第8回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiii(5次元6次元統合)

遅くなりましたが、5次元・6次元統合ナディの感想を送らせていただきます。


今回は、ナディの当日は仕事を休みにしてあったので、ガイダンスをじっくり読みつつ昼寝で睡眠不足を解消して(笑)ナディに備えようと思っていたのに、何故か当日になって急に予定外の仕事が入り、仕事中も想定外のこと続きだったので疲れきって帰宅し、ガイダンスも事前には一回目を通すのがやっとでした。なぜなんでしょう、これは。

でもって、事前のガイダンスもものすごいボリュームだし、内容も多岐に渡るので、どこから手をつけようという感じで、慌てる気持ちが膨らんでいました。

しかし、ジタバタしても仕方ないので、アチューメントの最中は集中するしかないと思いましたが、「感じようと努力するのではなく、ただハートを開いて受け取ってください」と言われたような気がしました。しかし、私にとって「ハートを開く」とは「観念する」という感覚に近いのはなぜなんでしょう(笑)


そうして、まず女性性にフォーカスされたのか、私の中でマグダレンホーリーグレイルに対して、「なぜ、今の今まで私の前に現れてくれなかったのですか!」と怒りと嘆きが噴出しました。すごく深いところから感情が湧いてきました。

私は、まさにガイダンスの通り、神に見捨てられた孤独を抱えて生きてきました。「神はいない」のではなく、自分だけがついに誰からも見捨てられたのだ、と。だから「神は存在する」と心から信じていても、自分の内なる神を見ることだけはできずにいました。また内なる神を見ているつもりでいても、それはいつも高慢な偽りの神でいつかボロが出るのでした。女性でありながら、女神に見放されていた深い悲しみが、とめどなく溢れてきました。

するとマグダレンは、「私はすべての女性のもとに、ふさわしいときに現れます。あなたは今の今まで私を待ちました。その忍耐を私は讃えます。私はいつもあなた方を讃えるためにやって来るのです。」と答えられ、「私は今こそ女性性の叡智に、真実に触れたい」と強く願いました。


それから、ガイダンスには5次元部分の「女性は愛に傷ついて男性を軽蔑してきた」というくだりと、統合部分の「男性性として生きた時に女性を傷つけたこともある」というくだりがありましたが、私はひとつの過去生を思い出しました(昔誘導瞑想で見たものです)。

西洋の哲学者きどりの男性で、女性を馬鹿にし、結婚もせず、自己の論理を貫くことだけに満足を感じて生きていた人物です。そして自分の意識に他者が侵入してくるのを拒んだため生涯孤独だったにもかかわらず、「何の汚点もなかった。満足な人生だった。」と言って死んだのです。

今生で女性として生きている私は(5年以上前の話)、その過去生の男性を軽蔑し、「今の人生では女性に生まれてきて、完璧でなくても人とかかわって愛を学ぼうとしている、女でよかった!」と、その偏った男性性を自分はすでに凌駕したかのような気になっていました。けれども実際は、愛を学ぼうとしては挫折する女性性を生きなければならなかったし、軽蔑しているはずの過去生の偏った男性性の轍をも踏んでしまうという有様で、結局自分の女性性も男性性も失敗に終わったような気がしていました。

ガイダンスに従うと、私の女性性をもって、この男性性を許さなければならないわけですが、統合された人格の男性性とこの偏った男性性と何が違うのか考えてみると、この男性は愛を恐れ、愛に伴う負の感情を恐れています。過去、宗教に人生をささげた男性が禁欲的で女性との関係を避けたのは、同じ理由でしょう。そして、そのようなある種の正義のために生きたつもりではあったけれども、それを貫いたのは自己満足のためだけだったので、人生に対して満足だったとは言えても、人生への感謝、喜びが欠けたままだったのです。


それはスピリチュアルな生き方を目指し始めた頃の私そのものでもあり、真実とともに生きていなければくぐれない門(女性性の月を通らずに太陽には辿り着けない)を前に、私は深い挫折を味わいました。最後の砦だと思って挑んだ、このスピリチュアルな道で挫折してしまったら、他にどんな喜びの道があるのかと思うと、その挫折は、生きることも死ぬことも許されないような袋小路だったのでした。

その時の私は他人の中の光を見ることが本当に苦痛で、正直、芸術に触れることも、癒されたり勇気をもらえるどころか、それは他人の才能の開花を目の当たりにすることであるから、どうにも苦痛でたまらなかったのです。スピリチュアルな生き方を目指すために、正義とか支配とかは手放すべきものであると知りつつあった以上、そういった嫉妬の感情を取り繕う術すら失っていたので、そこにあるのはただひたすらな自己否定だったのでした。


そういう経験からして、傷ついた男性性は、私にとって共感の対象ではあるのですが、それを癒すことができる女性性って一体どんなものなんだろう、と思うと、いつも深い森をさまよっているような暗い気持ちになりました。一般的な恋愛法則で行くと、傷ついた男性性に引き寄せられる女性は、愛ではなく依存の対象を求めているだけといわれるし、下手に男性を癒そうと挑んでしまうと、結局その男性に反撃されて、より深い傷を負わされることになるのがオチであるから、幸せになりたければ傷ついた男性性に近寄るなというのが、女性が幸せになるための鉄則であるようなのです。では、傷ついた男性性はいつになったら癒されるのか?と世の中を憂えてしまうのですが、かといって例えば尾崎豊のように(苦笑)自分の真実をありのままに語ることさえできてなお傷ついたままの男性性を、一体どんな女性であれば癒せるというのか?と思うと、それはほとんど不可能なことのようにも思えてしまい、今までの私の人生では、やはり世の中には救われない人間というのは存在するのだ認めざるを得ず、絶望していたような気がします。


そして、選ばれなかった自分・・・私が傷ついた男性性を持つ男性を自ら愛した経験の中では、「選ばれなかった自分」でありながらも、彼を見放さない自分でありたいと思っていましたが、ついには疲れ果てて「見放す」という態度で、報復したのでした。その時、見放された男性性のさらなる絶望感というものを見てしまいましたが、つまりそれは、傷ついた男性性を癒す「女性性」を私自身が手放した瞬間でもあったのです。


こうした自分の中での男性性と女性性の分離、他者(男性)との分離を散々味わってきた身としては、いきなり5次元・6次元を統合とは何とハードルが高いのでしょう!そしてジュアルクールからの厳しい課題・・・

正直、私には無理だったんじゃないか、時期尚早だったんじゃないか・・・という考えがガイダンスを読んだ時から起こっていましたが、ナディの後もその考えが付き纏い、逆に重荷を背負ったような気分になっていました。感想も一体書くことができるのか、上記に書いたようなことの構想はありましたが、それを書いたところで自分の中に浄化される何かがあるのか?疑問でした。数日の間、家族(真実に照らせば、愛の関係ではないかもしれない夫)に対して逆に感情的にすらなってしまい、色々な恐れの感情が浮き上がってきていました。そして、それらを乗り越えるためにはふたつの課題が私の前にありました。

許しのために私は何をすればいいのか?
信じるために私はどうすればいいのか?


その頃、読んでいた本の中にあった、「覚悟はできていますか?」という言葉が印象に残りました。神に捧げる人生を選んだことについて問いかけられた言葉です。

許そう、許そうとして、でもできない、許したつもりなのにまた怒りが湧いてくる。信じたいのに、信じているつもりなのに、どうしても疑ってしまう。そこで立ち止まったり振り返ったりしてしまう。そして、私は間違っていたのではないか?と後悔して、憔悴する・・・

これは自分で覚悟ができていないからではないか?真実の道を行くのに、まさか何の覚悟もいらないわけがないだろう。相手の出方を見てから(許すに値する、信じるに値する結果を出してくれるか)自分の態度を決めようとするのは、自分で自分に責任をとろうという態度ではないし、相手の出方に左右されるしかない自分というのは、常に被害者・犠牲者でしかありえないのは当然ではないか?例えば自分がわが子に向き合う時に、何かの基準に値するかどうか、計る必要があるか?否、無条件の愛をもって、信頼するところから始めるだろう(幸い一児の母であるので)。すべての人間が神の子であるならば、すべての人に対して、覚悟をもって、許す、信じるという態度から始めるしかない。つまり自分に対しても。自分に対して、今こうして生きていることこそが生きるに値する印であると信じるなら、これまでの自分の生き様が許されないはずがない。

ガイダンスの中には、「今すぐ、そうすると決めなさい」という励ましの言葉がちりばめられていました。そう、まず自分でそうすると決めるしかないのです。

(感想iiiiの方とかなりかぶっていて共感しました♪)

そして、それは根拠のないところに建てられた脆い塔の上でなすべき孤高の覚悟ではなく、それが難なくできる根拠となる基礎を、先日のサロメで既に獲得していたのではなかったでしょうか?言葉・論理の先にある空虚に対して、女性性の無条件の愛、聖なる源の音、リズム・・・それらは幻想ではなく、ありありと、そして生き生きと、この世界に存在しているのです。


それから、私はさらにもっと若い頃に、奇跡的に統合された精神の男性に出会ったことがあり、しかしやはり選ばれなかった、という経験があったことを思い出したのですが、私はこの男性に愛されなかったわけではなく、ほんの少しのタイミングから別の女性が選ばれたのです。今振り返ると、その頃の私はまだ子供だったけど、この時の私の魂は、「私は、選ばれた彼女よりももっともっと深く愛を学びたいから、これから真実の愛を探しに孤独な旅に出ます」と決意していたような気がします。そして、その言葉の通り、孤軍奮闘を続けてきたわけですね(既婚であるとはいえ。苦笑)。ですから、これは私自身の望みだったのです。何故か高次への渇望は若い頃からありましたから(シグナチャーを求める動機を高めたかったのですね。笑)。そして彼という存在は私にとってのクマラだったのかもしれません(笑)。


そして今私がすべきことは、今目の前にいる人を、真実の愛に値するかジャッジすることではなくて、相手に対していかに自分の真実を明かして行くか、であるのだと思います(ちょっとまだ怖気づいてしまいますが。苦笑)


う〜ん、このナディはいつの日か男性向けバージョンも行ってほしいような。マスターたちが男性向けにセリフを変えてですね・・(笑)男性たちが女神にメロメロになる日を見てみたいような気がします。


今回も深い学びを与えていただき、これに関わってくださったすべての存在、フミさんに感謝します。この学びを無駄にしないよう、自らしっかりとコミットして行きたいと思います。(宣言してしまった・・・)