金星の女神学校≪アフロディーテ≫の感想です4

アフロディーテの感想です。

アフロディーテの前日から当日、そしてその後一週間は、怒りと過去の記憶がよみがえってきて、とても苦しい日々でした。


ガイダンスでも焦点となっていた、「性的エネルギーから守られたところでかわいいと思われる」ということについてつらい経験をしていたことと、それに関与していた人物などへの怒りがよみがえってきたのです。


実は、11歳〜12歳くらいのころ塾に通っていたのですが、中学三年生くらいの男子生徒数人からもてはやされた?ことがありました。なぜか名前を覚えられ(しかも下の名前)、なれなれしくされたのです。その理由はさっぱりわからなかったのですが、あるとき、そのうちの誰か一人が、「脚がきれいだ」というようなニュアンスのことを言っていたのを聞いて、ショックでした。また、その出来事と前後して、人気の少ない塾の自転車置き場で、道を聞くふりをして脚を触ってきた痴漢の被害に遭ったため、脚や体のラインについての他人の視線に対しての歪んだ毒気が自分の中に入ってきました。本当に毒されたように、一時期はそのことばかりが頭の中を占めていました。


そして、その一連の出来事があってから、人前で脚を見せる機会があることがとても嫌になり、それまでは好きだった水泳やスポーツをすることが億劫になってしまいました。それまでは体を動かしたり、いろんなところに自転車で遊びに行くのが好きだったのですが、それも何か恐れをもつようになってしまいました。そして、その楽しみを奪われたことに対する怒りと悔しさというものがとても強くよみがえってきました。


また家の外でそういうことがあっただけではなく、うちの親は健康管理に厳しく、風邪でもひこうものなら、大丈夫?というよりもまず叱るというような感じで、また、食事を残したり、少なく食べたいと自分の意思を通すこともできませんでした。
そして、そういう親だったので、たぶん私が痴漢に遭ったという話をしても、お前がふしだらからそうなったと絶対に言うだろうと思って、ずっと言っていませんでした(事実、後年、大学生のときに同じ大学の先輩から少しストーキング行為をされたときも、母親はそれを私の不注意とふしだらさのせいにして私を傷つけました)。


つまり、家の外でも中でも他者の勝手な思惑や欲望に操られているという気持と、特に母親からの庇護や理解が得られなかったことの怒りでした。


その後、中学校に進学した後も、たまたまいちばん最初の定期テストで学年の上位に入ったところ、親から「これからはその成績を維持するように」と命じられ、自分がそれほど価値を置いていない資質に勝手に価値を見出され、そこに固定されてしまったのです。


つまり、脚のことも成績のことも、私にとってはどうでもいいことを、他人から勝手に価値づけされて褒めそやされたり利用されるということがあったのです。


アチューメント中はくしくも風邪をひいていましたが、風邪をひくことすらも親からなじられていたことを思い出してみじめな思いになりました。そして、アチューメント後もそのいらいらが悪化して、具体的に家族やその当時私にかかわったさまざまな人物への憎悪の感情にさいなまれました。一時期は、家族の顔を思い出しただけで吐き気がしていました。


その後、パソコンや家電が壊れるということもあって、いろいろなものを買い替えるはめになりましたが、買い替えてからふと思い出したのは、いつも女神学校のアチューメントで指示がある「五感の感覚に気を配る」という部分のことでした。


アチューメントの一週間後、会社で隣の人と話をしていて、男性に色盲が多いという話になり、緑と青とか、オレンジと赤というような似た系列の色を判断できない人たちがいるということを知りました。そして、なぜかそういう色盲の人は男性に多いという話を聞いて、私は即座に、
「だから女性の方が優れている」と無意識に思いました。その後、急に気になって家のパソコンで色盲のことを調べていたら、「共感覚」という感覚を持っている人のブログがヒットしました。


共感覚は、たとえばある対象をみると、色だけではなく、音やにおいや触感まで感じるというもので、それまでは感覚異常として受け取られていたそうです。しかし、その共感覚者の方の言説によると、どのように世界を感じるかは、それぞれの個性だということで、そこに優劣があるわけでもないというのです。ただ、一般的にたくさんのひとがその感覚を持ってるか否かで異常か異常でないかを決めているだけだ、と。つまり、色盲と呼ばれているけれど、単に数として圧倒的に少ないから異常だとされているだけで、ただ世界の把握の仕方が違うのだというのです。


そして、その方がある女性を見たとき(正確にはその女性を知覚したとき)の美しさをどのように感じるかを文章で綴ったものと、それを音で捉えた表現がブログに載っていたのですが、それに触れていたら目からうろこでした。


におい、色、触感だけではなく、おそらくオーラやエネルギーの流れのようなものを読み取って表現しており、まさに体の中、心の中を見ているような鋭い表現が繰り広げられており逆に、いわゆる外見を視覚だけで把握した女性美の表現は一切ありませんでした(目が二重だとか大きいとか、唇がどうだとかそういう表現は一切ないのです)。


私がそれまで慣れていた視覚で把握した対象の描写とまったくちがう世界がそこに広がっていました。その人のブログによると、芸術家、たとえば宮沢賢治などはこの共感覚の持ち主だったそうです。鳥の声を聞いて白いと感じたり、女性の姿を見て旋律が聞こえたりする世界です。平安時代に、ある人の書いた美しい文字を見て恋をするというような話がよく載っていますが、それを昔は小馬鹿にしていたのですが、むしろ私の方が、とても限定された感覚しかもっていなかったのだと思ったのです。


その人のブログを読んでいて、私自身が思ったのは、色彩感覚という一点だけをとりあげて無意識のうちに男性を軽蔑する感覚が強かったことと、自分が思う以上に視覚偏重で、それ以外の五感の感覚が全然鋭くなかったということでした。それがわかったら、容姿という、それこそ視覚の世界の中でもさらに限定された世界だけをみて、一喜一憂していたなとつくづく思わされたのです。


脚の問題はずっと尾を引いていましたが、最初は相手から押し付けられた欲望としてのものでしたが、次第に自分の中で容姿の判断基準として脚を気にするようになっていたことも気づきました。ですが、心や内面の美が伴わない外見の美に固執するのは、こういう共感覚の持ち主の方から見れば、それこそナンセンスだと感じたのです。


その人間がもっているトータルな美(たたずまい、雰囲気)というものは、ほんとうに五感をフルに統合して使っていて初めてとらえられるものであるからです。


そして、今日、その「容姿」という点でも、自分が素直にそれを褒め言葉として受け取れることができるような機会がありました。とあるダンスメソッドのサークルに参加してきたのですが、そのダンスは、先住民族の人の身体文化をアレンジしたもので、皆で一つの輪になって踊ることで、一体感をもったり、一緒に踊っている人と自然に仲良くなるという不思議な体験ができると評判のものでした。


まず、その主宰者の男性が、まるで少年のような清らかなエネルギーをもっていたことに驚いたのと、踊っている時の体の美しさに惚れぼれしました。それは、からだが素直に宇宙のエネルギーとつながっているときの、自然で楽しい動きで、見ていて楽しくなるのです。


そして、踊っているうちに、みんなの動きや体がきれいだなと思える瞬間が増えてきましたが、それは、単に容姿やスタイルがよいということではなく、きちんとエネルギーが流れていて、楽しそうに踊っているときだということにも気づきました。


その日は、フリースクールに通っている中学生くらいの女の子が三人参加していたのですが、踊っていくうちにどんどん笑顔が増えてきて、彼女たちは特にとてもかわいいなと思いました。
一番最後、円になった時に私の目の前にきたのがそのうちのひとりの女の子でしたがとってもかわいらしくにこっとほほ笑んだのですが、それこそ、アフロディーテのエネルギーそのものというか、ああ、これがアフロディーテだったんだ!と思ったのです。


そして、彼女は私の鏡だ、とも思ったのです。ちょうど私の正反対に来ていたこと、そして私自身も、とても楽しい気持ちで踊っていたので、なぜか、ああ、彼女=私だなーと素直に感じました。そして、会が終わった後で、主宰者の方に、「あなたはまるで私が出会ったことのある先住民族の女の子のような感じですよ」と、(とても肯定的なニュアンスで)言われたとき、本当にうれしいなと感じたのです。それは、私自身の魂が喜んで無邪気でいるときの姿を見てくれていたからでした。


遅ればせながら(?)、ちゃんとアフロディーテのエネルギーが受け取れたなと思えた瞬間でした。


そして思ったのは、「一度損なわれたとしても、もう一度それを取り戻すことができる」という感覚でした。私にとっては少女時代は最悪なことが多くて二度と戻りたくはないけれど、大人になってからもこうやって楽しい少女時代を取り戻すことは可能なんだと思えたのです。


怒りや恨みというのは、少女時代の楽しみが損なわれるというだけではなく、それが二度と回復しないという点に向けられていたのですが、それが本当にマジックのように癒されました。
アチューメントの直前は、ガイダンスの言葉を半信半疑で読んでいましたけど・・・)

ありがとうございます!