≪ドラゴンテイル考≫



上のひつじさんは、昨日メインテナンスの帰り、自分を慰めるために買ったもの、やってもらっている最中に、(前から目をつけていた)あのぬいぐるみを、やっぱり自分に買ってあげようって思って、帰りに寄って買いました♡



今、このタイミングで、シュタイナーの、仏陀イエス・キリストの関係性についての本を読んでいるのも、何か関係しているような気がします。とても難解なのですが、ええ〜!っというようなチャネルの情報との一致があって、何か、自分としては腑に落ちる内容です。



その中の一節に以下のような文章があって、とても、なんというか、やっぱりそうなんだよな〜という感じが強くしました。


「苦痛を癒し、苦悩を救済しようとするなら、辛酸をなめつくさねばなりません。
そうしてはじめて、人々に語りかける正しい言葉を見出すことができるのです。」

これは、仏陀と、イエスが、そうであったことについて触れているのですが、

「普遍的な人間愛を告げるものは、あらゆる血縁関係から離れた状態を経験できる存在のなかに受肉しなければならなかったのです。この、霊の高みから下って、人間的な経験、苦しみを表現した存在にわたしたちの感情を向けてみましょう。わたしたちのこころは、その存在に結びつきます。霊的に理解すればするほど、その存在をよく理解できます。わたしたちのこころは、この存在に向かい、わたしたちの魂は、この存在に歓呼するのです。」


12次元ナディのチャネルのなかで、「≪熾天使の次元≫から下降した存在たちは、もっとも困難な下降プロセスを選択した」というのと、一致するなと。


でも、昨日のドラゴンヘッドに飲み込まれたときは、やっぱり、「辛い、恵まれない環境や経験」対して、負けそうというか、どうしてこんな経験しなきゃいけないの、乗り越えられないのに、他の人は、もっと楽そうなのに(他人の芝生は、青く見えますので)、という気持ちになっていたわけです。


シュタイナーは、ルシファーの影響が入ったタイミングは、地球から月が分離したタイミングであるとしています。つまり、天体が、太陽と月と地球となったタイミングでということですね。このこともドラゴンヘッドとテイルの言い伝えと関係があるような気がします。



ドラゴンテイルの根本的な象意は『純粋さ・精神性の高さ』、また『貪りのなさ・囚われのなさ』 とのことでした。これは、やはり、ドラゴンヘッドと対になってのことだと思うのです。欲望を嫌うのではなく、むしろ、『飽くことのない貪欲さ』 に真に苦しむからこそ、そこから救われたいと思う願望が生まれる。



やっぱり、どんな経験も失敗も、そしてそういう自分も愛することが、たぶん救いなのでしょう。
で、そういう力や、助けや、愛をもたらすために、高次の仏陀や、イエスのような存在は、下降するのです。


わたしが、聖書をよく読んでいた十代のころ、旧約聖書詩篇が好きでした。苦しかったその頃によく読んでは慰めを受け取っていました。昔は暗誦できたくらい、笑。



「主は、わたしの羊飼い

わたしには、乏しいことがありません。

主は、わたしを緑の牧場に伏させ

いこいのみぎわに伴います。

主は、わたしの魂を生き返らせ

わたしを正しい道に導かれる。

たとい、死の谷の陰を歩むとも、

わたしは、わざわいを恐れません。

あなたが、わたしと共におられるからです。


わたしの生きているかぎりは、
必ず恵みといつくしみが伴うでしょう。

わたしは、とこしえまでに 主の宮に住むでしょう。」



たぶん、わたしが、羊が好きなのは、この詩篇のせいです、笑。


でもね、本当に久しぶりに、そういう気持ちになりました。


≪守って欲しい、守られたい、という素直な願い。≫


ドラゴンヘッドがもたらす、ドラゴンテイルの高次の愛を求める『純粋さ』の表象だったかもしれません。