良寛さんの手毬(まり)遊び

最近、良寛さんについて書いてある本を読む機会があったのです。そして、この人は、天国の求める基準に達する純粋さ、そして、夢中で遊ぶという点でも、「地上の天国」を体得されていたかたなのではないかと感じました。


少し抜粋してみますね。


良寛という人は、家に泊まっただけで、なんだか知らないがみんな和やかになり、帰ったあともその雰囲気が漂っていて、みんないい気分だった。

別に説教や詞歌の講釈をするでもなく、ただ台所に入って手伝ったり、座敷で座禅を組んだり、ごく自然にふるまっているだけなのに、そのなんでもない振る舞いに接しているだけで、みんなの気持ちが清らかになってしまう。」

これは、お弟子さんが、記した「良寛禅師奇話」からの内容だそうです。




「自分は、立身だの、そういうことに心を煩わせるのが、面倒で、すべてを天のなすがままに任せてきた。いまこの草庵には、托鉢(たくはつ)でもらってきた三升の米と、一束の薪がある。これだけあれば十分である。迷いだの悟りだのということは知らん。ましてや名声だの、利欲など問題ではない。外は夜の雨が降っているが、こうして二本の足を延ばして満ち足りている。」


また良寛さんは、子供たちと夢中になって遊びます。
それを見た人が、嘲笑しながら、「あなたは、年甲斐もなく、一体どういう料簡で、たわいのない遊びに呆けているのか?」と問います。

だが、遊ぶのに理由などない。
良寛は、しかたなく、ただ頭を垂れてニコニコしているだけである。
あえて、心の奥を知ろうとすれば、ただ毬をつくのが、好きだからというしかないという歌も詠んでいるそうです。

まさに、「赤子のごとき無知無欲、清浄無源」


これは、老子の思想の境地でもあるそうです.....。なるほど、笑。