ラブ&アバンダンストランスミッション「frere(自由)」の叡智のシェア2

今回もまたラブ・アバンダンス、有り難うございました。


最初は一連の流れの締めくくりが何故自由なの?とも思いましたが、確かにこの三次元のこの世界が自分の作り出した幻想というならばそこから自由になる方法はどうするのかという疑問が私の中に浮かんでいたのです。


なのでやはりタイムリーというか高次はその事すべてお見通しなのですよね。


今回、子ども達の強い要望で9時になる前にDVDを借りに行くことになり、自分もひかれる映画を借りたのです。エネルギーを受け取る時に映画?と少々後ろめたさを
感じながら、でもここへきてもう既に私の頭で考える内容ではないし、自由について頭で考えてもただ、眠くなるのだったらと、見る事にしました。


それは高次からみてどんな行動だったのでしょう。
自分の中の拒否反応なのか、逃げたのか、自分がやりたい方向に従ったのか、それすら良く分かりません。
もし、それが自分に従ったという事ならそれはそれで意味があったのだと思うのですが、言い切れない自分がいますね。その点を信じきれていない事が自分を信頼する点で、まだ弱いのかも知れません。
(注:映画を見るようにということが、高次からのガイダンスだったのではないでしょうか?大丈夫ですよ! その人に一番わかりやすい方法というのが選ばれているのだと思います♡ 史衣)


10時半過ぎになり、慌ててテレビを消し、エネルギーを受け取る事に集中しましたら、重いエネルギーがワーッと待ち構えていたように上から降りてくるのを感じました。自分はやはり、エネルギーを受け取る事に集中しないとダメじゃなかったのかという思いと迷いが交差しました。

ただ、それもとても短時間で終わり、結局最期まで見たい思いが募り集中できないので、アチューメントの宣言をした後、11時半すぎからまた映画を見る事にしたのです。
色々準備してくださった高次の存在やふみさんに対しても申し訳ない行動だったかもしれません。この場をお借りして謝罪したいと思います。すみませんでした。


映画はオーガスト・ラッシュというものでした。
まだ見ぬ母と父を探して、養護施設の少年が自分の両親は自分を捨てたのではなく、理由があったと信じてまた自分の事を探しにくると信じて、周囲からどんなに捨てられた子だと言われてもその信念を捨てずに同じ養護施設で過ごし、両親が来られないのなら自分が両親を探しに行こうと自分が聞こえる音楽に導かれながら、旅をするのです。


その少年の痛々しいほどの確固たる信念、そして音楽に対する情熱の旅が少年の親譲りの音楽の才能を目覚めさせ、それが親探しの旅を結局は助けることになるのです。
実際それはその環境に置かれたらとても難しいことなのもとても分かるのですが・・・。

少年の確固たる信念と対照的なのは、親のしがらみだったり、自分に対する自信がないせいで様々な環境の中で、自分の本当の想いにふたをして、相手とすれ違い、放浪し続ける両親でした。


その切なさや愛を感じているが故に相手を忘れられず、待ちわびたり、絶望したり、相手を疑ったり、自分に自信をなくしたり、自分を見失いかけながらそこそこの幸せで満足しようと努力しているのですね。


その映画の両親が感じている感情すべてを体験して、良く知っていて、涙が止まらなかった・・・・。
そして本当に私達は同じところから来て同じところに戻るんだと、なぜか理屈抜きで思えました。


正にこの感情を味わいたくて沢山の経験をして沢山の感情を作り出し、愛の究極の幸せ喜び、一体感を知るんだなと思ったのです。愛が深ければ深い程別れによって気持ちが引き裂かれる、そんなキリストに代表されるような体験をマスター達もして、感じてたんだなあと生意気ですけど、ぼんやり親近感を持ったのです。


自分の本当の気持ちに自分で気付いていない事、しっかり自分の真実に向き合わずにいるとその思いに縛られてしまい、それに振り回され、その事が自由でないという意味かなと思いました。


なので、一つ目の課題は、この世が自分の映し出す幻想ならば何に捕らわれているのか、自分の本当の思い、真実に気付く事が近道なのですね。ただ、その気持ちに捕らわれているときに真実に近づくのはとても難しいのも事実です。


でもだからこそ、昔からの智慧で、そういうときに無になりきれるようにマントラを唱えたり、身体を動かしたり、音楽があったりするのかもしれないのです。
私達はその智慧をそのまま受け継ぐだけでよいのですね。


突然思い出したのですが、女神学校の中で良い母親であるというのは必ずしも良い環境をつくってあげるという意味ではない内容がありました。(注:この方への個人的なクマラからのお返事のなかでの内容です)


自分の内面を深く見続けた存在だから聖母マリアと呼ばれると。
家族の人間関係は一番自分の難しい側面を見させるものだと思います。
だからこそ、それに捕らわれず、依存もコントロールもしない自由さを得るにはやはり自分の内面を奥深くみていくしかないのでしょう。
そして自分を信じること、自分を尊重する事、それは結局は相手を信じ、尊重できるという事につながるのだと思えるようになりました。
その辺りが私の2番目の答えであると思っています。


だいぶ今までのパートナーとの関係の意味や自分のどういう側面の象徴だったか、等々整理がついてきました。それでなのか、一週間前に彼から電話がきまして、私の中で一瞬怒りを感じ、そしてとても動揺し、胸がグワングワンと痛くなりました。
彼にまた依存させるような形にしたくない事も今は話はしたくない素直な私の感情を大切にし、出ませんでした。


そういう自分の動揺があった事は整理がついてきたというにはまだまだ遠いのかもと凹みましたが、ただ、それは彼が生きているという事を宇宙がお知らせして下さったという事として感謝することにしました。
また、これが自分の中で拒否や逃げにあたるのか、という事で気持ちに探りをいれる必要もあるのでしょうが、あまり自分を責めずにゆっくり宇宙にお任せしてみようとも思っています。とにかくゆとりを持つことの大切さも教えていただきましたのでね。


課題を出したとき、3番目の自由とは何かと考えようと思った時点、このエネルギーを受ける前は自由といっても社会的責任もあるし、勝手気ままではいけないし、とかなり3次元的に考えていたのですが、エントリー完了のリコメンドを読んだり、このレポートを書きながら、感情を越えての開放というか、突き抜けた感じ、でもそれは感情を
味わってこそ、自由を感じられるという種類のものなんだなと思いました。


そしてそれは環境に左右されないものなのでしょう。
私がこの3次元でどれだけ自由を感じられるか、幸せの喜びを感じられるかは自分がどこまで欲して、そして感じられると信じているか、また、自分がニュートラル状態になって、宇宙に委ねている余裕があるかなのかなと思ったのでした。


以上でレポートとさせていただきます。
この内容の中でどれを抜粋して、みなさんと共有していただいてもしていただかなくても構いません。
すべてふみさん、高次の存在にお任せいたします。
みなさんの感想で私自身もずいぶん刺激され、自分の気づきになりましたし、皆さんがとても心を開いて感想を書いておられることにとても感動いたしましたので。


ではよろしくお願いいたします。