金星の女神学校≪ヴィーナス≫の感想です2

女神学校の感想


涙になって、いっぱい流れていっています。この愛の学びは頭ではムリで、ことばで語るものでもないかもしれません。


史衣さんの関連記事から〜
苦しい恋に落ちることを上手に避けて歩んできた人は、真に愛を与えることが出来ません。
そして、いつまでも未成熟なまま、相手に求めることしか出来ません。これは、実はその本人が一番辛いのです。



そういうことだったのだな、と納得しています。自分では、そんなつもりもなく無防備に寄り添っていった相手と苦しい恋になって、相手も苦しかったのだとおもうのですが、それが、恋であったとふたりとも認めることがやさしくはない状況下で、その恋を隠すために、お互いにたいして、周りに対して、欺瞞につぐ、欺瞞合戦!サル・カニ合戦。


「真に愛を与えるため〜〜」に、こういうことになったのだ!とわかりました。相手からはたいせつなことをたくさん、教わりました。自分のなかの欺瞞もいっぱい、みました。


真実は、愛したい、愛されたい、です。そのことにすなおになっても安全なのにそんなこともしらずに生きてきました。


「未熟なまま、相手に求めることしかできない〜」  お互いに求めあっているから、取り合いのようになってしまう。お互いにあたえあえば、取り合いにならないのに。



恋の醍醐味は、猿カニ合戦が終了して、ゆるしあって、相手の自由を認めるところまでに成長できることだとわかっていたのに、新たな相手と恋をすると、また同じ蹈鞴を踏んでしまう。それでも、最終的な真実は、「愛していた」「愛されていた」ということではないかと思います。


カニ合戦で別れてしまうと、ほんとうの愛にまで昇華させることを経験せずに未完で終わってしまうので、次の愛の次元がみえないのかもしれません。



20代の恋がわたしの中で完璧に昇華されるのに、20年かかり、その苦しさからはじめて“神”に祈りました。そのとき、相手の魂と私の魂は、光の玉となってらせんを描き天に昇っていきました。それが、わたしの20年間かかった初恋の終わりでした。20年間のなかで傷つけあい、
たくさんの許しと癒しを必要としていました。じぶんではゆるせなくて、それでもゆるしてじぶん自身を解放したくて、大きな愛の力を必要としました。本気で、彼との過去も自分の過去も天に返してリセットしたいと願って祈りました。そして、奇跡がきました。その20年間の関係の一番の恩寵は、わたしに「神に祈る」ことに目覚めさせることでした。それまで、じぶんでどうにかできる、じぶんでコントロールしたら上手くできる、ということで天に向けての信頼を持ったことがなかったのです。


恋というのは、ほんとうはそのくらい時間のかかる愛をまなぶプロセスなのかもしれません。
もしかしたら、20年どころではなく、過去世からの長いプロセスなのかもしれません。



今回は、最近の恋の傷を手放そうと思って女神学校を申し込みました。
20年の恋の傷を癒しているときに出会った男性と同じような、もっと苦しいことになりました。
20年かけてじぶんの愛が成長していたぶんだけ、新しい相手との愛も最初から大きく純粋なものでした。だから、お互いにそれは魅力があったと思います。しかし、恋を避けようとして、不自然なことをしたために、20年かけて学んだことのダイジェスト版、短期決戦型のようなドラマが展開してしまいました。
じぶんでは避けたかった関係でした。避けようとして、史衣さんのコメントのように↓


{過度に道徳や誠実さを盾にすればするほど、わたしたちは、危険な落とし穴に突き落され、最終的には、隠されていた自分の暗闇を見ることになります}


ということで、危険な落とし穴にはまり、隠されていた自分の暗闇を見ることになりました。




女神学校を受けて、たくさん、痛いものが、過去世のような映像とともに解放されていきました。彼と私の魂の共同作業での学びがまだ終了したとは思えないのですが、それというのも、愛と叡智を掴みとれていないからです。そこにあった大きな愛を受け取るだけの準備もまた、わたしにはできていないようです。


恋を恋として、純粋に楽しめたならば、また違った展開になっていただろうと思います。


手放したくはない相手への執着は、たぶん、じぶんの中のインナーチャイルドの痛みかもしれないなと思います。同種のインナーチャイルドの痛みをもつものどうしが、惹かれあい、傷をみせながら、癒すために出あう。だけど、痛いから、また防御して戦ってしまう。


わたしは理想の頼りになる、甘えさせてくれる父親を今でも求めているのですね。



結局、インナーチャイルドの癒しにじぶんが向かわないかぎり、何度、相手が変わっても、求め続ける、という飢餓状態は癒されないようにも思います。そして、インナーチャイルドのきずというのは、魂の深みにきざまれていて、もしかしたら過去世の恋の傷を持ち越している可能性もあるし、となると、恋、インナーチャイルドとわけることなく、「愛」へ無条件にハートをオープンにしていく障壁となるものはいくつもあるのだろうなと思います。その傷のありかを道しるべのようにしめしてくれるのが、恋の相手なのかもしれません。


だから、やはり、出会ったことに感謝なのだろうと思います。(かなり強がって、おりこうさん、に書いています。)ホンネ、はですね、とび蹴りーーーーーー、 でも愛してる、ですね(笑)




女神学校感想追記


今日、突然、痛みは快感だとうガイダンスが、腑に落ちて、そのとたん、ハッピーになってしまいました。この真理を掴みたくて、掴みたくて、ずっと痛い関係を甘受してきましたが、やっと理解できました。なぜ、痛みをあたえるとわかる相手に執着していたのか。


快感だったのですね〜〜。痛いのに甘い、その関係が。わたしにやさしくしてくれない人にどうして、執着するのか?


それはウラをかえせば、見方をかえると人の残虐性のような部分にもなりえる人間の本性の部分なのでしょう。だから、傷ついている人を助けるのではなく、追い討ちをかけてさらに傷つけるようなことが世の中では起きてしまうのでしょう。それで、人の不幸は蜜の味とゴシップが絶えないのだとわかりました。


それはじぶんの中にも痛みー快感というものがあって、依存症もそうですね。そのことがわかると、痛みを選んでいる自分が見えました。だから、いらない!という選択も自由にできることがわかります。


まだ、つかめないけれど、イエスの十字架の磔刑と苦渋による救済も、このあたりの1枚のコインの裏表のような”苦しみは喜び”という真理に答えがありそうに思えます。そして、その片方だけをとることなく、両方をとる、または、くるくると回転するコインのように片面ずつ、交互に楽しむ。


ということは・・・・過去の痛い関係、自分の設定ひとつで、快感の強い関係であったというふうに書き換えも可能なのかもしれません・・・・いまひとつ、気づきが鈍いですが・・・痛いと思っていたことが、実は快感であったと思いなおすと、過去の恋はとっても甘いものに変っていきます。それが、癒しで真実なのかな?