第4回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiiii(5次元)

今回、ナディの一区切りということですが、私自身が個人的に感じていることとしては、こちらのトランスミッションに皆さんと参加させていただいて、たくさんのシンクロや気づきを得ることができ、マスターの存在を自分の身近に感じることができたことが一番大きな変化でした。


自分はマスターからのメッセージやガイダンスは受け取れないのではないかという恐れや思い込み、疑いを手放し、信頼をもつことができるようになったことです。



私の中に、サイキックじゃないとメッセージは受け取れないというような偏見があったようで、今までは、スピリチュアルワークは「その道のプロになにかしてもらう」というような受け身の姿勢が強かったと思います。ですが、自分の感覚をフルに動員してメッセージやガイダンスを探す努力をする、そしてそれをまとめて感想文を提出するという能動的な姿勢を持って臨んだことで見えてきたのは、受け取れなかったのは、私自身のハートが開いていかったこと、信頼が薄かったこと、感度(スピリチュアル能力という意味ではなくハートの感覚)が鈍かったことが原因だったのであって、ハートを開き、自分の真実を追求していけば、マスターからのサポートをどんどん受け取りやすくなるのだということでした。



スピリチュアルな本によく書いてある内容ですが、本当にこのことが心の中にしっかり定着しするようになったのは、このトランスミッションに参加させていただいてからです。今回のガイダンスメールで、マグダレンホーリーグレイルが、「権威や、特別意識から語りかけるのではありません。わたしたちの言葉はすべての人たちに開かれています。」と言っていますが、本当にすべての人にマスターの言葉は届けられているのだなーと。



そして何よりほかの方のレポートを読ませてもらえたことも大変励みでした。共感したり、気付かなかった視点をほかの方に指摘していただいたりと、バーチャルですが、一緒に机を並べて学ぶというのはこういうことか・・と、ひとりでは決して成し遂げられなかった飛躍的な学びがあったと思います。



さて、前置きが長くなりましたが、以下今回のトランスミッションの感想です:<ナディ当日まで>


実は、第3回ナディの直前くらい(3月末くらい)から使い始めていたオーラソーマのボトルが49番ニューメッセンジャーなのですが、先日、急にオーラソーマタロットのことを思い出し、ネットで「ニューメッセンジャー」ってどんなカードなのだろう・・・と思って見ていたら、驚愕。http://artbeing.com/aura-soma/equi/B049.htmlなんと、女性と男性が、カップを交わしている絵が・・・。


男性性のカップ、女性性のカップです。まさに、このボトルのテーマにシンクロして、トランスミッションを受けさせていただいたのだなと確信する出来事でした。


さて、月のナディに申し込んでから、私が急に思い返していたのは・・・第1回のころからテーマにもなっていた、「女性としてスピリチュアルなことを追求するおそれ」の原因となっている「タントリックな巫女」の過去生(いくつかあると思うのですがここ1年の私にとってはレムリア時代のものがクローズアップされていたと思います)と、それにかかわってきたある男性との間で交わされた愛憎激しい関係性のことでした。で、ある晩、急にイザナミイザナギの神話を思い出していました。正確に言うと、イザナミの気持ちにシンクロしていました。


ここ1年間、タントリックな巫女の過去生を思い出すきっかけをつくったその男性に対して、愛と憎しみの入り混じったような感情をぶつけていました。「なぜよりによってあなたが私のそういう部分を見てしまったのか」というような、かわいさ余って憎さ百倍という感じです。イザナギは、冥界に降りてきてくれたけれど、イザナミ自身が見てほしくない姿を見た。そして、それでイザナミが怒ったら、イザナギは恐れて逃げ出した。だからイザナミは怒り狂った。というあの話ですが、ちょうど数か月前、おそらくレムリアの巫女時代と思われる過去生をその男性がチャネリングしてみてしまったときから私とその男性の間で起こったこととまったく同じ感情の推移でした。加えてその人に「これからあなたはだんだ(その巫女だった時代に)似てきます」と(おそらくご本人は何気ない気持ちで)言われたことで、私の心の奥の怒りの装置みたいなものにスイッチがはいってしまい、その後はただただ、その男性がなすことすべてが気に入らなくなり、深い部分で感情が止められないような状態になっていました。


で、トランスミッション前日に拝見したガイダンスメールを読んでいて、この感情の根底にあったは相当強い「恨み」の感情だということに気付かされました。


「あなたがたが、分離の経験のために、男性性と女性性に分かたれたときに、わたしも含め女性性は、ひどい喪失の痛みもありましたが、自信もまたありました。わたしたちの愛は、必ずや、その男性性のシグナチャーを思い出させられると、それくらいわたしたちの愛は強く完全であると、わたしたちは信じていたのです。けれども、わたしたちは、少し楽観的過ぎたようです。実際には、それは、非常に困難でした。男性は深く傷つき、わたしたちの愛でも目覚めなかったのです。そのときにわたしたちは自尊心に大変な傷を受けました。けれどもわたしたちは、それを認めたくなかったために、男性に対して軽蔑する意識にすりかえました。そして男性を無視するようになりました。女性のほうが優れ、女性だけでいたほうが、愛と調和を維持できると思い始めてしまったのです。女性が、力を振るう時期を経て、次に男性が反撃に出たタイミングで、わたしたちは、罪悪感とともに犠牲者という立場を受け入れました。」(マグダレンホーリーグレイルのことば)


これは・・・たぶん私がレムリア時代に経験したを書きなぞっている・・・と直感的に感じました。レムリアの巫女だった過去生で、私はレムリアの使節みたいなことをしており、アトランティスにレムリアの叡智を伝える交流のようなことをしていたようです。やがてこの2つの文明の間がうまくいかなくなったころ、アトランティスとの交渉に行ったようなのですが、失敗し、アトランティス側と決裂・・・。このあたりの過去の自分の気持ちを探っていくと、原風景として出てくるのは、女性たちと男性たちの対立です。私にとってはレムリアは女性的な要素を強く感じる文明であり、アトランティスは男性的だと思っているのでこう感じるのだと思います。


以前から、このレムリアの過去生以来、アトランティスの神官たち(男性)に対するすごい愛憎(かわいさ余って憎さ百倍)があるということには気づいていました。同時に、ずっと目をそむけていたことですが、「絶対自分たち(レムリア・女性)は悪くない」という気持ちももったような気もします。失敗した、という事実に傷つき、そこから立ち直るために、問題をすりかえ、彼らを軽蔑するようになったのだと思います。


私が属していたレムリアのころのグループは、アトランティスと共同で何かをしていたようですが、その共同プロジェクトを進めていく過程で、上記のようないさかいがおき、私たちレムリア(女性たち)がアトランティス(男性たち)を締め出そうとしたようだということです:「そのときにわたしたちは自尊心に大変な傷を受けました。けれどもわたしたちは、それを認めたくなかったために、男性に対して軽蔑する意識にすりかえました。そして男性を無視するようになりました。女性のほうが優れ、女性だけでいたほうが、愛と調和を維持できると思い始めてしまったのです。」というマグダラのマリアの言葉そのもののことが、起きたのだと思います。


そして・・・私がレムリアの過去生をたどるとどうしても出てくる「犠牲になった感」の背景には、実は、マグダレンが説明しているとおりに「罪悪感」とセットになっていました:「女性が、力を振るう時期を経て、次に男性が反撃に出たタイミングで、わたしたちは、罪悪感とともに犠牲者という立場を受け入れました」


・・・この一年間、ずっとずっと引きずってきた「レムリア」の過去生の解消・浄化のために、本当に私が向き合わなくてはならなかったのは、アトランティス(男性)に傷つけられた女性性の癒しというよりも、「私たち(女性)は絶対悪くない」という傲慢さ、優越感、万能感だったと思います。


第1回目のトランスミッション中に受け取ったメッセージとして、「女性意識は幼く出ると、傲慢さ、優越感、万能感になる」という、まさにそれが私の奥に根深くしみついていた、歪んだ女性性の負の側面だったと思います。


「・・・それは、バランスでした。そして本当は、わたしたち、女性の愛する力を取り戻すための、わたしたち自身の選択でもありました。そして、もう一度男性と深く交わらなければ天上の音を思い出せなくなってしまうと知っていたのです。」


女性優位の時代から現在の男性優位の時代へ推移したことの背後にある「隠された意図」、それをレムリア時代の私(そしてそれ以降の数々の転生においても)は受け入れていなかったようです。


この一つの極からもう一つの極へという「振り子運動」は、やがて、女性性だけでも、男性性だけでもなく、いつか、その2つが手を携えて、ともに同じ目線で(ちょうど、オーラソーマ49番ニューメッセンジャーのタロットカードのように)向き合うために起こった、大いなる計画の一部だったのに・・・。


「信頼を試していたのです。そして、来るべき時代に蘇るために。来るべき時代に蘇りリーダシップを取るべき女神は、虐げたものへの復讐をしてはならないのです。力の誤用をしてはならないのです。女性意識(女神意識)は、幼く出ると傲慢さ、優越感、万能感となります。ハートに沢山の痛みを引き受けることで、私たちは力の誤用をしない共感能力を磨いてきたのです」・・・第一回目のトランスミッションで自分が受け取ったメッセージですが、このことの意味がようやく分かってきたような気がしました。



実は私自身の心の中には、「男性なんていらない」「男性に復讐してやる・いじめてやる」というようなどこかそういう気持ちがあって、どちらかというと今回の人生では、男性に傷つけられたことよりも、むしろお世話になったり助けてもらうことの方が多かったのに、なぜか彼らをいじめたくなる、わざと傷つけたくなる、という思考のパターンが昔からあったのです。このようなメンタリティ、それは私の負の女性性から来ているものだと思います。


思い返せば、「メドゥーサ」も、本来は美しい存在であったのに、傲慢さによる罰をうけて魔物にされ、海に沈んだとされていますが、この傲慢さは、私の中にある負の女性性とリンクするものだと気付いたのです。


「どぶさらい。水の底にあるものを、切り捨てるのではなく拾い上げる」。トランスミッションの当日の午前中、こういう言葉が響いてきましたが、まさに、水(海)の底の底にある、汚い、あるいはおぞましい、自分ですら自覚できないような感情の深みに沈んでいる魔物、あるいはかつてのメドゥーサを見ること、それができなければ、本当の意味で、ばらばらになった女神は蘇ってこないのではないか・・・。



<ナディ当日>

実は、急に思いついて、第4回ナディ&ヴィーナスファンデーションの日に長野県安曇野に旅行に行くことにしていましたので、ナディ当日の金曜日は、朝から特急に乗って長野へ向かっていました。


その電車の中で、思いついたことをノートに書いていましたが、なぜか今回のナディで気になっていたのが、タロットカード(カモワンタロット)でした。このタロットは、一説によるとマグダラのマリアの教団が作ったとも言われている特殊なカードなのですが、そのカードの「月」のカードが気になって仕方ありませんでした。
(参考http://ja.camoin.com/tarot/Tarot-Marseille-Camoin-Jodorowsky-ja.html「月」のカード)

「そして、さらに、わたしは月を通って太陽まで至る道筋をすべての女神たちに準備したのです。ですからわたしは太陽のホーリーグレイルなのです。そして今という時に存在するすべての女性に対する称号なのです。・・・わたしは女性性(月)を通っての太陽への道を整えたので、マグダラ(塔)という称号が与えられているのです。そして太陽という称号も女神という存在で得ました。太陽の女神と呼ばれる存在はみな《その秘密》を受けおう存在のメタファーです」


この個所を繰り返し読んでいるうちに、この「月」のカードの中にある2つの塔と、二匹の犬、そして海の中から浮かび上がってくる海の生物、そして半月が気になって仕方なくなりました。


この半月を見ているうちにふっと思ったのは、「月の光には太陽の光が入っているのだ」ということでした。当たり前ですが、月はそれ自体が光るのではなく、太陽光を反射しているんですよね。



そしてさらに、先月くらいから読んでいたシュタイナーの「聖杯の探求」の中で、シュタイナーもまた、月を聖杯として解釈していたことを思い出しました。シュタイナーによると、月の暗闇の部分は、太陽の霊的側面であり、月の光の部分は、太陽の物質的側面だそうで、月の光輝く部分は聖杯を、そして月の闇の部分はその中に入った聖体であるということでした。旅路でしたので、詳細をすぐに調べることはできなかったのですが、そのことが強く印象に残りました。


なにしろ、このナディは半月の日に行われていますし、何か意味があるのかなあと思って、留意しておきました。


<9:00〜11:00>

お風呂に入っていました。その日一日、雨が降って白濁した肌寒い天気だったので、持ってきたバスソルトをホテルのユニットバスに入れ、半身浴。その最中、自分の体をみていて思ったこと・・・「なんだか私の体=陸地で風呂の水=海みたい。」ということ。ちょうど、おへそのあたり(丹田)まで湯を張っていたのですが、そこで感じたこと・・・それは、人は、本当はハートチャクラくらいの標高のところ(ちょうど、安曇野とか上高地とか)に住むのがいいのかもしれないなあ。ということでした。


風呂からあがり、たまたまつけたテレビで「趣味の園芸」がやっていましたが、なぜか気になって見てしまいましたが、畑づくり、庭園づくりは自然がお手本です、という言葉がとても印象に残りました。そして改めて、昨今園芸や農業が静かにはやっているということも感じました。


そして、「手を入れる」こと自体は本来悪いわけではない、ということもふと思いました。


「本来「手」はハートチャクラにつながっているものであるので、「手」というのはそれ自体が悪であるわけではない。ハートチャクラとのつながりが断たれた状態で手をつかうと、単なる技術になってしまう。そして、このハートチャクラの水は、澄んでいなければならない。そこのそこまで見通せなくてはならない。私たちはみな、チャクラはハートチャクラひとつで、それで他のすべてとつながっていた。だけど、人間の意識の進化のために、チャクラが7つに分化した。人間が再び世界と調和するためには、手がハートチャクラにつながることが重要。ハートチャクラからのみ、「手」を使うようになるまで、時間がかかった。サードアイ「だけ」、セイクラルチャクラ「だけ」で「手」を使ったりもした。本当に「手」がハートチャクラに整合すること。そのとき、「手」を入れることに人間は罪悪感をもたなくなる。それが庭師としての人間の再誕生。かつて、庭園の鍵を託された人間、その人間になる。手がハートチャクラそのものであったとき、人はそれで世界(庭)とつながる庭師だった。「手」は単なる技術力ではなかった」


ここまで感じてきて私は、レムリア=ハートチャクラ=自然=女性性、アトランティス=手=テクノロジー=男性性という図式を想いました。そうか、「手」は、ハートチャクラから発達してきた器官で、本来ハートチャクラと協働するものだったのだ、と。以前のトランスミッションで、マハコハンが「レムリアの中から出てきたアトランティス」というようなことを言っていたと思うのですが、そこにつながってきました。手とハートチャクラが整合するというのは、レムリアとアトランティスの統合ではないか、と・・・。



<10:00〜>

そんなこんなを想いながら、瞑想姿勢に入りました(月のナディだったのでムーンストーンの小さなタンブルを手にしながら)。目を閉じると、どうしてもタロットカードの「月」が思い浮かんできます。タロットカードの月は、あいまい、はっきりしない、不安、おそれ等と解釈されます。


ですが、おそらくこのカードは吉凶混合のあいまいな意味に終始するだけではないと私は感じました。何しろこのカードは、「太陽」の直前にあるのですから。


「もっとも低く暗い所から、上へ、上へとのぼってくる。おそれないで、彼らは魔物ではない。メドゥーサたちは、かつては美しくやさしい庭の中心にいる女主人だった。月を恐れないで。月が見せてくるさまざまなイメージや、月が与えてくるものの力を恐れないで。月の白、それは未分化の白ではなく、あらゆる色を全部知っている白。暗いところも低いところも知っている白。」


ここで急に感じたのは、「月経」のことでした。「月経の血は、汚いものではない。無駄に流されるものではない。女性がもつ産出能力は、実際に子供をもつもたないに限らない。かつて女性たちは、自分たちの体から流れる血を定期的に大地にかえしていた。植物に与えたりしてきた。女性は、自分の体を傷つけることなく、生命の根源である血を体から出すことができる。そのことの意味を思い出して。それは、すべての生命の母としての海の記憶。女性自身も、そして男性も、いつか月経の血をおそれなくなるときがくる。そのとき、無駄に流されてきた(戦争、殺戮)血が止むだろう。男性は血に慣れていない。それなのに、女性たちが血をかくすから、男性は血(海)をおそれるようになった。そして、おそれている自分自身をなじり、おそれていないことを証明するために戦争や殺人で自分の、そして他者の血を流した。それは、海につながるための血を女性たちから分かち合ってもらえなくなったからだ」


ここで思い出したこと・・・それは、レムリア時代に私がアトランティスと一緒にやっていた共同プロジェクト、それは「生と死の秘密にかかわる何か」であったと、私の過去生をリーディングしてくれた人に言われたことでした。一説によるとレムリア時代の人間の体は今とずいぶん違っていて、レムリア時代がすすむにつれて人間の身体構造が変化してきたとも言われていますが、その進化の過程で「女性の血=生命」にまつわることをめぐって、このような争いがあったような気がします。そして、その秘密から「男性を締め出した」のではないかと感じました。


最後・・・「月の2つのマグダラ(塔)」という言葉が浮かんできました。「月は太陽の光を受け止めるものでありますが、太陽の光の2つの側面を示すものです。月が示すのは、物質としての太陽の光と、霊としての太陽の光です。月の2つのマグダラ。それは、光の塔と闇の塔、霊の塔と肉の塔のこと。


このタロットのカードを見てください。相争うとともに互いに恋い慕う2つ犬たちが描かれています。彼らは、みずからにないものを互いに認め、時に争い、時に恋したい、鳴いています。ですが、これらはほんとうに対立しあうものなのでしょうか? 絵の中の犬たちの耳を見てください。水色の犬の耳は黄色く、黄色の犬の耳は水色です。 それぞれ、お互いにお互いの中に自分の一片を認めるからこそ、相争い相慕うのです。


それを理解し、月の2つのマグダラを私たちのうちに築くとき、閉ざされていた水門が開き、かつて海底に沈んだ魔物たち・・・メドゥーサ、その他さまざまなものたちが浮上してくるでしょう。私たちが闇として、恥として、悪として、罪として葬り去ったものたち、そ
れらは私たちの必要な一部であったのです。


でも恐れないで。私たちが恐れれば恐れるほど、海底はおそろしく厭わしいものとなります。 月の光によって、海底のものたちが上に向かっていざなわれてくるのは、私たちを恋い慕うがためです。 彼らがまどうことがないよう、ただ私たちの心の水(感情)を澄ませてください。それが、文字通り地球の水を、海をきよくします。そのためには、私たちが内なる2つのマグダラを築くことが必要です。私たちは月の中に描かれている2つのマグダラによって、真の太陽を知るのです。



月とは、真の太陽への道であり、完全にバランスのとれた太陽を示すもの。聖杯とは、聖体を入れる器のこと。聖杯とは月の光輝く側面であり、聖体とは隠されている太陽の霊的側面、月の「闇」の部分です。この月の逆説を知るとき、私たちの2つのマグダラが1つになるでしょう。 そして私たちは太陽の都への道を知るのです」



そのとき感じたことは、「そうか、悲しかったり、苦しんだり、傷ついたこと、それすらも、必要なことだったのだ」という深い理解でした。どうしても、そういう悩みや苦しみや闇に向き合うのは、いやだ、負けを認めているようだ、と思い続けていたのですが、それが、本当の意味で、腑に落ちたというか・・・、そういうものを体験することで、より広く深く世界を理解したのだということ、そして、それは魂の本質を損なうのではなかった、ということでした。


私の中にどこか、闇というのが入り込むことは人生の敗北であり、あるべきことではないと思っていたことは確かで、闇を見つめる前に抑圧してきていました。傷ついているという事実すらも無視したいと思っていました。


でも、「月の2つのマグダラ」のメッセージによって、本当の光は闇を消そうとはしない。そして闇は、光によって守護されて、いつか真の意味を明かされるのを待っているのだと(そして、マリアたちが言うように、「時はいま」なのですね)。

このとき、何か深いカタルシスがあったようで、涙がスーッと流れました。




<11:00〜>
エーテリックなヒーリングは、ムーンストーンをサードアイにおいて受けました。途中で眠ってしまったようです。



<後日>
旅から帰ってきて、シュタイナーの「聖杯の探求」を開いたら、こんな一節が:「黄金に輝く三日月は、物質的な日光が月に当たることによって生じます。太陽がこちらから当たると、こちらの月面が輝き、照らされた面が黄金に輝く杯に見えます。そのなかに、聖餐式のパンが安らいでいます。物質的には暗い部分、日光が到達しない部分ですが、霊的には別です。日光が月に射し、黄金の輝きで反射されるとき、なにかが物質を通過していきます。通過するのは、日光のなかに生きる霊的なものです。太陽の霊的な力は、太陽の物質的な力のように阻止・反射されません。その力は通過します。そして、月の力に止められることによって、私たちは黄金の杯のなかにやすらう太陽の霊的な力を見ます。」



1回目のナディで受け取ったメッセージの中に、「光を信じていますか? 光を信頼していますか?暗闇を消すのではなく、暗闇に理解をもたらすものが光なのです。一見何も分からないくらい混沌として無秩序な状況のなかに、深い理解(光)を見出すとき、私たちは宇宙の真理につながるのです。それがグノーシスです。私が守護してきた聖杯の意味です。」というのがありましたが、まさにこれって「月」のことだったのでは・・・と・・・改めて感じてびっくりです(少なくとも私的には)。



復活祭(そういえば今年は4月12日でしたね!太陽のナディと月のナディの間に復活祭だなんてできすぎている?)というのは、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」ですが、春分以降日はどんどん長くなること、さらに、満月からどんどん欠けていく月を見ることで、その欠けた闇の部分に太陽の霊的な側面=聖体=キリストの復活がだんだんと現れてくることを、人々が理解できるようにとこの日に設定されていた、・・・という話も書いてありました。聖杯の守護者というマグダラのマリアが、キリストの復活を一番に目撃したこと、そのこととも深いつながりがあるように感じています。



* * *

今回のナディは、私にとっては、それまで断片だったいろいろなメッセージやガイダンスが、一本の糸に貫かれて、まとめられ、完結したという感覚をもつものでした。分からないとき、手探りで闇の中を進んでいるときは、苦しく辛いものだったけれど、今振り返ってみて感じるのは、すべて無駄ではなかったということです。ここまで自分を肯定していいのかと思うくらい、深いところで自分を受け入れられる感覚ができてきて、それにともなって解放されている感覚があります。


長〜くなりましたが・・・どうもありがとうございました。