いただいたメールです♪

昨日から入った≪男性性 インナーチャイルド強化月間≫ですが、早速(笑)、男性性の傷が原因の苦しみが湧き上がった時に、起こる事柄全ては愛ゆえであり、自分が目指す光へ辿り着くために自分自身が許可していることであり、苦しみという感情的体験が幻であることを、「大丈夫、愛されているよ」と拗ねた男の子に言い聞かせて、なんとか乗り切りました。その時はそれで「良かった♪未来の自分の成長を信じよう」と思ったのですが、時間が経ち、夜になってから、1つの大きな疑問が湧いてきました。


「何故、生きているのだろう?」と分からなくなってしまったのです。二元論を超えた、全てが愛であるこの世界で、一体何をしたいと思って生まれてきたのだろう?と頭が真っ白になってしまいました。


意識を「高めていく人」と「低いままで人生を終える人」。でも、低いままでいる人が神の意志に背いているわけではない。なぜなら、彼らも神なのだから。高次を求める気持ちは依然として確かだけれど、全てが「分からない!何のために?」という思いで頭が一杯になりました。


11次元のナディで、『自然は、自然のままで良いということではなく、また高い神の意識によって、高められる必要がある』と語られて、凄く新鮮な感覚を覚えたのですが、高めなくとも悪でも罪でもないけれども、高められる必要が神の意図にあるのならば、神の意図は私の意図でもあるはずだから、分かるはずなのに、さっぱり分かりませんでした。創造の遊び?愛の叡智?真実の探求?もっともらしい理由を考えて納得しようとしても、心がピクリとも動きません。私(神の一側面)はそれを知っているはずで、その意図のもとに生まれてきたはずなのに、分からない。何が真実への道をブロックしているのだろう?と思いました。

全てが愛なら、生きる意味なんてないんじゃない?と頭が真っ白になったのは、私です。
全てが愛であり、生きる意味を知っているのは、私もその一部である宇宙です。


はて・・・?と考えていて、やっと分かったのは、今の私の状態こそ、「男性性の傷に染まりきっていること」なのだということです。
優劣も善悪も幸も不幸もないなら、生きる気力(男性性の傷によるエネルギー)が湧かないというのが、今の私が持っている視野の限界なのです。男性性の傷は私にとって、私の中の「拗ねた男の子」というより、私が「拗ねた男の子」そのものだという状態で、私の全てになっていたのです。マスターサンジェルマンおっしゃるところの『あなたはその役割にのめり込み、自分を見失うまでに演じた。』の状態かもしれません。生きる意味を知っているのはきっと、私の中に見出されることを待っている高潔な男性性(マイトレーヤ意識)なのですね。今は影も形も見えませんが。


≪男性性 インナーチャイルド強化月間≫の初日に相応しく、ガツンと自分の状態を教えていただきました(感謝:笑)。昨日に引き続き今日も、また1つ「依存」の形態に気づきました。でも「愛されている」という真実のもと、サロメのリズムで真摯に向き合えば、一歩一歩全ての傷から解放されて自由になることができるとも確信しました。


尾崎豊さんの話題が出ていますが、私は彼の生前、かなり彼の曲を聴きまくっていたにもかかわらず、自分が彼のファンだという意識がなくて、ライブなどにも行ったことがありませんでした。彼が亡くなって、凄く悲しくて、せっかく同じ時代に生きていたのに・・・と、真剣に彼に向き合わなかったことを初めて後悔したのでした(象徴的:汗)。私は何の曲が一番好きかな〜?と今日考えていて、浮かんだのは「失くした1/2」。家のどこかにCDがあるはずなのですが、私も you tubeで聴いてみました。


『ひとりぼっちの夜の闇がやがて静かに明けていくよ』と始まり、『さあ心を開く鍵で自由描いておくれ』『ひとつひとつを暖めながら解っていくことが大切さ』、サビで繰り返されるのは『安らかな君の愛に 真実はやがて訪れる』、歌の最後は『あきらめてしまわないで 真実はやがて訪れる 信じてごらん 笑顔から すべてがはじまるから』。「シェリー」が男性性の傷をあるがまま歌った曲であるとしたら、こちらは、彼の中の女性性あるいは高潔な男性性がメッセージを発信しているような歌でした(「あなたはマスターですか?」と思ってしまいました:笑)。汗を振り乱して歌うライブ映像の尾崎を見ていて、何故か私も泣いてしまいました。


尾崎も歌っているように(笑)、安らかな女性性の愛によって、真実(マイトレーヤ)が訪れるまで、笑顔(あるがままの自分から生まれるもの)で、その時を待とうと思います。強化月間は始まったばかりなのですよね。いきなり濃いです〜。終わる頃にはどうなっているんでしょう?楽しみです(笑)。

いつもありがとうございます。