金星の女神学校≪サロメ≫の感想です9

女神学校初参加でした。お世話になりました♪

まず、私がサロメから女神学校に参加することになったという流れにも、とても深い意味があったかなと思っています。
私は下弦の半月の日に生まれているので、上弦の半月に初参加したことで、欠けていた半分をまず取り戻す意味があったんだろうと思います。今、満ちてゆく月を眺めながら、徐々に満たされていく自分を感じたいような気分です(満たされたら次のナディが待っているのでしょうか。笑)。


が、エントリー・メールでも書いたのですけど、サロメ実施の告知を最初に読んだ時、サロメが私に必要な要素であると頭では重々と分かっていたのですが、何故かまったく心が動かない自分がいました。そこで、ハイアーセルフに「もし受ける必要があるなら、はっきりと分かる印をください」とお願いしてみました。その後、史さんのガイダンスが次々とアップされても何故か横目で見るだけのような感じのままでしたが、3日前の晩になって、コメント欄で「嫉妬」について書かれているのを読んではじめて、急に心が激しく動揺しました。


 しかもその晩、ダンナ(とても享楽的なヒトですが、今はお金がないのでおとなしくしている)が、急に社長と同僚に誘われたとのことで、どうもただの飲み会ではない様子。まぁ、確かにたまには女の子のいるお店に行くことを許容はしていたけど、年に一回あるかないかなのに、なぜ今日なのか?サロメのお試し?という考えが頭を過ぎりましたが、一応反対しつつも、流れに任せて行かせることに。

すると、ほんの一時間ほどで帰宅してきて言うには、中国人女性がマッサージしてくれる店に行ったとのこと。時間延長するとアヤシイ行為も可能というところだったようで、こちらとしては何もなかったという言葉を信じる根拠もないわけですが、何と驚いたことに、その女性が私と同じ名前を名乗ったというのです!(中国人なのに?笑)男性はこの手の奇妙な偶然には踏み込めない気の弱さがありますよね(笑)。というわけで、本当にただの笑い話で終わったのですが、この高次の計らいのユーモアが、私にとって近寄り難かった、サロメのテーマである「官能性」の壁をちょっと崩してくれたみたいで、さっそくエントリーしたのです。


そして迎えた当日。9時頃から額に激しい圧迫感が続き、ほとんど物を考えられない状態でした。頭で考え過ぎていた証拠かな〜と気楽に構えていましたが。突如フリーダ・カーロという女性画家の名が浮かんだけれども、後で考察することにしました。



思い起こせば私は、自分の中にサロメ的リズムがないことを物心ついた時から自覚していて、それがまるで身体的欠陥であるかのように感じて生きてきたように思います。それが具体的な、物理的ではないものであるがゆえに、それは心の欠陥にも繋がっていたのだと思います。だからそのことがバレないように、と取り繕って生きてきましたが、分かる人には分かってしまうのです。でも自分でどうすることもできずに、こんな歳まで生きてきてしまったと、歳をとるほど不安が広がっていました。


そして過去について思い出されたのは、意外にも、私に関わってきた男性やサロメ的女性への恨みや憎しみや嫉妬ではありませんでした。忘れていた人々の記憶まで隅々を辿ってみましたが、むしろすべての関わりが当然の成り行きであったように思えました。ギクシャクした仲や、どちらかが求めても得られなかったような関係にも、そうなるような互いの心のブロックが厳然とあり、私たちはただそれに従ったのだと思うし、調和から程遠いそうした関係性に対しての互いの気まずさよりも、結果の必然性の方が勝っていたと思います。
ただ、自分が越えられなかった壁や、受け入れすぎてしまった境界の甘さがどこから来るのだろうと思うと、自分がサロメのようになれないと宿命のように自覚していたからであって、それは女性的でないという資質はもとより、根本的に身体的存在としての自分を認めていないというすさまじい自己否定だと気付いたのでした。女であること以前に、人間として存在することを自分に認めていなかったのです。だからこそ、女として生きられれば、人間としても生きられるのでは?という逆転的な発想で、独身時代は奥手と称しつつ恋愛に挑むことは挑んでいましたが(苦笑)。


そして、というかだからこそなのか、サロメ的女性に対して、嫉妬するよりもその美を讃えたいというのが本音であって、身近に捻じれた心象のサロメ的女性もいたことがありましたが、捻じれた心の奥の純粋なサロメをやはり讃えたく、ただ、それは自分が身体的存在として彼女たちと同時に存在していない、という場でのみ可能なことなのでした。つまり、自分の存在をこの世から度外視して、無視するしかなかったということなのです(適当に標準を合わせることはしましたが)。だから、世界の美を、人生の美を賛美しようとすればするほど、私の身体は隅に追いやられて行き、苦しくなっていたのでした。そこには嫉妬よりもさらに深い絶望的な悲しみが横たわっていたのだと思います。


11時からのアチューンメントでは、魂の深い深い部分が静かに湧き立つのをただ感じていました。そして身体にも深く作用したようで、風邪の症状が。メッセージとか聞こえるかしら?と思いましたが、全然でした(笑)。


さて、翌日から、天を信頼して、さして自覚はないにしても「私はサロメです」と暗示をかけて行動してみると、きっちりとセンタリングされた平静な感覚がありました。そして、今までの自分の身体的に心許ない感覚がいかにつらいものだったか、改めて気付いたのです。集団の中へ入っていくと、常にただそこに自分という存在があることの恥ずかしさを感じていたのですね。何をしても、話をしても、言葉に書いても、歌を歌っても、食事をしても、それが身体的存在である自分から行為されるものである限り、それは何かの恥ずかしさをともなっていたのでした。人間の身体的行為のすべてが性に繋がり、快感を求めるものだとすれば、性を否定することは人間の営みのすべてを否定することでもあるのですね。


ですから、サロメとは人間の中にある女性的なリズムであるなら、それは男女の別なく必要とされるものなんでしょう。特に女性性にフォーカスして言えば、それは男性に見られ崇められて成り立つのではなく、ただそれとして在ることの十全性の中にすでにそれはあるのだと、見られるということは二次的なのだということです(ディセンション的な意味では。アセンション的にはさらに高度な統合への架け橋ともなるのでしょうね)。そのことを頭では理解していても、自らのリズムが空虚であるために、見られる(または自分で自分を見る)ことをやめることができず疲れ果ててしまっていた自分を、そのリズムを取り戻すことで、やっと救って行けるスタート地点に立てたのだと思います。


そしてフリーダ・カーロは、溢れんばかりのサロメ的魅力を湛えた女性でしたが、痛みに封じられた身体性が、彼女の中のサロメを喜びではなく痛みの方へ共鳴させてしまったのが彼女の悲劇だったのだと思います。少し検索して辿ってみましたが、彼女の絵は女性性の闇を赤裸々にさらけ出した表現していて、それは男性はけっこう直視できないものだとありましたが、まさにヨハネのような男性こそがそれが可能なのだろうと思いました。しかし、彼女の愛するディエゴはヨハネにはなれなかったために、彼女は身体の痛みこそが心の痛みを救い上げる供犠であるかのように、女性としての人生を痛みに犠牲にし尽くしながらも、その闇に深く深く落ちながらそれらをさらけ出すことで、あらゆる女性性の痛みを救い上げ、その身の痛みをもって奉仕したマスターとなったのではないでしょうか?(今のこの時代にこそ、この皮肉な生き様にこそ私たちが救いを見出すことで、新たなるマスターが見出されていくかもしれないです。)


なぜなら、頭と身体がバラバラのサロメは皮肉にも頭と身体が切断さえれたヨハネの首を供されましたが、三次元のヨハネではない、愛という全存在としてのヨハネをその死を供犠として得たのだという新たな見解を、フミさんは呈してくれました。つまり外の世界にヨハネを求めるのではなく、自らのうちにヨハネを見出さなければいけないのだと思います。自らが自らの痛みを救うヨハネとして。(熟成してきましたでしょうか?笑)


そして、熟成味噌についての考察ですが(笑)、私は自分の中の「純化されない処女性」(←勝手なテーマ化です。笑)について、実は長年悩んできたのです。リズムが備わっていないということは、経験をいくら積んでも身体にリズムが刻まれない、つまり経験がこなれて行かないということなのです。歳とともに人間として熟成して行きたいのに、常にたどたどしさがつきまとっていたのはこういうわけなんだと・・・ちょっと唖然。これからはひとつひとつの経験を身体に刻んで、人間として熟成して行けたらいいなと思います。そして、水のようにすべてを執着せず流して行き(つまり尊大にならないこと)天に巡らせることで、また自分の魂に真のエッセンスとして帰ってくることを信頼すること(ケルビムの雲ですね。何だかまた熟成されたみたい。笑)。もちろん、熟成するだけが年の功ではなくて、純化された処女性ならば、そのペアとして素晴らしい資質になるのだと思います。


今はまだそのような考えに身体も心も追いついていないと思いますが、信頼と安心感の中で、まずは鎧を外し、ありのままのたどたどしい自分を受容していくことで、表層を少しずつはぎとって行き、自分の本質に近づいて行きたいと思います。
フミさん、高次の存在の方々、他のご参加の方々に深い感謝を捧げたいと思います。ありがとうございました。