第三回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiii(6次元)

こんばんは、先日は第三回目のトランスミッションに参加させていただき、ありがとうございました。早速ですが感想です:



今回は、約一か月前の第一回に続いての、二回目の参加でした。ですので、私の場合は7次元→6次元という形で学ぶことになったのですが、第一回目のトランスミッション(7次元の学び)に比べると、今回は(今回も内容的にはぎっちりとつまっていたのですが)、心の準備があった分、落ち着いて受け取れたように思います。


前回の流れからしても、トランスミッション当日だけというよりも、お申し込みさせていただいてから、いろいろなガイダンス?が来るという感じなので、お申し込みさせていただいてから数日の間も、注意をして日々を過ごしていました。


男性性の癒しということで、自分の過去生の辛い思いとかがよみがえってくるのかと、ちょっと身構えていましたが、どうやら私にとって今回のテーマは、パートナーシップにおける男性性の要素にフォーカスが当たっていたように感じました。


トランスミッション申し込み直後、急にパウロ・コエーリョの「アルケミスト」が読みたくなり、2日間ほどかけて読破しました。


これは、サンチャゴというスペインの羊飼いの少年が、ピラミッドに宝物があるという夢を見て、それを追い求めて冒険をするという旅の話なのです。この話の中で少年は、「大いなる魂」との対話の仕方や、「前兆」に従うことなど、「魂の錬金術」を学んでいくのですが、話のクライマックスというか、重要なシーンの中に、砂漠のオアシスの民である運命の女性ファティマと出会う話があります。


このファティマというのはサンチャゴの双子霊(ツイン・ソウル)であり、サンチャゴは、彼女と出会うことによって、それまで諦めそうになったり脱線しそうになった、ピラミッドを目指すという夢を真剣に追い求めるようになるのです。



サンチャゴがファティマに求婚をすると、その後、ファティマはこんなことを言います:
「あなたは私を愛していると言ったわ。それからあなたは宇宙のことばと大いなる魂にちて教えてくれました。そのために、私はあなたの一部になったのよ。」「あなたは私にあなたの夢を話してくれました。・・・だから今、私は何も恐れません。なぜなら、その兆が、あなたを私のところへ連れてきてくれたのですもの。私はあなたの夢の一部よ。そしてあなたのいう運命の一部なの。だからこそ、あなたにゴールに向かって進んでいただたいの。・・・あなたの夢を求めて出発してください」


「私は砂漠の女です。そして私はそれを誇りに感じます。私は自分の夫には、砂丘を作る風のように、自由に歩き回ってほしいのです。そしてもし必要であれば、彼が雲や動物や砂漠の水の一部となることも、私は受け入れるでしょう」


その後もサンチャゴは、ピラミッドの宝物よりもファティマと一緒にいるほうがいいのではないかと逡巡したりして、ピラミッドへ行くのをためらったりするのですが、錬金術師にこんなことを言われ、最終的にピラミッドへの出発を決意します:
「ファティマは砂漠の女だ。彼女は、男は戻ってくるために遠くへ行かなければならないと知っている。それに、彼女はすでに自分の宝物を見つけたのだ。それはお前のことだ。だから、彼女はおまえにも、おまえが探しているものを見つけてほしいと思っているのだ」


「男が自分の運命を追求するのを、愛は決して引きとめはしないということを、おまえは理解しなければならない。もし彼がその追求をやめたとしたら、それは真の愛ではないからだ・・・・・・大いなることばを語る愛ではないからだ」


こうして、ファティマの愛を確信した後、ピラミッドへの旅に出たサンチャゴは、ちゃんと宝物を見つけることができるのです。




この本を読んだとき私が感じたのは、「サンチャゴがうらやましい!」というものでした。女性である私がなんでこんな風に思うのか、そのときはあまりよくわからなかったのですが、トランスミッション前日に送っていただいたマスターからのガイダンスを読んでいて思ったのは、サンチャゴ=男性というだけではなく、誰の心の中にも(女性の心の中にも)ある男性性であり、ファティマ=女性というだけではなく、誰の心の中にもある女性性なのではないか・・・ということでした。



また、アルケミストの小説の中には、こんなことばが繰り返し出てきます:
「おまえがだれであろうと、何をしていようと、おまえが何かを本当にやりたいと思うときは、その望みは宇宙の魂から生まれたからなのだ。それが地球におけるおまえの使命なのだよ・・・何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」



これは、ガイダンス中、マイトレーヤからの言葉として出てきた、「あなたも愛に出会いなさい。あなたを満たす女性性の愛に。そのときにあなたは奪うものから与えるものへと変容する。あなたを完全に肯定してくれる宇宙の女性性の愛に、それは女性のなかにのみ見出されるという質のものではない。それはすべてのものの「宇宙の本質」に見出されるものだ。それをあなたのなかに見出し、それがあなたを肯定したときに、あなたは再び「英雄」に変容するだろう、そしてあなたが変容し「英雄」として、何も必要としなくなったときに、すべてが再び手に入るだろう。そうなったあとに宇宙の祝福を避けうにも、もうあなたは宇宙の祝福から逃れなれないのだ」というのと、強く強くシンクロしていて、びっくりでした。



で感じたのは、サンチャゴの生き方というのは、マイトレーヤやマスターたちが言うような「高潔な生き方」そのものだったのだな・・・と。そして、そのように生きるとき、サンチャゴは、ファティマという女性からの愛だけではなく、宇宙のすべての中に「ファティマ」的な愛を見出すことができるのだな・・・と。



トランスミッション当日、9時からお風呂に入りながらふと思ったことは、私の場合、どうも今までのパートナーシップの問題の根源は、女性性が傷ついているというよりは、男性性が傷ついていることに起因しているのではないか、ということでした。



実は、トランスミッションに参加する二週間ほど前、ベリーダンスの体験ワークショップに参加してきたのですが、そのとき、「ベリーダンスを踊るためには、女性的な柔らかさだけではなく、センタリングしてぶれない軸を立てるという男性的な強さが必要」ということで、「男性性と女性性の統合のための瞑想」というのをしました。そのときに私の中に出てきた理想の男性像を探るうえで、今までお付き合いしたことのある男性の共通の特徴を思い返していたところ、「フェミニンな男性」というか、いわゆる女性的な資質とされている「待つ、受容する、優しさ」といった要素の強い男性、そして私を自由にさせてくれる束縛しない包容力のある男性が好きだった、ということに気付きました。そのときは、あれ〜なんでだろう〜???と思っていたのです。



ですが、トランスミッション当日に気付いたことは、どうやら私の場合は、付き合う男性の中にある女性性に癒されたいと思う「内なる男性性」が存在しているようで、その内なる男性性が、フェミニンな要素の強い男性を求めているようだ、ということでした。つまり私は、「男性の中にある女性性に愛されたかった」ようでした!



さらに感じたのは、パートナーシップにおいて、男性と女性がお互いの役割を交換してもよいのではないか、ということでした。いつも男性が男性性のみを、女性が女性性のみを演じ続けると、男性の中にある女性性、女性の中にある男性性が、闇の中に沈んだままになってしまい、共依存というか、不完全になってしまうということでした。


ここでまたふっと思い出したのは、高村光太郎・智恵子夫妻の話です。「智恵子抄」で有名な芸術家夫婦です。光太郎と智恵子の愛は美しいものとして伝えられていますし、実際二人の間には愛はあったと思いますが、智恵子が精神的に病んでしまった理由の一つに、智恵子が芸術活動を探究することを、光太郎が認めていなかったというか、貧乏な芸術家夫婦として生きていく生活の面をすべて、智恵子にやらせていたことが原因だったらしいとも言われています。


智恵子の場合、女性性が傷ついているというよりも、自分の太陽(男性性)を探究することができなかったという、男性性の傷が発狂の一因になったのではないかと思えました。
あまり知られていないことですが、智恵子は「青鞜」(平塚らいてうの「原始、女性は太陽であった」で有名な女性による芸術雑誌)の創刊号の表紙を描いており、「解放された、新しい女性」であり、光太郎自身もそういう智恵子を応援していたのですが、結局結婚生活に入ってみると、生活という現実を目の前にして、智恵子に生活をすべておしつけることになっていったようです。


そういう後悔の思いもあって、智恵子が発狂するまでは自分が芸術活動だけに没頭していた光太郎は、智恵子が死ぬまでの数年の間、智恵子の好きなようにさせるための看病生活に徹することになります。精神を病んだ智恵子がせきをきったように大量の切り絵の作品をつくったことは有名ですが、そのとき光太郎は、自分の芸術活動は一切やめていたようです。まるで、この夫婦の話を思い出しながら感じたのは、どうもここで犠牲になっていたのは、双方の男性性(太陽)だったのではないかと、お風呂に入りながら思いました。



10時〜から瞑想というか、マスターたちの言葉を考えながら思い出したのは、お正月に見た「ベニスの商人」の映画でした。レディ・ポルシャが出てくる映画ですが、その中でポルシャは、夫とその友人を救うために、法律家の男性に変装して法廷に立つのですが、女性だけれども、必要な時には男性となり、自分のパートナーを守るということを示しており、ルネサンス時代の話ですが、男女が役割交換することも可能なのだというテーマも、このお話の中にはあるのではないかと思いました。(そういえば、サンジェルマンはシェイクスピアだったと言われていますよね!)



振り返ってみて、男性が内なる女性性を発揮することを、どこまで偏見なく受け止めているだろうか、ということも反省していました。たとえば、男性がケーキとか甘いものを食べるのはみっともないとか、男だから我慢してよとか、子供を育てるのは女性の仕事だからとか、そういうことも含めて、男性の中にある女性性を封じ込めているのではないか、そして自分の代わりに男性性だけを演じさせてはいないだろうか?と。



そして、自分は、自分の中にある男性性を最も信用していなかった!ということにも思い当りました。昔ローマの将軍をしていたときに、自分の判断ミスで部下ともども殺されたということもあったようで、どうも、自分の中にある男性性に自信がないためか、男性性を発揮すべきシーンを極度に避け続けてきたことも感じていました。それで、私に対して女性性だけを要求してくる男性をひき寄せ、結果として「支配されている、自由にさせてくれない」という恨みを持つことになっていたことも・・・。そして、「女性が自分の太陽(男性性)を生きると、男性に愛されなくなる」という間違った思い込みのパターンもあったことに気づかされました。



付き合っている男性が自己実現に向かってまい進しているのを見ると、私の場合「うれしい」というよりも、「うらやましい」とか、嫉妬とか、そういう気分になることが多かったのですが、それは、私自身が太陽を生きていないことに原因があったようです。



女性であろうとも、男性性(太陽)を生きることなくしては、人生の半分を捨てていることになるというということ、そして、それが結果として男性たちに、自分自身の太陽を生きるのではなく、女性たちが望むような太陽を生きさせてしまう(高収入だとか、世間的に認められた会社に勤めるとか、自分のそばにいさせるとか)ということになっているのではないかと、感じました。



よく、本当のパートナーシップに出会う前には、自分の中で男性性と女性性を統合させなくてはならない、と言われますが、そのことの意味が少しわかってきたように思います。



トランスミッション後、数日が経過しました。ヘビーな学びになるかと思ってドキドキしていましたが、感情の揺れはあったものの、なんというか、一回目のときよりも、少し受け止める余裕が出てきたように思います。

どうもありがとうございました☆