第5回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiiiiiii(9次元)

ナディマスタートランスミッション第5回感想


情報置き場を巡回するのがクセになっており、そこに夢中になっていて、どうにもレポートに集中できませんでした。


まるで中毒で、巡回しないと気が済まない。数時間毎に目新しいことが次々飛び込んでくる面白さもありますが、何よりも今まで身近でなかった分野だけに、知りたいという強烈な欲求があります。

表向き違っても、これと同列に見て取れる自分自身のクセのひとつに、”何度も繰り返し後ろを振り返って確認する”というのがあります。人との関係と自分自身の現在の立ち位置や成長度の確認としてついついやってしまうのですが、一歩前進した、と思うと、本当か?と思い、何度も何度もその手前の状況に立ち戻って繰り返し確認する。


例えば、とある人のことを考えると非常にネガティブな感情がわいてきて、その間は本当に嫌でこれをなんとかしたい!と本気で悩むのだけど、こちらでのワークも含めて展開できるようなあるきっかけがあって、スッと一歩前に進めた自覚があると、本当か?と思って、またその人のことが思い浮かべて批判的なことを思ったり、心の中で悪く言ってみる。


自分にけしかける感じです。それで実際にやるかどうかを見る。
そのことについて自分自身の中で決着がついていればその挑発をスルーしますし、それであぁ、これは本当だ。と思い、(自分に)けしかけられて思わず批判が飛び出し、罪悪感が出てくれば認めたくはないけれど相手に対する部分的な共感など別の視点が生まれていて、逆に相変わらず悪く思ったり批判してもなんとも思わなければ、これもまた好きではない正当な理由があるとしてその自分の気持ちをいったん受け入れる。


他にも、意識的に天使的な状態でずっといようとすると、非常に悪魔的なイメージが映像などで浮かんでくるなど。このような自分で自分を試すというのも、いつからそうなったんだか覚えていないくらい自動制御の部類です。


それが今現在も出ていると思われます。
9次元のメタファーとしてふみさんがおっしゃってた”クラスター”というのが非常にわかりやすかったのですが、この「すべてがひとつ」という状態は自分にとってもひとつの理想・ゴールであったわけですが実際の状態としては未知でもあり、今回はそこに触れる機会を得たということで、自己鍛錬はまだ必要なのが実際なのだと思うのですが、私のせっかちな思考の方は、ゴールに入ったからもう今後は善い部分だけになるのだと考え、するとなんだか寂しく感じて、そこを対極のもので埋めてバランスを取ろうとする、人間臭さを失ってしまうのではないかという不安が、泥臭い記事への好奇心になっています。


やっぱり私は人間臭さにすごく魅力を感じていて、それは善だけでも悪だけでもない、両方入り混じった上での愛すべき部分が人間臭いのであって、そこに人肌を感じるからすごく好きなのですが、それで9次元ナディと7日のラブ&アバンダンスから続いた布石をまとめて考えた時に、今回のトランスミッションは、そう難しいことは考えず、ウリエルのガイダンスにもありました”けれども、あなたがたは、苦しみ(地上)を愛していますね”という部分について実感を伴った自覚をすることだけでも、いいのじゃないかなと…。


自分自身、あれだけ自他の陰の部分がイヤだイヤだと言いながら、いざ安住の地へ片足を突っ込むと、多分その安心感から、今までの辛かったことがとってもなんか、経験してよかったなぁとか、もう二度と踏み込むことはないと思うほど懐かしさとか愛おしい気持ちというか、そういうのでいっぱいになりまして、何でだろうと思うのですが、自分自身の言葉としての答えはスッと出てきませんでした。



また、世間は今まさに情報戦、終末思想などもそれこそありますが、それらも含めた特に人為的な悪意や操作、トラップなどは、それらが巧妙であればあるほど、信頼性・信憑性の見極めに一番役に立つのは、自分自身が経験した闇や俗欲的な部分であり、それがどれだけ深く、また自覚があるかが大きく関わってくると思っています。



例え地の底の底、それこそ言葉通りの地獄の底までは味わわなくとも、闇や強烈な我欲を経験するということは人間の幅の端を知るということであり、自分の経験値や普遍的な常識をはるかに突き破った他者の目論見などに対してでも、これら経験をベースとした想像力で見極めることになる。



まさかそこまで…という制限を外せばそれこそ、別世界の住人の意図を読み解くことも実は可能なのだと思います。イマジネーションはそれこそ自由な領域であり、そしてこういうことも闇や我欲を経験する意味のひとつだなと思いました。


こういった、極端な冷と暖の繰り返しで血行が良くなって身体が丈夫になるように、心に於いても闇と光を交互に繰り返して体験していくと、その分共感の幅が広がったり、悪魔的な何かに対してもさほど恐れなくなったりするというのもわかる気がします。



ウリエルの”けれども、あなたがたは、苦しみ(地上)を愛していますね”は、確かにその通りです。
この愛にはきっと色々な意味が込められているのだと思いました。



それと、今回のナディの説明で「9次元のマトリックス(全ての経験が同時に起きていると認識される時間のない次元)」とありましたが、そういう意味では過去も未来も今もなく、また夢も現実も、フィクションもノンフィクションも超越した場所と思って、とするとここに書いたすべての出来事の全部が、どれもとても大事な経験で、また各々に隠れた叡智があるのじゃないかと感じました。



時間という概念についても、流れが早く感じる時と、非常に長く感じる時とがありますが、自分の経験では、大体が楽しい時間はあっという間で、辛い時間は終わりがない気すらする。


それで、時間が長いということは、それだけ瞬間を味わう時間が長いのだと思ってきたのですが、これは勘違いで、辛いという思いや観念が強烈で囚われるから長く感じるのであって、瞬間の本質とは時間の流れを感じない集中した状態なのだから、メルキゼデク意識へと向かうことが私たちの本質へ向かうこととイコールなのなら、やはり集中した状態や、楽しさ・幸せというのが私たちの本質というのも納得だなと、思ったりしたのですが、事はそう単純じゃないでしょうか…^^;。



7日のラブ&アバンダンスから17日のリリース、そして今回22日のトランスミッションと、そのひとつひとつにあった布石とは以下のようなものでした。



7日:前進の足を引っ張る根本的問題が改めて浮き彫りになり、私の闇を育てた愛するものとの関連、苦々しい過去と場所、それらを再度真正面から見つめる機会を得た。また、遊び方を忘れた子供のようなこの数年来の状況を、どう取り戻していったらいいかという課題を見出した。(楽しみを創造すること、イマジネーションの中で自由に遊ぶこと。)



17日:家の周辺で環境変化があり(苦しい過去のある部分の象徴との切離し)、それを受けての引越し・独立のプランが出て、生活スタイルが大きく変換する方向性になってきた。

エネルギーの部分では、エーテルコードに関する盲点を知り、襟を正した。
(嫌悪感や怒り、恨みなどを持ち続ける=対象の人物や物事に対して自らコードを繋ぐことになるという話。この点に於ける許しの重要性も。)また、この日以前に得た情報がこの日を境に真逆の視点のものに軒並み突き当たり、明と暗、上下、左右という極端に対極の性質を持つもの同士のバランスと関係性について再検討することになった。



22日:対極を示す映画にばかり行き当たる。印象的な夢が2つ。その他、以下に。
今回のトランスミッションに関して9次元とその性質を更新記事により知った時は、自身自覚のない過去生にまで及ぶ浄化と癒しという内容はさすがに身近でなく、しかし同時にふみさんが自力で行った2月の記事については非常に親しみやすく興味深く、エントリー締め切りのギリギリまでこの間の中で迷いに迷いました。(これもまた対極ですね^^。)



しかし事前にメッセージとか、ぜひ受けようと思う出来事はありました。
ひとつは当日の2日前に偶然見た映画で、"Lilja 4-ever"という作品。
時代は旧ソ連、母に見捨てられた少女の非常に過酷な運命を描いたものです。
この作品は少女の性的搾取という社会問題に対するメッセージでもあり、愛情についての問題提起であり、
政治がもたらす社会や経済の有様がそこで生きている一人ひとりにどのような影響を及ぼしているかという示しでもあります。
そして安住の地がひとつひとつ消え、逃げ場を失った彼女の強烈な孤独と籠の鳥となっていく有様は過去の自分の心境とリンクして、心がきつく締め付けられました。
「どこへ行っても壁」の生活の中で、日々彼女は壁にかけた天使の絵に祈り続けます。
けれども上を見上げれば曇空で光がまったく見えない状況を、自分も彼女を通して久しぶりに追体験したことはフィクションを超えて他人事ではなく、全員の経験が全存在の経験になり、それを癒せるナディはぜひ受けるべきと思いました。(8月も放送予定があります。@シネフィルイマジカ)


(ついでに「Pan's Labyrinth」という映画も。スペイン内戦の独裁主義政権が舞台の、月の女神が産んだ王女が王女のままであるかどうか妖精パンによって試される話で、内戦にまつわる描写は闇そのもの、非常にグロテスクですが、これもまた闇と光の対極世界であり、メキシコ人の監督が描くパンはまた独特なものがあります。同じくシネフィルで8月も放送予定があります。)



もうひとつはエントリー締め切り日の21日の朝、そうはいってもまだ迷っていたのですが、例の非常に強い心地よさと強烈な眠気が起こったことで、申し込みもしていないのに、すでに何らかのエネルギーが身体に流れていて、これはサインなのかなと感じました。



この日、まず起きる前に見た夢が非常に興味深くて、アクアマリンやアメジストエッチングトパーズなど、片っ端からバリバリ食べているのです。頭に来て怒りながら。ヒーリング用の原石たちで、実際に持っているものです。夢は気づいたら…3月ごろからでしょうか、現実とみまごうほどのクリアさになっており、2ヶ月前くらいからはほとんどクリアな夢になっています。



そして最近の傾向は、現実的にも折り合いがついていない人たちだけが出てきて、夢の中で彼らとケンカしたり話し合ったりなどしているのです。この日はケンカだったので、それで怒っていたわけなんですが、ジェムを食べるのは初めてで、アメ細工の塊か空気を含んだガラスというのが一番近いけれども、それらともピタリと一致はしない独特のもので、今でも食べた感触は残っています。



そして、ナディを受けたその夜に見た夢も非常に印象的でした。
産まれて初めて、妊娠した夢を見ました。
病院の待合室にいる間、小さなガラス窓から堕胎中の女性を見ていました。これまで何度も堕胎を繰り返しているようで、完全には子供の形にもなっていない13cm程度の赤子を取り出す時だけギャッ!という悲鳴をあげ、終わるとすぐにけろりとして立ち上がり付き合っている男に何事もなく電話をしています。「出来たって堕ろせば簡単よ」などと言っています。


堕胎している時に彼女の足元に置かれた大きなビニール袋には、すでに堕胎された赤子たちがいっぱい入っていました。これに非常に強い怒りと反感を覚えて、やってきた男性医師に「妊娠している気がするのですが、もしそうだったら絶対に産みます!」と宣言するのですが、あの彼女を見ていなかったらキッパリと決意できたかどうか。それはまだ私が未婚だったからです。


そして、妊娠してるよと告げられて、やっぱりなと思いました。一ヶ月くらい前から、もしかしたらそうなのではないかと思っていたので。そして、別部屋に行くように言われました。
そこには女医がいて、出産までの間サポートをしてくれる方なのですが、挨拶をして次はいつ来ればいいか聞くと、(8月)8日に一度来てといわれました。
手帳をめくると今日は(7月)26日か27日だったので、え?もう?と思ったのですが、新米妊婦さんのためのお料理指導があって、これは大切なことだからぜひ参加するように、教えてくれる先生も海外から今月はこの日だけ来る先生だから、今から通っておいてといわれました。



これは夢のサビで、最初と最後にもちょっとしたシチュエーションがあるのですが、省きます。



いつも参考にさせていただいている夢分析から解釈をすると、この夢は過去からの流れが一巡して、この日を持って新しいスタートに入ったことを示しているみたいで、傷の修復と共により自分の本質に向かうための新しい方向性、より高い覚醒、新しく学んだ知識や体験を自分のものにしていくための工夫、人生のいろいろな要素を統合する方法などを、未知の新しい領域から教えてもらえるか、実際に一皮剥けることによって気づくかということみたいです。



堕胎した女性も自分自身の女性性の一部であって、それは恐らくこれまでの人生や生き方に於いて、新しい可能性の芽を摘んでしまったり、堂々巡りのスパイラルに嵌って抜け出すことが出来なかった部分などを見せて、そういう姿勢に対してのキッパリとした決別の意を表した(させた)もので、ただ、新しい部分に気づくには現状についての洞察や再検討が必要、純粋なる心と体と精神のバランスが指標というメッセージのようでした。



数字については数字そのものの意味か、実際にその日に何かがあるのかちょっとわからないのですが、今回のナディなどは特にふみさんのところでお世話になるようになって初めて知った領域のひとつなので、今後もまた展開がありそうな気がします。



この度も本当にどうもありがとうございました♪