそ、エントリーのメッセージにあった悪魔の誘いにのって、間違った事に使う恐れもあった訳ですが、今まで偏った霊性を使うことがなかったのは、私はそういう方向性のチャレンジの人生ではないからかもしれません。


もともとふみさんからも音叉の際には第7チャクラだけはいつも正常に回っているといわれていましたから、その意味では高次から守られていたような気がします。だからこそ、そこはチャレンジをするようにはなっていない、表立って第六感を使う仕事ではないような、自然にひっそりと自分の楽しい方向への直感を信じればいいだけなのかもしれないと今、とっさに思いました。


いつまでもインナーチャイルド等の仕事をする気にならなかったのも自分の怒りの癒しがまだまだ不十分だと自分で自制をかけていたのかもしれません。


不思議な事に宗教に関しても、キリスト教イスラム教、仏教、等々を幼い頃から親しみ、学ぶ機会があり、家族や友達関係の中で、また仕事で、関わってきた割には自分はそれだけを信じる気持ちにならなかったのです。何にでも神が宿っているという日本古来からある考えや人間らしい神々、ギリシャ神話の方がしっくりきました。


一方で信仰心というのは物凄い集中力によって、大きなエネルギーを発するということ、それだけのエネルギーであれば、願いが叶う奇跡も起こリ得るだろうと思われるようなパワーも肌で感じてきました。良い悪いでなしに、そのパワー故の弊害を感じて怖さが先に立ち、とにかく早くその場から立ち去りたいという衝動を覚えたものです。


そういう体験からも私は形を伴ったもの、人間関係を学びたいと思って生まれたのでしょう。


エントリーメールでの少女のままでなく癒される必要があるということはとても良くわかります。怒りそのものにも色々な原因があって、何の怒りかということを見ないで暴走すると最初の怒りとは違った方向、逆に他人の聖域を脅かす方に自分が加担してしまうような方向に陥りやすいのかもしれません。


また、その怒り自体が自分の境界線を越えられたところで発生してたのですから、自分の境界線ということを意識できないと大人になっても守る事ができないし、新たな怒りをうんでしまうのが今回良くわかりました。


自分の境界線を意識して、守り(=自分の怒りの元をストップして)癒される時、その大変だった経験が人への共感に繋がり、受容出来るようになるのだと思います。
なので、まあどんな痛い経験も無駄はないのだということなのでしょうが・・・・。(そうすっきり片付けられない自分もいますね)


最後のメッセージ、「聖域を侵された義憤を癒すことによって・・・」の箇所は私にとってとても慰めになりました。ほとほとコントロールや依存の入った人間関係に疲れきった
私に自立した者同士の関係性というのは思っているほど、困難ではないのかもしれないと少しですが新たな希望も見えました。


沢山の義憤の経験やコントロールの入った痛い思いをした事で受容出来る器が少しは大きくなったのだからいいではないかと自分を慰めています。


少しでも以前より癒され、成熟して受容できるようになって、もう、誰も傷つける関係性とは離れていきたいなと思っています。それはそろそろ、外に向けるほどの関心を、自分の内側にも持ちなさいというメッセージであるのかもしれません。
この機会にこれから少し心がけたいと思いました。自分の好きな事を人間関係以外に見つけて没頭するのもいいかもしれませんね。

ありがとうございました。