第5回ナディマスタートランスミッションスタディシェアii(9次元)

☆ナディトランスミッション9次元☆


「ワンネスの花を咲かせよう!」って隣で誰かが歌っています(笑)
「ありがとうは虹色」ありがとうを色に表すと虹色になると言ったのは愛息子。

今回は、もう楽しみ、うきうきルンルン9時を待っていました。

9時直に帰ってきた夫、「パーティーにご招待します!」って今日、会社に電話がかかって来たよ、と帰宅第一声。よっしゃぁ、いいねぇ。
10時直前になって立て続けに電話。父「サーカスの券もらったから送るから」数分後、
母から電話。「飛行機のチケットが・・」

パーティー、サーカス、エアチケット、はぁい。謹んでお受けいたします。
天国のパーティへのお誘い、円(サーカス)が完成して宴で、天国へのチケット。それを運んでくるのは父親で母親。一番みたくない感情の痛みの部分にいる相手が天国への門をひらき、チケットを運んできてくれる・・・ってこと?

10時過ぎ、娘、「ねぇ、おじいちゃんとおばあちゃんが離婚したほうがいいと思ったことある?」と聞く。
娘は祖父母(わたしの両親)を訪ねて、二人がけんかばかりしていて・・・
「あれはね、けんかじゃないらしいよ、そういう話しかたで、ふたりはそれでいいみたい」
「ねぇ、あれがおしどり夫婦っていうの?」
「かも、ねぇ」

11時、わたしの中で父と母を統合しようと思った瞬間に胸の中心がピシっと鋭い痛みがはしった。その後、ものすごく楽しみにしていたのに、なにも、なにも感じないで、ぐーすか眠ってしまった。統合、すべて統合。好きなひとも、好みでない状況・人も。

この癒しを進めるためには父親・母親とのワンネスの感覚がどうしても必要なのかもしれない。

宗教の教義による傷というが、宗教学部なるところで学んでカトリックで実際の宗教体験を積んで、はぁい、うんうん、納得、納得。だけど、それは実は表面でしかない、根ではない、とうのが今回、ナディがわたしに見させたものだった。それは父親だった。わたしが神父との間で抱えた問題もつまるところは、父親との関係の再確認だった。 宗教を作ったのも人で、その人にも両親がいて、どんな権力構造もすべて人が作って、その人たちもあるときには純粋無垢な赤ちゃんだったわけで、産みの親がいて・・・・つまりどれほどの小難しさも通り越しての原点の癒しは自分と親に尽きるのではないか・・・
つまり、両親は天国への門なのだ。

わたしの宗教体験の中には地獄体験(ホラー映画か?)もあれば、天国(純粋・純白の光のシャワー、すべてがあって何もなく、完璧な平和)という体験もあります。地獄から天国へは薄い幻想のベール、インド哲学では「マーヤ」と呼ばれる幻想のベール、経験を苦しみと認識させる意識の層があって人はこれを超えることが死ぬほど怖いと感じるのです。
天国と地獄の距離は実はオブラート一枚よりも近いのですが。それは、宗教が神を一億光年先にあると規定してしまって自分のエゴがその教義を受け入れてしまったせいですが、自分と神との距離は「0」と自分で設定しなおすことができます。それは自分の好みでよいのですって。これが、キリストの受難から復活への十字架の神秘だと思います。イエスは十字架にかけられて苦しんでいるときにお隣さんにいいます。『今、あなたは楽園に居る』

宗派を超えて祈りの心は皆同じで、カトリック教会には聖霊の純白・純粋な光が降り注がれているのも確かです。わたしはそこで聖霊と出会っているからです。ただ、わたしがここのワークに参加しているということは、ホーリースピリットが一宗派の専売特許ではないことの証明でもあります。この純粋・純白・虹色に輝く光に導かれてフレアにきました。

癒していくことが悟りへの道だとするならば、シンプルに原点にもどって、父親・母親なのだと今回のナディはわたしに教えました。

ナディ翌日、夢をみました。父親におんぶされている夢。父の背中は温かでした。

父の愛に気づかずに、おんぶされてきていたのかもしれない。いい年(40過ぎ)にもなってまだ、父におんぶされている(経済的にではなく、心理的に)。わたしをおぶろうとしている父の愛に今まで気づいていなかった。それは父にとっては自然なことなのだ。父にとってわたしは今でも3歳の女の子で、それが父にとっては自然なことなのだと今、わかった。おとうさん、ごめんなさい。そんな父の愛を受け取れずにいたわたし。

わたしが3歳のころ、父は長期出張で海外に行きました。そのとき、すぐに帰ってくるからね、といってわかれてずっとずっと待っていたのに帰ってきませんでした。そのとき、母もすぐに帰るからといい続け、信じてずっと待っていました。それで、帰ってこない父と嘘をついた母のことがゆるせずにいました。そしてわたしは成人して恋愛関係になる人は何人も海外に行ってしまうという別離のパターンを何回も繰り返しました。
それで、聞いてみました・誰が教えてくれたのかしりませんが・・・

神とわかれたことのないあなたがどうして、他者とわかれることができるか?そこには幻想が入り込んでいるだけである。つまり、別れは痛みを伴うという幻想のゲームにあなたははまり込んでしまった、だけだ。

心の痛み、という幻想は、自分が個であるという意識から生じる。個を捨てて御覧なさい。個別の体験とみなすとそれは痛みを生じさせるが、流れるエネルギーの一部として、その経験が流れていったとみなしなさい。広げてひろげて自分が宇宙だと知りなさい。月も星も太陽も、個別ではないのだ。それは命なのだ。命。個を捨てなさい。あなたと太陽、
ひとつなのだ。足し算的な考えかたをしてはわからないよ、ただ、太陽と自分が同じであると知りなさい。

「どうしたら彼と和解できますか?」とわたしにとっては父性の投影先だった人との
別れに泣いていたわたしはいじましくも聞いてみました。

和解とはいったい何だと思うか?ワンネスに和解はないということを知る経験であったということだが、対立構造そのものにメスを入れているのだから、和解を望むかぎり、その関係に進展はない。和解ではなく求めることをやめたときにそれはそこに存在する。つまり、その関係にはもともと分離も不和もなく、あったのは幻想ゲームをしてみた経験だけだ。選択しなおせばよい、ひとつであるというゲームだ。あなたとわたしはひとつであるというゲームに変えてみることはできる。

「どうやって?」

ひとつであるというゲームは、ゆるしのゲームともよばれていて、そのもの自体にじぶんがなって自分の中に存在することを受け入れるのだ。それはじぶんであって他者ではなくじぶんなのだと知ることだ。

別れや喪失の痛みというのは、分離の概念をもつから生じることで、ワンネスには別離も不和も和解もないのですって。でも、痛くて泣いてしまうときがあります。

そんなときイエス(わたしは祈る先がイエスですから)は言います。
「愛した、その歓びにだけ集中してその歓びに身を浸しなさい。」

何か教えて。

遠くをごらん、そこには何がある?
山か、海か? 空か?月か?太陽か?そのすべてが自分なのだ。
山をも動かすという聖書のことば、わかったか?そうだ、すべてが自分とOneなのだよ。

自分の手を動かすように、山も動かせるのだ。自分の意思ひとつで。神により頼む?
そんなこと、神への依存は人を自己欺瞞の迷妄に迷いこませるだけだよ。

信仰とは、神と直接対話して、自分が神であると知ること。
神とひとつであることを知ることである。

ひとつ、という概念をはずすのだ。地球的な数字のひとつ、単一という概念、個という概念、これをはずすのだ。自分と他者ではなく、自分と自分と自分と自分、なのだ。

わたしは太陽です。わたしはウリエルです。わたしは「  」です。わたしは月です。
わたしは○○さんです。わたしは☆☆君です。わたしは中国です。わたしは犬の糞です。
わたしは蛆虫です。わたしはメタトロンです。わたしは宇宙です。そして、わたしは神です。そのすべてがわたしです。わたしはわたしです。

わたしはウリエルという名で呼ばれる天使ですが、天使に個というものはありません。
わたしたちはたちなのです。地球的算数的な個を分ける見方をすればウリエルですが、
それは地球という見方においてウリエルです。わたしはメタトロンでありルシファーであり、イエスであり、あなたであり、わたしはあなたです。