第6回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiii(10次元以上11次元)

第6回のナディマスタートランスミッションの感想です。


実は今回のトランスミッションは、日程的にちょっと厳しかったので、最初は参加しないでおこうかな〜と思っていたのです。金曜日(13日)に、ふらっと立ち寄った本屋で、酒井駒子さんの絵本特集がやっていました。そして、その酒井さんの挿絵で本文は須賀敦子さんが書いた「こうちゃん」という童話が並べられていることに気付いて、何気なくそれを買いました。そしてそれを読んだところ、今回のトランスミッションに深くかかわっているのではないかと思わずにはいられないような内容だったため、急きょ申し込みをしたという次第でした。


私は須賀さんの作品が好きだったので、この童話のこともすでに知っていましたが、昔読んだときは、正直よく分からなかったのです。ところが、今回、酒井さんの天才的な挿絵が入ることで、はじめて、この童話が持っているエネルギーや物語の意味に深く入ることができたように思います。

この本の表紙は、子羊を大切そうに抱える小さな男の子です。
この絵からも分かるように、この童話は、全編にキリストエネルギーが漂っていると感じます。
須賀さんという作者はキリスト者として生きた人で、イタリアでカトリック左派と呼ばれる教会内の革新運動に携わっていたこともある経歴の方なので不思議もないのですが、前日に送っていただいたガイダンスでキリスト意識の話があったのには心底驚きました。



この童話は、「こうちゃん」という名前の不思議な男の子をめぐる話ですが、一言で言うとこの「こうちゃん」というのは、天国のエネルギーを地上にもたらすために降りてきた存在のことを書いているのだと思います。その代表がイエスであると思います。


そしてそれは、ガイダンスでイエスが語るように、「《純粋な自己》として保存されている純粋な子供のような自己として、天国のレベルに匹敵する純粋さで、《真実と愛》を求める存在」として、誰もが持っているキリスト意識でもあります。


しかし、そのような存在である記憶をもってこの三次元に降りてくるということは、深く傷つかずにはいられないことでもあります。10次元以上11次元の説明で、「存在の多くが、このことを教えるために地球上に下降(ディセンション)してきました。けれども、今までこの地球上で、本当に自分の真実を守りながら、生きるということは、非常に困難でした。それが可能であることさえ、疑い始めた存在は、長い間、自分のアイデンティティを失ったも同然でした」と書いてあるように、この童話の中でも、「こうちゃん」は、とても深く傷つき涙を流しています。そして、帰りたくても帰る場所がわからなくなり、自分が何者であるかも忘れているのです。



「あなたは こうちゃんに あったことが ありますか。
こうちゃんって どこの子かって。そんなこと だれひとりとして しりません。
ただ こうちゃんは ある夏のあさ、しっとりと 露にぬれた草のうえを、ふとい鉄のくさりをひきずって 西から東へ あるいて 行くのです。鉄のくさりのおもみでこうちゃんのうしろには、たおれた草が 一直線に つづいてゆきます。どこまでも。どこまでも。」


この言葉ではじまるこの童話には、筋らしい筋はありません。
こうちゃんが無邪気に笑ったり、喜んだり、存在しているだけで周りの人をいやしたり、生きる勇気を与える一方で、辛い現実にどうしようもなく打ちのめされる様子も描かれています。



ガイダンスで「あなたがたが、下降した理由は、《天国》に満足してしまい、そこから先に上昇しようという衝動が失われたためなのです」と語られるように、「こうちゃん」も、ある日、天国を出ていったのです。



「わたしたちは 夏草に におう野をかけたり、岩から岩にとびこえたりして、一日中あそびました。金いろに咲きみだれる えにしだにうずもれて、わたしは湧きあがる泉のように わらいつづけました。暮れはじめた くろい岩のうえで だれかが呼びました。男の子は ふとまじめになっていいます。

ぼく 行かなくちゃ。

こうちゃん、あなたが行ってしまったと ほのぐらいえにしだのしげみで わたしはいつまでも いつまでも 泣いていました。」


そして、「あなたがたの下降と上昇にともなう新しい自己理解という叡智は、9次元をへて《天国》からさらに上昇するのだという《勇気と衝動》をあなたがたに確約するものとなるでしょう。それは《愛》です。つまり《神》です。そして《永遠に続く天国》なのです。《朽ちることのない天国》です」とガイダンスにあるように、私たちは下降することでより上昇しようとしていたのです。それがそもそもの旅の意味でした。




そんなことを、前日からガイダンスを読みながら感じつつ、トランスミッションを受け取りました。

9時〜は、お風呂に入っていましたが、考えていたことは、職場の新人教育のことでした。ある新しく入った新人さんの指導を任されているのですが、彼女の教育に割く時間がとても長くなりそうで、自分の本来の仕事との配分を考えると、どこまで丁寧に面倒をみるべきか迷っているのでした。面倒をみないとなると、「切り捨てる」ということになってしまうのですが、どこまで彼女の件で私が負担を負うべきかというさじ加減について思案していたのです。


そのときふと、海外の知人からもらったメールの中で、「私たちはみな、お互いにとって天使なのだと思うわ!」という一文があったことを思い出していました。くしくも、その日引いた天使のカードは、「隣人愛の天使」でした。


切り捨てるのではなく、互いに助け合うためには、相手が天使であることを信頼する。自分だけが天使(助け手)なのではなく、相手も天使であるということをしっかり認識する。

そんなことを感じていました。


思えば、今一方的に私が新人の彼女に与えているようでいて、よくよく考えると、私も育ててくれた人たちから受け取ったからこそ、こうして一人前の顔をして仕事をしていられるわけで、受け取ったものをつないでいくというのも必要なのだと思ったのです。

私のしている仕事は、特殊な専門職で、自分で技能を磨いていく個人プレーの要素が大きく、仕事の取り合いになることもあるので、仕事のノウハウを他者に伝授すること自体を嫌がる人も多いのです。正直、私も、「自分は努力している、すべて自分の功績だ」と思いがちなところがあります。そして、できれば自分がせっかっく苦労してつかんだものは、できれば他の人にはあげたくない、秘密にしておきたいと思う部分があります。

しかし、そのやって囲い込み・独り占めすると、せっかくの知識やノウハウが後継に伝わらなくなり、ひいては会社や業界全体の質の低下に結びつくことになるのだと感じました。よく、会社はひとりで仕事をしているわけではないと言われますが、そのことも改めて感じています。

それは、ちょうど、イエスがただ一人でキリスト意識を地球に下ろしたのではなく、大天使や、さまざまな協力者とともに行ったのとちょっと似ているなと感じました。


10時〜エネルギーを受け取り始めて思い出したこと、それは、私は「天国」という言葉に対してとても大きなこだわりと憧れ、そして失望と悲しみを味わってきたということでした。
しかも、それは、キリスト(教)にまつわるさまざまな経験を通じてでした。


私は中学校からキリスト教の学校に通っていました。その学校に入った初日、礼拝ホールの空間の中を満たしていたパイプオルガンの音と讃美歌の歌声を聴いたとき、何かのスイッチが入ったかのように、私の中で「天国」を求める気持ちが湧きあがりました。それは、特に宗教心のない親からあきれられ揶揄されるくらい、真剣に純粋に、その美しいものを求める憧れの気持ちでした。


苦しみからの救済としてキリスト教に目覚める人は多いと聞きますが、私の場合は、キリスト教との出会いは、空間を満たす圧倒的な美しい音として、天国を垣間見るような体験として始まったのです。

ある意味、子供がきれいなものを欲するのと同じような、無邪気さから求めたのです。

しかし、やがてすぐにキリスト「教」という宗教の持つ制度としてのさまざまな矛盾、教義上の矛盾に気づくようになり、行きはじめた教会も1年程度で行かなくなってしまいました。

そして、天国をめぐる最大のショック体験が、大学に進学してそこで出会った元婚約者との関係でした。その人が改革派の信仰をもったクリスチャンであるということを知らずに付き合い始めたのですが、結婚も考えるようになっていたある日、「私がクリスチャンにならなかったら、どうする?そのことについてどう考えるの?」と聞いたのです。
そのとき彼は、「僕は、君が(クリスチャンではないことによって)天国に行けないかもしれないと思うと夜も眠れないことがある。そのことについて、神に祈り答えを求めている最中なんだ」と応えたのです。

その答えを聞いたとき、私はあまりの衝撃に泣き出してしまったくらいでした。

それくらい私にとっては、天国に行けないというのは、ショックなことだったのです。
今から思うと、私にとって天国というのは、それだけとても大切なものだったということの裏返しでもあったのです。

とにかく、そのことがショックだった私は、キリスト教を様々な角度から見てみようと思い、いろんな人に出会いいろんな学びを意識的に始めるようになりました。

キリスト教の本場とされるヨーロッパに行き、12歳のときに出会ったあの美しい天国体験を何度も味わう機会をたくさん持ちながらも、自分が目指している方向は同じなのに、キリスト「教」という組織団体はやっぱり嫌いで、なじめないものを感じていました。

その根本的な部分というのは、究極的には、天国に行けるかいけないかというのを、キリスト教の信仰をもつ特定の人間だけに限っていることでした。つまり、クリスチャンでなければ天国には行けない、と。

その違和感が決定打になったのは、実際に結婚が現実のものとなりつつあった25歳のころ、例の婚約者の通っている教会に通い始めたことでした。そこは、救済(天国に行くこと)に関してとても厳格な教義を持っている宗派であり、教会においても「洗礼を受けているか否か」が大きな基準となっていて、たとえ毎週教会に通ったとしても、洗礼を受けていなければ、聖餐にあずかることもない、そういうクローズドな雰囲気の強い教会でした。

そして、「私たち」はこうしてクリスチャンとして生きていて救済に近付いている、恵まれている、ということを当然のように信じ、その一方で、「そうではない人」に対するありえないような差別的発言を聞くことがありました。

森鴎外舞姫のモデルになった例のドイツ人の女性は、商売女だったんですよ」とさげすみの口調でしゃべったのは、日本で初めて某国立大学に進学したという老齢の女性でした。

そのとき、そこにいた教会員は、牧師も含めて誰も、何も言わなかったけれど(そしてその沈黙に対しても私は怒りを覚えていました)、「部外者」である私の喉の奥には、「でも、イエスの周りにはまさにそういう娼婦だった女性たちがたくさんいたのではないですか? あなたはその女性に石を投げる権利があるのですか?」という言葉が出かかっていました。

そのような発言を平気でする人がいる組織や、そのような組織を導いている牧師から洗礼は受けたくないと思ったのです。そして、そのような形だけの洗礼では絶対に救われないだろうし、天国には行けないだろうと。

それが、「宗教」としてのキリストの教えとの決別の瞬間であり、それに続いて婚約を解消し、宗教ではないいわゆる「スピリチュアルな学び」を始めるきっかけになったのでした。

形だけでも洗礼を受ければいいじゃないと、アドバイスをくれる人もいました。でも、私にとっては洗礼を受けるということは、入場チケットのお金を払うような簡単なものではないと信じていました。


・・・じゃあいったい洗礼というのは、どういうことなのだろう、そんなことを考えながら、BGMで流していた歌の歌詞をみたら、「天使のパン」と。

「天使のパン
 すべての人々のためのパンとなる聖なる守護者より与えられしパン
 上より与えられたこの身体は
 誰よりも慎ましい
 最も貧しきものでさえも養うだろう」

そのとき急に、子羊がこの天使のパンを食べているというイメージが浮かんだのです。

なんで??と思ったのですが・・・、洗礼というのは、本来、身体の中に残っているルシファー(死)の影響を払い落すための浄化であり、それが済んではじめて、天使のパン(天国のエッセンス・愛)を子羊(内なる純粋な自己)が食べることができるのではないかと思いました。


ラツィエルが語るように、人間側のエゴによって、儀式には様々なゆがみが生じているというけれど、本来洗礼というのも、そして聖餐も、形だけのものではなく、常に新しくされていくものであり、それが形骸化してしまったとき、本来のエッセンスを失うのではないかと。


本来洗礼というのは、誰か人間の手によってなされる必要があるのではなく、私が祈ること、そしてそのこたえとして降りてくる聖霊の清めとして、行われていたのではないかと。
そして、清められたものとして、天使のパンを受け取る準備の浄化のことだったのではないか・・・と。

そう思えたとき、心のどこかにあった「自分は天国からはじかれている」という思いがやわらいだように思いました。

むしろ、「教会という組織」「洗礼という儀式」にしがみついていたのは私自身でした。

思えば、私が12歳から25歳までのキリスト教徒の関わりの中で出会ってきた人々の中には、キリスト教内の革新運動というか、大なり小なり、キリスト教という宗教組織の抱える限界や問題や弊害に対して、真摯にそして誠実に取り組んでいる人たちが少なからずいました。

ひとりは、高校三年生のときの宗教の時間を教えてくれた牧師先生でした。さまざまな究極的状況(堕胎、殺人等)に関する法的・キリスト教的な見解や、哲学者の思想などを紹介しながら、私たちに深く考えさせる機会を与えてくれた、ちょっと異端な先生でした。「僕はさまざまな限界状況に対するキリスト教の教義としての見解には絶望しています」と言いながらも、キリスト者としては人一倍熱いものを持っていた先生でした。

そしてもう一人は、ヨーロッパで出会った、魔女狩りに関するゼミを開いていたカトリック神学者の大学教授。
そのゼミでは、カトリックプロテスタントの両方の信仰をもつ学生たちが学んでいて、ヨーロッパのキリスト教史における「組織的犯罪」とも言うべきこのくらい事件に対する疑問や怒りを、その先生にけんか腰でぶつけるような状況もありました。

魔女狩りは、ヨーロッパでは今だに終わっていないのだと感じるとともに、それをしっかり受け止めながら、決して学生を抑えつけることなく冷静に誠実にデータを提示して説明し解明しようとするその教授を動かしていたのは、おそらく彼の中にある強いキリストへの思いだったはずです。

それと、「こうちゃん」の童話の中に、アッシジのフランチェスコ(クツミ)のエネルギーを強く感じるシーンがあるのですが、彼もまた、腐敗していた当時のキリスト教の革新運動に携わった聖人でもあるのです。そしてそれは、須賀さんが信仰していたイタリアのカトリック左派の流れにも受け継がれています。

そして、キリスト者であるために、教会に入る必要はないと私に教えてくれた、無教会派の友人もいました。彼女と一緒にウィーンに旅行し、聖シュテファン大聖堂を見ていたとき、「ここでこの教会でお祈りしている人たちと、同じ信仰を持っているのだろうかと思わずにはいられないけれど、でも、私たちは同じものをめざしていると思う」と彼女が言っていたことも思い出しました。

その彼女が私に教えてくれたこと。

それは、地上ではもう二度と会わないかもしれない人(旅先で出会った人など)に、こうあいさつするのだと。

「See you in HEAVEN!(天国でまた会いましょうね!)」

天国から来た私たちは、必ずもう一度天国で会えるのだから、と。


トランスミッションの数日後、こんな風に思いました。「ここ(地球)が、笑っていない人がひとりもいないような、喜びにあふれていてほしい。だから、私も含めて、すべてのこと、すべてのものをゆるしたいし、ゆるされたい・・・」と。

それは、こんなこと今まで思ったこともない、深いレベルの切なる願いでした。もしかすると、ガイアの意識に同調していたのかな?と感じました。

ガイアの願いというのは、一人残らず、そしてひとつ残らず、一緒に天国を経験するということなのだろう・・・と。

そして、地球にキリスト意識を結びつけることで、地球が救済されること=地上の天国がもたらされることに、本来すべての人がコミットしているのでもあります。

「こうちゃん、それでも わたしたちは まだ ちからを出して 地にひざまずき、あかるくもえる炎の小花をつまねばならぬのではないだろうかと、あの濡れた 霧のよあけ、泣きじゃくるあなたのあたたかさを身にかんじながら、私には、はっきりと そう思えたのでした」という一節が童話の中にあります。


あかるくもえる炎の小花というのは、《愛》そのものとしての《神》であり、天国よりも上の次元でおそらく存在しているものだと思うのです。そして私たちがここ三次元に降りてきた理由は、まさに、そのとてつもない高次元のエッセンスである愛をここ地球で与えあうこと、しかも、私だけあるいは誰かだけではなく、「わたしたち」がその愛を与えあうということが必要だったのでしょう。


だから私たちはすべての人がお互いに天使であるのです。


今回は、深いレベルでの「キリスト教」との和解ができ、自分の誤解やこだわりが溶けたような気がします。何より、天国を求める自分の気持ちの再確認ができたことが、とても重大なことだったと感じます。

どうもありがとうございました。