第三回ナディマスタートランスミッションスタディシェア補足追加iiiiiiiiii(6次元)

トランスミッション第3回感想の補足です。

その後他の方の感想を拝見して、幾つか、あっ!と思ったことがあります。昨日UPされていた方の補足文含め、茂木さんの番組をご覧になった方がその内容を書いておられた「安全地帯」についてがひとつ。そしてその他の方々の何人かが書かれていらした男性性についても、自分がはしょった部分を書いてくださっていた方がちらほらと。



男性性といえばもうこれしかないくらいに典型的な出来事を、文字数がかなりになるのを気にしてあえて省いたのですが、皆様の感想を読んで刺激を受けて、やっぱりシェアということからすれば「あ、私と同じ」と心の中だけで納得して終わるのじゃなく、内容は多少似通っても、ここにもいます、という意思表示も意義があるではないだろうかと思いましたので、書かせていただきました。



茂木さんの番組、私も見ていました。編成時間変更のため途中からでしたが、ちょうどチャンネルを合わせた時にそのことについて喋っていらした。私はそれをずっと聞いていて、「あぁやっぱりな…」と思いました。感想ではガイダンス冒頭のマグダレンホーリーグレイルがおっしゃっていた内容にほぼその通りのことが起こったとだけ書きましたが、それは心の安全地帯を求めるが故の行動に他ならず、自分にしか出来ない特別な方法で社会的成功を獲得するための沢山の努力がすべて失敗したのは、「自分が思うような両親からの愛」を欲する気持ちが裏に隠されていたからでした。



突き進んでいく最中も時々それを自覚していましたが、知ったところで到底非現実的な夢であり、あくまで自分自身の幸せを獲得するため、と毎度気持ち新たに邁進していました。ドキュメントをよく見るようになったのも、自分と似たような、もしくはそれ以上過酷な環境から成功した人たちを知って、安全地帯がまったくなくても成功することは可能だと、自分を鼓舞するためでした。だけど、私の場合は、安全地帯なしでは…心の安定なしではやっぱりだめでした。


父親はエゴの塊のような人で、一人自由に生きながら自分の叶わなかったことは押し付け遠隔操作で母を使いコントロールを入れてくる、「心の死んだ人」ですし、母は支配的な性格でお嬢様育ちのため、自分が私に対してどういう言動をしたとしても周りが彼女にしたような大切な扱いを私にも求め、私が防衛本能から自分を主張すると「生意気、父親にそっくり、いつか不幸になる」というのが常套句。本人は言い放ってスッキリしすぐに忘れるのですが、言われたこちらはいつまでもそれが多大な傷として残るのです。



兄弟はいますが、こんな状態なため常に競争の図式が自然と出来上がってしまっていて、特に一人の弟は画策してでも一番の愛を獲得しようとし、私もストレスや性格が合わないことなどから結構虐めたりしていました。心理的癒着と競争、主導権争いの図式がこの家庭にあることが判ってからは、意識的にそれらから降りるようにしてきましたが、他の兄弟は未だに競争を続けているように見えますし、私もまだ今の状況ではこの図式に引っ張られることが無意識的にまだある気がします。



中立的な立場でいるおじいちゃんおばあちゃんのいる家が本当にうらやましかった。親が間違ったことをしてもそれを諭してくれる人がいるというのは、子供にとってオアシスのような安住の地であり、それがあったならきっと「心の安全地帯」は育まれたでしょう。母親は彼女なりに、私が虐めにあっている間「大人のやり方」で対策を講じてはくれたし、そういうことなどで、私はお前のことを何にも思わないわけない、ちゃんとやったじゃないのとケンカになる度言っていましたが、私にとってはそれはそれで確かにそうだけど、事ある毎に私という存在のそもそもの性質を無視しきって彼女にとっての子供としての理想的な態度を押し付けてくることや、嫌なことがあって愚痴れば受容どころか「不平不満の塊」、彼女が間違っても絶対に謝らない、彼女を怒らせれば常套句で放たれる先のような呪いの言葉の方がよほど傷つき堪えていたので、チャラにもならず、よくも(お前の子供である)私を傷つけたな!物じゃないんだ!こんなのは愛じゃない!という気持ちが増幅するばかりでした。



他の方の感想に教会のことが書いてあったので書かせていただきますが、母はカトリック信者です。とはいえ洗礼は受けた(洗礼名はマリア)ものの教会には行かないし寄付もしませんが、彼女が愛してやまないお母さん(私から言う祖母)がカトリックだったことで全幅の信頼を置いており、マリア様の名前を洗礼名としてもらったことの誇りや、いつでも神様は見ている、祖母もカトリックも素晴らしいのだと常日頃言っていた。癇癪もちの子供は確かに大変だとは思いますが、自分の放つ言動の影響を飛び越えて、完全無欠で悪い要素が一切ない、祖母を髣髴とさせるしとやかで優しく女の子らしい姿を押し付けてきたりすることがあべこべであることに彼女は真実の部分から気づいていないのです。もしくは気づいてしまえば親の威厳が保てないという古びた考えによって恐れを抱いているのでしょう。



彼女は母親になりきれておらず、未だ半分祖母の娘の状態でい続け、失った祖母の面影を一人娘である自分に垣間見たい欲求を度々感じていました。またカトリックだけが本物という傲慢さと、彼女の、自分はいつでも正しいという支配的な姿勢がいつも二重に折り重なって見えていました。「キリスト教の信者はその派に関わらずどうしてこうも傲慢な人が多いんだろう」と物心ついた頃から疑問に感じていた。アメリカではもっと露骨に、キリスト教でない、もしくは無宗教だと毛虫を見るような目つきであからさまに軽蔑する人もいます。(もちろん教会に関わるすべての方が傲慢だと言う事ではありません。)自分はイエス様に触れていただいているのだと思いこんで、さもそれが人間としての最大の誇りのように勝ち誇る姿は、(私の)傍目からは奇妙に映る。目の前の家庭が機能不全になっているそのことすら決着を付けられないで、ヒモみたいなダメ夫と連れ添うことすら奉仕と考えて、なのに日々同じような内容のケンカと罵声がいつまでも絶えないなんておかしいでしょう。自分を差し置いて、自分を振り返る作業なしに、絶対的な誰かと関わっているからというだけで人間的成長を止める必要もなければ、時にはその絶対的存在に対して疑問を感じることすらままあり、しかしそれは冒涜にはなりません。彼と己の明確な個の違いがはっきりとしたというだけのことですし、彼に介在している他の存在や意図を見破っただけのことかもしれません。



しかしそのおかげで、さもするとポッカリ空いた穴が巨大なので依存性は高いはずの自分が、無宗教でもなんとかやってこれたし、それでよかったしこれからもそれは変わらないです。とはいえ自分を振り返る作業に没頭しすぎて外や人との繋がりをずっとお預けにするのも不健康な状態に他なりません。自分がそうなってしまったのは、他人を巻き込まないため、他人に話したところで何の解決にもならないと判ったため、人の口に戸は立てられないし弱みを握られないため、そして人との関係ではお互いのいい部分だけを見せ合っていたいという考えからのことでしたが、本当は私にはもっと人や外と繋がりながらバランスを体で覚えることと、まだ多く残っている恐れをどんどん手放しそれ以上のボリュームで本質的な癒しに取り組む必要があったのです。これまでは両方一度は難しく、後者だけで手一杯でした。



それから、トランスミッションの感想を送ってすぐに、最近掃除で出てきた昔から溜まっていた手紙を処分することにしました。最初は見るのも憂鬱で、それは当時の出来事や自分自身に触れる恐れから来るものでしたが、これらを見なければ本当に自分がつい今まで浮上してくる「あんな目に遭った、こんなひどい目に遭った、自分は何にも悪くないのに!」というどうしようもない感情が正当なものかわかるとも思っていて、また手紙の存在をすっかり忘れてもいたのですが、掃除を機にひょっこり出てきたのです。向き合うその時が来るまでは見えないところにしまっておこうと思ってその辺に置いておいたのですが…



しかし過去を手放す(リリース)という観点から、今がその時期と思い、思い切って全部広げシュレッダーにかけ始めました。見ないでかけたものもありますが、8割は目を通しました。思春期特有の悩み、単純に面白い手紙、仲の良かったクラスメイトとお互いに励ましあっていたり、時にはこうあるべきだよ、なんていう事も言い合いながら、それでも基本的には彼・彼女達を笑わせるようなふざけた文面で手紙を送っていたことを思い出しました。周囲と上手くやるためにピエロになった時期から、自分を落とさずウィットを使うというように変化していったのでした。もらった返事には大抵そのことについて久しぶりに笑った、とかありがとうとか書いてあり、見るのは怖いと思っていたけど、心を切り裂くような悪意のある者からなど手紙すら来ないではないかと思い、ひとりホッとして作業を続けました。



けど、高校を卒業して数年経った頃から、友達の返事に「あなたは謎」と書かれる様になっていて、これには久しぶりにショックを受けました。彼らからそう書かれたことにではなく、両親からと世間からの絶対的な愛の獲得と、参りました!と言わせる為に最初の目標に邁進し始めた頃、深いどこかで自分が出来るわけないという自信のなさと、もしも上手くいったらきっとびっくりする、という悪戯心と、成功を機に誰にも触れられないくらい遠くに行ってやるという妙なプライドの高さが織り交ざった心境をありありと思い出して、少なくとも彼女達にシャッターを降ろしたのは自分が先だったことに悲しくなったのです。



確かに、楽しい日々もありました。仲良くしていた友達も。だけど、誰との関係も薄い壁一枚のような感じで、こうしてみたら?こうするべきだよ!と言うアドバイスや指摘などはこの年頃はよくやるものだと思うのですが、そういうことが一番窮屈で、そんな指摘よりも価値観が近くただまるごとお互いを受け止めてあげる存在が欲しかっただけなのです。誰が一番まともか、誰が一番常識や時代にマッチしているか、といった事は私にとってはずっと重要ではなかったんです。その時世間では終身安定が唯一の幸せのように言われており、それを意識している子達も多かった。勉強が出来て常識的であれば一生困らないような雰囲気だった。私はそもそもその中からあぶれるような素養だったため、本当に自分に合った居場所や友達や恋人をずっと探していたけど、なかなか巡りあえなかった。


自分にとって普通の言動がことごとく変っていると言われると、それで面白がられることはあっても批判の標的になることもあり、心の枯渇も広がっていった。成功を勝ち取るためには多くの賞賛を浴びなければならず、だから常識的に生きることを重んじる人と、私のように孤軍奮闘して誰にも手の内を明かさずに努力を続けて、本物の友達と本物の恋人と本物の場所を手に入れるのだと考えている人と、それぞれ深い部分は似通っていてもただ選んだ道や考え方などが違っていただけだったと思います。



そのうち私はより尖がった状態になって本心を隠し、人が遊んでいると喜び、その間に寝る間も惜しんで努力するようになりましたが、そういう心境で人と繋がれるわけもなく、周囲はライバルだらけになりました。例え向こうがそうは思わなくても。同じクラスだからというだけで仲良しこよしするのもさせられるのも大嫌いで、個人的にはそれどころじゃなかったのです。



子供の数が爆発的に増えた時期に生まれた事に加え、興味もない勉強をすることにも白けて身に入らず失敗続きだったので、今度こそ失敗できないというプレッシャーが相当ありましたから。その後仕事の現場では逆にチームワークを重視してやってきましたし、その意義も見出しているので問題はないのですが、今でもあの時の心境が心の中に巣くっていて、この手紙の処分中だけでなくたまにプライベートを中心にそういう考えが顔を出すことがあり、もういい加減解放されたい気分です。



今はもうそれもこれも全部疲れたな。というだけです。シェア出来ないことにも、シェアしたら自分の存在の一部が削り取られるように思えることも、逆にそう思って接せられることにも、人に心の中でついたてを立てるのも。逆に拒否されることにすごい恐怖感があるし、無視されることもすごく傷つきます。今、本物のバランスを学ぶ時期なのかもしれません。


あ、そういう意味では次回の月のナディはやっぱり大切かもしれません。マグダレンホーリーグレイルのような強さでありたい。彼女に触れたいのですが、なかなかくつろぐのが難しくフォーカスしづらくなっています。今回トランスミッション後の盛り返しでしたが、同時にやたら眠くなったり、ぐっすり寝れる日があるかと思えば3時間くらいで起きてしまう日とありちょっと疲れています。この2年くらい頭痛がしょっちゅうになってるのですが、最近またで辛いです。



ちょっとエネルギー切れしているようです。最近特に、「シンプルに、シンプルにしたい」と心の中が言います。私の心の底からの望みです。まずは持ち物から−ということで先月から本格着手しましたが、気がせいて身体が追いつきません。弱りました…。整理に伴って家具も作りたく、他にもすることは色々とあるのですが、クリスタルハーブのセイクラルチャクラエッセンスを飲んでやっとエンジンがかかる状態です。飲まないでいると間が持たず、本当はインナーチャイルドエッセンスのファミリーを一本取りする予定が、これだけを取っていると下腹部が異様に冷えだすので、併せ飲むという禁じ手をせざるを得ず、またライトボディエッセンスのエーテリックボディも身体の不調を取り除くために摂ったりして(これを飲むと全身の不調が少し楽になるので)、エッセンスも定まらない感じです。


これまでのこういった生き方でチャクラはとうにバランスを欠いていますが、それが見過ごせずイライラしてしまいます。ふみさんが今回はちょっと大変かも−とおっしゃっていましたが、そうかもしれません。もしかしたらメンテナンスをお願いするかもしれません。まずは自分でも今は意識してきちんと休めるようにしたいと思います。


文章長くなりましたが、自分を隠すことを長くやってきた自分にとってはずっと人に話さないでいた、母の言葉で言えば「愚痴」にあたる部分を人様に晒して良いのかという気持ちが巣くっていたのですが、今回は素直に浮かんできた言葉と共に、すべてありのままに書くことの方が大切なので、このボリュームとなりました。



そう書きながら本心は「文章長いよ!」と怒られやしないか、あなたはもう来ないでくださいと拒否されやしないか、などなどビビリまくりです。あれも傷つく、これでも傷つく、ほんとに自分は傷ついてばっかりだなぁと思うと度を越している様にさすがに笑えてきました。(あんまり笑い事じゃないんだけど)傷つきやすさも笑えればそれもまた滋養かな?責めるよりはましかもしれません。傷ついているのは不必要なプライド=エゴなんだろうと思います。



また次回も、皆様から学ばせて頂きたいです。どうぞよろしくお願いいたします。お読み頂き、どうもありがとうございました☆



《更に追加分いただきました》
昨日の補足では母のことけちょんけちょんに言いましたが、今はこのエネルギーワークを受けさせて頂いている影響か、先々月辺りから母もだんだん柔らかくなり始めて来ているんです。昨日は痛みにフォーカスしていたので、そうなるとどうしてもひどい部分しかクローズアップされないのですけれども、母も母なりに頼れる者が少ない、親や人に迷惑はかけられないという考えの下、一人孤軍奮闘してきたことはよく知っていますし、感謝も…シテマス。


最近はケンカもほとんどせず、穏やかな時間が流れるボリュームの方が増えていると感じていて、本当に有難いです。皆が無意識下で繋がっていることを彷彿とさせるこの頃です。